11/カンボジアの伝統的な結婚式は想像を遥かに超えていた
シェムリアップにいた時に知り合いになった、なりた君という青年がいました。
東南アジアを旅していて、その後イタリアに料理の勉強をしに行くとのことでした。
彼はその夢を叶えて、今もイタリアでシェフとして活躍しています。
ある時、なりた君から一通のメールが届きました。
どうやら、ポイペトでたまたまレンに会ったというのです。
そして、私に伝えてほしいと言われたそうです。
レンの結婚が決まり、結婚式があるとのこと。
もし可能なら、ぜひ出席して欲しいとのことでした。
但し、シェムリアップではなく、地元のコンポンチャムで式を挙げるので4日前までにはシェムリアップに来てくれないかということです。
実際の日にちまで3週間あったでしょうか?
少し悩んでから、まどかに連絡をしてみました。
まどかは、オーキデーに泊まっていた時に知り合った名古屋の大学に通う学生です。
すると、ぜひ行きたいとの返事が返ってきました。
それならばと、一緒に行くことになりました。
一旦、まどかが日本からバンコクまで来て、うちに泊まって翌日シェムリアップへ向かうことに。
但し、学校の都合でまどかが来られるのが、レンの言っていた日にちより1日遅れてしまいます。
急いで、なりた君から聞いたレンのアドレスにメールで状況を伝えると、レンも気にしてメールを確認してくれていたようで、なんとか連絡を取ることができました。
その時点で、実家への行き方を教えてもらいます。
他に方法がないので、二人だけで行ってみることにしました。
まずは、予定通りまどかがバンコクまでやって来て、翌日の朝いつもの国境へ向けて出発します。
何度目かなので、問題なくシェムリアップに着くことはできました。
その日はシェムリアップに泊まって、翌日二人だけでレンの実家に向かいます。
この時に教わっていたことは、コンポンチャムのメコン川に挟まれた中州ということだけでした。
シェムリアップからプノンペンへ向けて南下すると、突き当たる分岐点があります。
それまでにも何ヶ所か分岐する道があるのですが、それではなく突き当たるところまで来て欲しいとのことでした。
そこで降りて、今度はそこに停まっているバイタク(バイクタクシー)に乗り換えて、左の道をそのまま真っすぐ来てくれとのことです。
それだけで本当に大丈夫なのだろうか?と心配になりながらも、それを頼りに行くしかありません。
しかも、一往復のメールを一度交わしただけでした。
大冒険も大冒険です。
言葉が全く通じないのと、何も目印がないのですから。
それでも約束したし、一人じゃないからなんとかなるだろうと向かうことに。
まずは、いつものようにシェムリアップからピックアップトラックに乗り込みます。
この時は、二人で後ろの座席に乗りました。
これがまた酷かった。
最初、まどかが左側の窓際に座って、その隣に私、そして私の隣にカンボジア人の細いおじさんが座っていました。
反対側の窓側には、カンボジア人の年配の女性です。
この二人は知り合いではないようでした。
4人なのはいつものことなので、狭いことは覚悟していました。
そして、このおじさんの左の腕が悪いようで、袖から手が出ていませんでした。
それ故に、右手で左腕の肩と肘の間あたりを常に支えていたのです。
この頃のカンボジアには、地雷によって片腕がなかったり、片足のない人が大勢いました。
かわいそうだなと思いながら、2時間くらい経った頃でしょうか。
なんとなく、私の右の脇というか胸に手が当たり始めたのです。
ピックアップトラックの後ろに4人なので、腕を両脇につけてなんて座れません。
皆んな腕を前にもってくるようにして、それこそ重なりあうように座っているのです。
しかも一度体制をとると、そうそう簡単には動けないほどの状態です。
最初は勘違いかな?とか、道が悪いのでもの凄く揺れるなか、たまたま当たったのかなとか、手が悪いのに確信もなくそんなことを思うのは悪いなとか、色々と考えながらやり過ごしていたのですが、そのうちに確実に当たっているのがわかったのです。
バンピングロードなので、たまたまということもあります。
だからこそ最初は偶然かもとか、たまたまかもと思い過ごそうとしていたのですが、やはり違うのではないかと思い始めました。
そこで、まどかにそっと伝えます。
私たち以外は誰も日本語がわからないので。
それを聞いたまどかが、次の休憩の時に試しに席を替わってくれると言ってくれました。
私が黙っているからか、段々とエスカレートしてくるようで、まどかにホラと目で合図したりしながらなんとかやり過ごし、休憩を機に私とまどかが入れ替わりました。
まどかは私よりも背が低かったので、座高の位置が変わったことや、もしかしたら私たちにバレたかもと思ったのか、それ以来まどかが触られることはありませんでした。
それはそれで触られずに済んでよかったけれど、それまでずっと右手で左腕を抑えていたのに、それ以来右手で抑えることもなくなったのです。
おいおい、腕がおかしかったんじゃないんかい!
実際に腕が悪いことは確かでしたが、私は車の中で痴漢されていたということがわかったのでした。
複雑で最悪な気分でした。
でも、今さら証拠もないし、言葉も通じないし、騒いだところでどうにもなりません。
その後、「紛らわしいことすなー!!」と日本語で文句だけは言わせてもらいました。
そんな思いをすることもあったけれど、何とかレンから教えてもらっていた突き当りまでたどり着くことができました。
そこでピックアップトラックを降りて、言われていた通りにバイタクの運転手に左の道を真っすぐ行って欲しいとだけ伝えます。
聞いていたのは、そこまでです。
どこまで真っすぐ行けばよいのかもわかりません。
今思えば、何も目印がないからそうとしか言いようがなかったのでしょう。
でこぼこ道な上に荷物も持っているので、一人1台ずつバイクに乗ってひたすら真っすぐな道を走ります。
合っているのかどうかもわからないし、確認のしようもありません。
もし間違っていたとしても、その後どうしてよいのかもわかりませんでした。
聞くことすらもできないし。
どのくらい走ったでしょうか。
1時間はとっくに過ぎています。
それでもしばらく行くと、道のずっと向こうの方にかすかに人がいるのが見えてきました。
段々と近づいていくと、レンとDaでした。
Daは、オーキデーにはいなかったけれど、パンナやレンの友達で何度か会ったことがありました。
もう、この瞬間どれだけホッとしたことか。
とにかく間違っていなくてよかった。
彼らは、お昼頃からずっとただひたすらこの場所で待っていてくれたのだそうです。
実際に私たちがたどり着いたのは、3時はとっくに過ぎていたと思います。
私たちがいつ来るかわからなかったので、お昼を境に私たちが来るまで待っていたとのことでした。
時間にして3時間以上です。
よくもまあ、何もない道の真ん中で炎天下のなか待っていてくれたと感謝するよりありません。
そこから、レンとDaのバイクに乗って、さらに真っすぐな道を進みます。
この時点で、土埃だらけなのは言うまでもなく、、、。
しばらくいくと、メコン川が見えて来ました。
川には車やバイクが乗せられるフェリーが止まっています。
フェリーといっても、鉄でできた柵が付いている程度のものですが。
これにバイクごと乗せて向こう岸に渡ります。
こうしてやっとレンの実家、メコン川に挟まれた中州にたどり着いたのでした。
レンの家に着くと、こにしきや何人か顔を見たことのあるカンボジア人がいました。
とにかく埃だらけになったのでシャワーを浴びたいのだけれど、水は雨水を瓶に貯めた分だけしかありませんでした。
これから沢山の人の出入りがあるので、水だって貴重です。
仕方ないので、メコン川で沐浴することになりました。
人生初めての川での水浴びです。
ただ、水ではなく、赤茶色した泥水でした。
しかも、向こうの方で水牛も水浴びしています。
そこで、一旦考えました。
もし式の翌日に帰れたとしても、今日を入れて3日はあります。
もしかしたら、翌日に帰れないかもしれません。
そうなると、4日間です。
すでに土埃だらけだし、汗もかいています。
入った方がよいのか、入らない方がよいのか、どっちがマシなのか。
しかも、結婚式もあるのです。
どちらにしても、3日もこの状態ではいられないだろうとの結論から、あきらめてメコン川で沐浴することにしました。
私たちだけでなく、レンやDaやこにしきたちも一緒でした。
カンボジア人にとっては、なんてことのない日常のようでしたが。
カンボジア人の女性は布を巻いてそのまま水浴びをするので、私たちもレンの家で借りてきた布を巻いて入りました。
夕方ちょうど陽が落ち始めて、メコン川に陽の道ができてとても綺麗です。
大きな夕陽がメコン川に沈んでいく姿は、それはそれは雄大で心打たれる景色でした。
でも、もたもたしていて陽が落ちてしまうと真っ暗になってしまうので、陽が落ちきる前に水浴びを終わらせなくてはなりません。
身体はなんとか洗えましたが、今度は頭です。
顔をつける勇気はなかったので、首を伸ばして頭を思いっきり後ろに垂らすようにしたり、顔をさけて左右に髪の毛を垂らしながら髪の毛だけを川につけるようにしてなんとかシャンプーを洗い流しました。
最後に顔をどうしようかと思って悩んだのですが、ここまでしたらもう一緒かという気になってきて、川の中にこそはつけなかったけれど、川の水で顔を洗って水浴びを終えました。
すると、今度は皆んなが洗濯をしていました。
そっか、今日来ていたTシャツを洗っておこうと、私も皆んなのまねをして洗うことにしましたが、結局白いTシャツがうっすら茶色くなってしまいました。
Tシャツに関しては、乾いてからも匂うし色もついてしまったので、洗わなかった方がよかったという結論になりましたが、すでに手遅れです。
かといって洗わないまま着ることもできないので、それもそれであきらめるしかありません。
何ごとも経験あるのみです!
しかも顔を洗ってからしばらくすると、顔がピリピリして痛くなったので、それ以来顔だけは瓶の水で洗わせてもらうことにしました。
やっとの思いで沐浴と洗濯を終え、皆んなでレンの家に戻ります。
夜になって、近所の人たちが集まって来ていました。
家の中に入ると、村の長老たちがお米から作ったお酒を飲んでいました。
そこで、レンに一つだけお願いされました。
挨拶をして欲しいと。
但し、気をつけて欲しいのが順番とのことでした。
挨拶と言っても、クメール語で教えてもらったものを繰り返すだけでしたが、挨拶する順番が決まっているので、それだけ間違わずに一人一人に挨拶して欲しいとのことです。
要は、村長さんなど村で一番偉い人から順に挨拶するということでした。
レンに倣って、順番に挨拶をしていきます。
私たちの喋るクメール語なんて、きちんと発音されていなかったと思うけれど、なんとか滞りなく挨拶を終えることができました。
とりあえず、レンに恥をかかせなくてよかった。
こうして、カンボジアの結婚式の前夜祭が始まったのでした。
正式には、結婚式の3日前から前夜祭が始まっていました。
そういうこと故に、4日前までにシェムリアップに来てほしいと言っていたのだと、この時になって初めて理解できました。
今回初めてカンボジアの伝統的な結婚式に参列することになりましたが、実際に出席してみて驚くことばかりでした。
この時までは、カンボジアの結婚式がどれほど凄いか微塵もわかっていませんでした。
レンに聞いたところによると、レンのお母さんとお嫁さんのお母さんとが仲が良かったそうで、いわゆる許婚ということのようです。
年頃になり本格的に話が決まると、まず最初にエイズ検査をするそうです。
こういうことも、この頃のカンボジアならではでないかと思います。
それだけ、エイズが身近だったのでしょう。
それで問題がなかったら、その先の結納に進みます。
ここからは、お互いの家族がわかっているので話が早かったそうで、どうりでそれまで聞いたこともなかった結婚の話がいきなり浮上してきたわけです。
ただ、ここで驚いたのが、レンも奥さんも一度も顔を合わせていませんでした。
それでも、親が決めたら結婚するのがカンボジアの慣わしです。
本当に昔の日本のようです。
いや、日本でも顔くらいは見たのではないかと思うのですが。
結婚式当日になって、初めてお互いに自分のお嫁さん、お婿さんの顔を見ることになるなんて、私には想像もつきません。
そして、結婚式の当日は24時間で、式が終わった後も近所の人たちが入れ替わり立ち代りお祝いと称して飲みに来るのをもてなします。
式も式で、数々の儀式が行われ、その度にお色直しをするので、衣装だけでも7、8回は着替えていたのではないでしょうか。
順序が逆になってしまいましたが、まず遡ること3日前の夜から前夜祭が始まるとのことでした。
私たちが挨拶したように、村の長老が集まって来て挨拶をし、皆んなにお祝いのお酒を振舞うところから始まります。
それが三夜続いて、やっと当日を迎えます。
当日の朝は、早くから婚礼衣装を身につけ、新郎新婦各々にサポートをする3人ずつのブライズメイドが付きます。
これは、従兄弟だったり、友達だったり、本人が選べるようです。
そして、朝6時頃には自宅を出発し、お嫁さんの家まで大名行列を作って迎えにいくのです。
村中をあげての結婚式というわけです。
お嫁さんを連れて自宅へと戻り、式が始まります。
そして、お坊さんが儀式を色々と執り行います。
この時に初めて顔を見るそうです。
ただ、びっくりするほどのお化粧なので、正直言って素顔の想像もつかないのではないかと思うけれど、、、。
こうして本格的に式が進んでいくのですが、本当に数々の儀式があり不謹慎ではあるけれど、これだけのことをしたらちょっとやそっとのことでは離婚なんてできないよね、と思ってしまいました。
もしかしたら、実際にそういう意味もあるのかもしれません。
その間にも何度となく衣装を替え、ようやく夕方になって一頻り儀式を終えた後に、またもや衣装を替えたかと思うと今度は披露宴が始まります。
この披露宴が翌朝まで続きます。
ここからは体力勝負としか言いようがありません。
すでに3日前から始まっているのですから。
さすがに私たちも途中で切り上げましたが、レンはその後も頑張っていたようです。
外国人は、私たちの他に一人だけドイツ人の女性が式に出席していました。
彼女は、レンがオーキデーの後に働いていたゲストハウスに泊まりに来たお客さんでしたが、ここまで一人でやってきました。
私たちは、最終的にレンたちに迎えに来てもらいましたが、彼女はクメール語の辞書を片手に自力で探してたどり着いたそうです。
さすがです!!
レンたちもびっくりしていました。
そして他にも驚いたのが、普段はお化粧なんかもしないし着飾ることもないカンボジアで、結婚式だけは参列者の女性たちも見たこともないほどに着飾って、お化粧もきちんとしていたのです。
普段着で出席していたのは、私たちだけでした。
普段着でいいという言葉をそのまま受け取り、しかも例の悪路を移動しての参加なので仕方ないと思っていましたが、逆に目立つこととなりました。
この後、プノンペンでもシェムリアップでも何度となく結婚式に出席することがありましたが、やはり都会になればなるほど簡素化されつつあり、この時ほどまでに厳粛な結婚式に出席したことはありませんでした。
このずっとずっと後になってですが、レンと飲みに行った時のことです。
この時、初めて話してくれたことがありました。
実は、とても好きな人がいたと。
彼女はオーストラリア人で、元々はオーキデーに泊まったことが縁で知り合った旅行者だったとのことです。
その後、彼女が何度もカンボジアに足を運び、遠距離ながらも交際が続いていました。
両親に結婚の話をされた時に、意を決して彼女に打ち明けたそうです。
結婚したいと。
それまでもきっとそう思っていたのでしょう。
けれども、現実的に立ちはだかる壁が高すぎて、本音を言えないまま遠距離恋愛を続けていたようですが、時間と共に少しずつ距離ができ始めていた頃だったそうです。
ずっとそう思っていたけれど、経済的な問題をクリアする手立てもありません。
かといって、彼女のご両親を説得するだけの材料も見当たりません。
それでも、伝えないまま後悔したくなかったのでしょう。
その後、彼女が会いに来て正式にお別れしたそうです。
それ以来一度も会っていないとのことでした。
彼女も彼女なりに、相当悩んだと思います。
だからといって結婚したところで、カンボジアで生活していくには数え切れないほどの問題を乗り越えなくてはならないのです。
私がこの話を聞いたのは、レンが結婚して10年ほど経ってからのことでした。
やっと、彼の中で人に話せるまでになったのかもしれません。
今なら、カンボジア人の国際結婚もめずらしくなくなりました。
当時のカンボジアには、外国人の私たちには理解し難いほどの、慣わしがあり、風習があったと思います。
この話を聞いた時は、なんとも言いようのない胸の苦しくなる思いでした。
レンはいま、3人の娘に囲まれ家族仲良く暮らしています。
※情報に於いては年月の経過により変わりますので、どこかへ行かれます際には、現時点での詳細をお調べいただきますようお願いいたします。
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