09/バンコクが大都会だったということに気がついた
バンコクへ帰る日が決まり、その前にパパさんの自宅で皆んなで送別会をしました。
この時は、ホンの奥さんと赤ちゃんも一緒でした。
生まれたばかりの可愛い女の子でした。
本当に楽しかったし、よく笑いました。
もちろん、写真も撮りました。
ただ、例のごとく夜は自家発電なので全体的に暗いから画質が悪かった。
そんなのも良い思い出です。
今思えば、初めてオーキデーを見た時も薄暗く感じて、泊まろうかどうしようかと迷ったことを思い出します。
疲れていたとはいえ、あの時他に行かなくてよかった。
国境でパンナが声をかけてくれてよかった。
すべての出来事が重なり合って、こうして皆んなと出会うことができました。
そして、こんな最高の夏休みを過ごすことができました。
オーキデーで過ごした夏休みは、一生忘れません。
シェムリアップを離れる当日の朝がやってきました。
パンナとアダムが国境まで送ってくれることに。
一気に皆んなと離れるよりも、徐々に少なくなっていく方がありがたい。
そうでないと、ポイペトまでのピックアップトラックでの移動中、どうしていいかわからなくなるから。
最後の見納めと思いながら、道中を目に焼きつけます。
私の大好きな光景です。
写真も撮りたいのだけれど、ファインダー越しに見るのがもどかしくて、写真撮るのを辞めました。
自分の目と心に写しておこう。
だから、あんなに皆んなの写真はあるのに、一番好きな風景の写真はほんの数枚しかありません。
こんなに変わってしまうのなら、もう少し撮っておけばよかったかなとも思うけれど、あの時は自分の目で見ることの方が大切だったから。
あかねは、元々3ヶ月間の短期語学留学の予定でした。
この後、アメリカにドックトレーナーの勉強をしに行くことになっていました。
たまたま先方の都合でアメリカ行きの日程が遅れ、今回ギリギリまでいられたのです。
あかねと一緒に過ごせる残り少ない大切な時間でもありました。
それに、パンナとアダムとも。
だから、ファインダーを覗いて一人の世界に時間を費やすことが勿体なかった。
最後の貴重な4人での時間を、最後の最後まで笑って過ごしました。
こうやってピックアップトラックの荷台に乗ることもそうないだろうな、と思いながら6時間以上をかけて無事にポイペトに着きました。
滞りなくタイのイミグレーションを通過し、ここからはタイ国です。
さあ、最後の挨拶をします。
二人とハグをして、メールを送る約束をして別れます。
後ろ髪を引かれるとはこういうことをいうのだと、この時初めて体験しました。
淋しいけれど、いつまでもいられるわけではないので、気持ちを切り替え今日からまたバンコクでの生活を始めます。
学校にも行かなくちゃだし、部屋も掃除しなくちゃだし、と少しずつ現実的なことも考えながらバンコクに近づいていくと、今までいた世界がうそのように思えてきました。
バンコクの高速道路から眺める景色は、いままでいたカンボジアでの生活が霞むほど大都会でした。
なんだか違う世界にやって来たような気分です。
まどかと泰造がバンコクを2位に位置づけたのも、わかったような気がしました。
さあ、明日から、また頑張ろうっと!!
週末を挟んで、掃除したり、洗濯したり、後片づけをしたり、写真を現像に出しに行ったり、松本さんに報告したり。
少しずつバンコクの生活が戻ってきます。
週明けから学校にも戻り、普段の生活が始まりました。
けれど、あかねもいません。
なんだか気が抜けたような感じになりました。
そうしてからどのくらい経った頃でしょうか。
ある日、部屋を借りる時にお世話になった日系の不動産屋の社長から電話がありました。
日本の某建築会社の自社ビルのワンフロアに、建築会社とこの不動産屋との共同事業として日本人専用のレンタルオフィスを作ることになったので、そこで働かないかという提案でした。
学校に通っているので、午後からで構わないからとのことです。
こちらからしたら、願ってもいないお話です。
お客さんが日本人なので、日本語での対応が必要とのことでした。
その他のスタッフは、不動産屋から派遣されて来るタイ人なので、タイ語もしくは英語でのコミュニケーションができればよいとのことです。
しかも、このビルが学校のすぐそばだったのです。
断る理由がありません。
こうして、午前中に学校へ行き、その後仕事先へ向かうという生活が始まりました。
ここに派遣されてきたタイ人は、男性と女性の社員が一人ずつでした。
男性の名前は、Joさん、女性はYingさんです。
タイ人は本名がやたらと長かったり、外国人には発音しずらかったりするので大抵がニックネームを持っています。
家族や職場でも、その名前で呼ばれることが一般的です。
Joさんは、2年ほど日本語を習っていたので日本語が上手でしたが、英語はしゃべれません。
Yingさんは英語がしゃべれましたが、日本語は習い始めたばかりのようで、片言ならわかるようでした。
それ故に、お客さんとは日本語で話し、Joさんとは日本語か片言のタイ語、Yingさんとは英語が主流で、たまに日本語とタイ語が混ざるというなんとも複雑なコミュニケーションの取り方になりました。
Joさんも日本語がしゃべれるとは言え理解できないことも多々あるので、お客さんの言ったことをさらに日本語で噛み砕いて説明したり、もしくはYingさんに英語で説明したのをさらにタイ語にして伝えてもらったり。
私もタイ語は片言しか話せないけれど、聞くのはわかるので二人がタイ語で話しているのを理解し、Yingさんも日本語は少ししか話せないけれど、私とJoさんの日本語での会話を聞いて理解したり、その時々で誰かが通訳したりしながら滞りなくやっていました。
そのうちに、一つの文章の中にタイ語と日本語が混在していたりと段々とオリジナルな言語になっていきました。
普段は三人でしたが、たまに本社の不動産屋の行事に呼ばれたり、そうしているうちに本社に勤めるタイ人スタッフとの交流もできて、タイ人の友達が徐々に増えていきました。
また、レンタルオフィスを借りている会社には必ずタイ人スタッフがいたので、そのスタッフたちともお昼休みに一緒にランチに行ったり、Yingさんの友達とも仲良くなったり。
それまでの生活とは一変して、タイでの生活がもっとローカルに根付いたものになっていったのです。
この頃のタイは、日本の自動車メーカーの部品などの日系企業の工場が、バンコクから車で1時間くらい離れた一帯に沢山できてきていました。
日本から派遣された日本人が最初にレンタルオフィスに事務所を構え、その後工場ができてからそちらに移って行ったり、個人でビジネスを始めようとタイに来たけれど、タイ語が話せないのでレンタルオフィスを借りたりなど様々でした。
私たちの仕事は、レンタルオフィスを見に来た人を案内してシステムを説明したり、また秘書や社員の募集や面接を手伝ったり、弁護士や税理士を紹介したり、日頃のオフィスの管理をしたりと多岐にわたっていました。
オフィスが埋まってくると、最初の頃にはなかった問題も起きてきます。
インターネットを繋げたいけれどどうしたらいいかだとか、時には繋がらないので確認してくれないかだとか、いわゆるIT系の問題です。
そういう時には、建築会社に勤務していたシステムエンジニアのKittiさんにお願いしていました。
これを機にKittiさんとも仲良くなり、仕事帰りに4人でご飯を食べに行ったりなど、日本で会社勤めをしている時と変わらないような生活になっていきました。
しかも、日曜日はレンタルオフィスに入っている会社もお休みだったので私たちも休みでしたが、土曜日はやっていたので週休1日でした。
それなので、時々まとまったお休みをもらっていました。
そんな生活にも慣れた頃に、Kittiさんが数日間の休暇を取って実家に帰郷することになったのです。
彼は、バンコクをずっと南に下ったサムイ島への玄関口でもあるスラータニー出身でした。
お姉さん夫婦がサムイ島に住んでいるとのことで、スラータニーとサムイ島に行くとのことです。
そんな機会を私が逃すはずがありません。
私も休暇をもらって一緒に行くことにしました。
サムイ島へは随分前に一度行ったことがありましたが、久しぶりにタイ国内を旅行するいい機会です。
バンコクを夜出発の夜行バスでスラータニーまで行き、Kittiさんのおばあちゃんに会ってから船でサムイ島まで移動します。
タイのバスは、カンボジアとは比べ物にならないほど充実していました。
むしろ日本のバスよりも快適でした。
VIPバスだと座席も3列でほぼフラットになり、おしぼりと水とお菓子が付いていたり、休憩がてら途中のレストランに寄って食事も付いています。
船だって大きくて立派な船でした。
昼間はKittiさんのお姉さんの家で皆んなで過ごし、夜はお姉さん夫妻の友達が経営していた家の近くのゲストハウスに寝泊りしました。
2泊ほどしてKittiさんは先にバンコクに戻ることになり、私はもう少しお休みをもらっていたのでタオ島に寄ってから帰ることに。
サムイ島とパンガン島には行ったことがあったけれど、タオ島だけは行ったことがなかったからです。
その時に、ゲストハウスのオーナーの友達がタオ島で宿をやっているからと紹介してもらったのがSimple Life Villaでした。
こうして、このタオ島のSimple Lifeでの旅が、またまた忘れられないものとなるのでした。
※情報に於いては年月の経過により変わりますので、どこかへ行かれます際には、現時点での詳細をお調べいただきますようお願いいたします。
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