吐かずに飲み込んだゲロは辛い

俺はまだ、母親に納得してもらえないことを恐れている。
認めてもらえないことを恐れている。
「もう毎月3万を払わない」と言った日から、いやその前もほぼ同じだが、風呂に湯をためて入る度に、家に帰ってきた母親に「誰の金で偉そうに風呂なんかに入っとんね」と言われることを恐れている。

一人でいるときは、「ああ、払いたくないのが俺なんだな。」「したくないのが俺なんだな。」「じゃあもう、あとはそういう自分なんだとゲロるしかないんだな。」と思う。

しかし、ひとたび母やその他の人を目の前にすると、背中と肩は硬くなり、呼吸が浅くなる。「この人の了承を得なければならない」と無意識に思う。積年の防衛反応が警報を鳴らす。「自分の感情を認められるのは自分だけだ」「他人の了承は得なくてよい」という、厳しくも心地よい感覚は、その場で検索しなおすのが難しい場所に逃げ隠れてしまう。

今日、お互いに何か言いたげながらも表面上平和に済んだ食事の後、母が口を開いた。

「あなたはこれからどうするつもりなの?」

それを聞いて俺は、「どうするつもりなのかはお前に関係ねえだろ。お前としたのは『3か月後までに出ていく』という話し合いだけだ。その他にお前に説明しなければいけない詳細がどこにあるんだ?」という考えが沸いたが、言えなかった。それを言うことで、3か月後に引き延ばしたXデイが今日になることを無意識に恐れてしまったのだと、今振り返ると感じる。

「どうするつもりとは?」と聞き返すと母は、「お金を貯めてるの?」「出て行って、住む家を見つけてるの?」というような、一応実家を出ていこうとする息子にする問いとしては典型的な、しかし一方で、今さらされると何か粘着質な感じのする質問をしてきた。

ダイレクトに回答するなら、そもそも「どこかの家に住もう」とすら思っていないので、「家に住むつもりはない。そもそもひとまずは勤めて働く気もない。生活のことは今はどうでもよくて、いかに自分の本性と本心をゲロるかということしか考えられていない。」というのが正しい回答だ。

だが、その解答を思いついて、またもや「そんなんで生きていけるんね」「何もせずに人に頼って生きていくつもりなんね」「そんなのはおかしい」と叱責する母の顔が浮かんできて、それに対して自分を責めずに本心で答え続ける自信を失い、言えなかった。ものすごく悲しいというか、情けない気持ちになった。

今までもきっと、何かやりたいことや、やりたくないことが自分の中に湧いて出てきた時に、「それをやるなら、まずはここをちゃんとするべきよね?」「それをやりたくないなら、代わりにやらないといけないよね?」という、心の中の母の声に、ただ「NO」と言えないからというだけの理由でなかったことにしたり、選択肢から外してきたのだな、ということを思った。

本当は、母がなんと言おうが、金も払わず仕事もせず、ゲームばっかりやっていようが、VRゴーグルをつけて仮想空間に入り込んでいようが、自分しか入らないのに親の金で湯船にお湯をためようが、曲を作って人前で歌おうが、自由だ。

自分が何かしてあげるわけでもなく、仕事があるわけでもなく、かっこいいわけでもなく、デート代を出せるわけでもなく、なんならおごってもらうことしかできないとしても、人を好きになって、恋人になることも自由なのだ。

その代わり、そんな息子を見て、シャワーを浴びている時に給湯器の運転を止めたり、息子が住んでいる部屋の電気を止めたり、「出ていけ!」とわめいたりすることは母の自由だ。

「金も払えない人は嫌!」といって別れるのも、彼女の自由だ。

私と母の関係は、そんな自由を、お互いに奪い合っている関係なのだなと認識した。そして、それはどちらからでもやめられる。

私は、「こういうと母がこう言いそうだから、やめておこう」と自分の心に嘘をつくことで、母親がわめいたり、俺を水風呂に入れたり、俺のことを責めたりする自由を奪っている。

母は、「水道代ってどれぐらいかかるかわかる?」とか「何も払ってくれない人のために、なんで私が我慢しないといけんのかね?」とか「大学4年間、奨学金借りずに全部払ってあげて、おかげで今借金はないけど、ほんまだったらあなたが15年ぐらいかけて払い続けなきゃいけなかったのよね」と言うことで、俺に罪悪感を植え付け、申し訳なさによって俺から望む回答を引き出そうとしている。

「感謝しているから、お金を払おうと思います。出て行ってからは、自分で生活できるようにがんばって働こうと思います。」と俺に言ってもらおうとしている。俺の感情の自由、選択の自由を奪い、コントロールしようとしている。

これは、私と母が、僕が幼いころから繰り返してきたコミュニケーションのやり方だ。
こうして振り返ってみると、えげつないほど不健全で、いかついほど風通しの悪い親子関係だな、と思う。

子供の頃、家に遊びに行った時「やべえなこいつ」と思っていた、母親の要求に「うっさい」「いやだ」「死ね」と言えてしまっていたあいつの家は、実はめっちゃ健全だったということに気づいた。

「俺はいい子にしているから、こいつの家よりかなり大丈夫だな。お母さんも優しいし。」とか思っていた子供の頃の俺、実は誰よりもやばくて、誰よりもやばいと気づいてもらえない家庭だったのだなと思った。

いい子にする対象は、母親だけではなく、近所の大人から、親戚、先生、友達に至るまで、関わる人間関係すべてだ。

「うるせえ」とか「やだ」とか「やって」とか「やめて」とか、「そうは思わない」とか「俺はこう思う」とか、そういう、当たり前に沸いてくるものを吐き出さずに、胃の中にずーーーーっと溜めて生きてきたのだ。

小学生の頃から、特に中学を通過するぐらいのタイミングから、常にどこか「死にたい」と思って生きてきた。
人生というものが、「めちゃくちゃきついけどギリギリなんとかレールから外れないように踏ん張っていくと、それなりに安心して過ごせるようになるから、それまで頑張るもの」みたいに見えていた。
死ぬほどきついと思いながら、ギリギリ踏ん張った先が「それなりに安心」というヤバさに、当時は気づかなかった。

実際には、本来喉元まで上がってきて、口から吐き出されるはずのゲロを繰り返し飲み込んでいるうちに、いよいよ喉に上ってくるまえに胃に戻せるようになって、胃の中がゲロでいっぱいになっている状態だったのだ。「こんなにお腹が苦しいまま生きなきゃいけないのなら、なんでこんなに頑張って生きなきゃいけないんだろう。」という気持ちが、あの頃から続く「死にたい」だったのだなと思った。


上手く言えないなら、上手く言えないでもいいから、ゲロをちゃんと、隠したり綺麗に整えたりせずに、素直にそのまま吐きたい。
ちょっと日和って、相手に伝わるように言おうとしたり、否定されるのを恐れてちょっと抑えたりすると、一度出てきたゲロがまた食道に戻っていくのだ。

それは、最初から吐かないことより悲惨になったりもする。
飲み込んだゲロは、食道を傷つけて戻っていくのだ。

ゲロを吐いて、人に攻撃されたり、誤解されたり、蔑んだ目で見られたり、人が離れて行ったりすることは怖い。
でも、そうなったときに、一度口まで出てきたゲロを引っ込めてしまうことも怖い。

吐くなら吐いて、気持ちよく嫌われたい。

何故、「お母さんに理解されない」ことってこんなに怖いんだろう。

表面的には、お母さんの発する言葉がちょっと鋭くなったり、関係性がニコニコしたものではなくなる可能性があるだけだ。
でも、「お母さんに理解してもらえない」って、ものすごく寂しく感じる。

先日、坂爪圭吾さんの日曜礼拝に参加した際、「母性という肉の塊」についての話を聞いた。
ある少年が、セラピストのもとを訪れた際、「母を尊敬している」と言った。その言葉に違和感を感じたセラピストが、少年に最近観た夢について尋ねたところ、「全身が巨大な肉の壁に埋まって抜け出せなくなり、押しつぶされる」という回答が得られた。それを聞いたセラピストは、その肉の壁は「母親の母性による支配に対して少年が感じているものだ」と直感したという話だった。

母性は、「ありのままでいい」とか「安心」とか「助ける」とか、そういった優しさや温かさという属性を持っている。と思う。
しかし、それは度が過ぎると、「これ(与えられる母性)がないと、自分はダメだ。」「これがないと私は生きていけない」という思い込みや恐怖感を与え、自分の力で生きる気力を奪ってしまう。

不健全な母性は、「あなたは私のがいないと生きていけない」というメッセージによって相手を無意識に支配しようとする。そうすることで、「私がいなければ生きていけない人が存在する」という事実を作り、自分を認めようとする側面がある。

私はおそらく、母親の母性の肉の塊に支配される安心感に慣れてしまっているのだと思う。だから、この苦しくも温かく、不健全だけども表面上は安心な現状にどっぷり浸かって、出るのが怖くなっているのだと思う。

母親の保護ではなく、母親の承認がなくなることの方が怖い。
今まで自分を承認するのに、母親や他者の承認を利用してきたからなのだと思う。


ゲロを出すには、最終的に勇気を出すしかない。
勇気は、人によってあったりなかったりするものではなく、その時「出す」と決めるものでしかない。しかし何故か出せてしまう時と出せない時がある。

自分の場合は、「こうだから出すしかないよね」「こうだから出すのっていいよね」という、自分なりの答え的なものが言葉になった時に出しやすい。

「死なない」と分かった時ではなく、「死ぬとしてもやるだけの価値がある」と分かった時に勇気が出る。

「本音を言うしかないのはわかるけど、怖い」と悩んでいた時の自分は、ある女性の「嫌な時に嫌だって言えないのは、風通しのいい関係とはいえないよね」という言葉によって「確かに」と思い、勇気が出た。

怖くて母のいる部屋に続くドアを開けられなかった時には、友達の「私は、そんなわがまましか言わない自分を『またやっとるわ、でも今日も生きとるなぁ』と可愛く思う自分も持っている。」という言葉によって、「確かに可愛いわ」と思ってドアを開けられた。

「怖いけど、確かにそれはやるべきだわ」「怖いけど、これはいいわ」と思った時、怖さが減ったように感じた。

一人でいると、同じことばかり考えてしまう。同じ考えの円から出られない。人に話すと、いい影響でも悪い影響でも、円に穴をあけることができる。

相談して、「まだやってないんか」と落胆されることや、的外れなアドバイスを受けて軸がぶらされることは怖い。
「やるしかないんじゃ」と言われて、「そんなんわかっとるけど」と自分を責めだすのではないかという心配もしている。

でも、今自分に必要なのは、誰かにまたヘルプを出すことなのかもしれないと思っている。

今日は戻りゲロで胃がぐるぐるなのでここまで。

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