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【大衆小説】夏から夏へ ~ SumSumMer ~ 第3回

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 第三譚  三 年 生 編 

*初めてのクラス替えの話

 3年生になると、ぼくは若干じゃっかん1、2年生のクラスに飽きていたこともあり、待ちに待った初めてのクラス替えが行われた。この頃、大葉小のあるあすみが丘には、『人口バブル』が到来とうらいしており、どんどん人口が増え続けていた。

 千葉市自体が人口100万人を突破するのではないかと言われており、たびたび景気のいい話が聞こえてくるのであった。その影響もあって、今まで3クラスだったものが、4クラスに増やされることになり、更に来年には大葉小の近くに『第二小学校』が創立されるという。

 ぼくは幸い大葉小の方の校区に入っていたのだが、同級生の3分の1くらいは、そのことで転校することになる予定だった。クラス替えや学校の分化で、友達と離れ離れになってしまうという不安があったもののの、それにともなって新しい友達ができることへの期待もあった。

 教室の廊下に張り出された表の中から自分の名前を見つけ出すと、どうやらぼくは4組になったようだった。だが、2年生まで仲良くしていた、はいの、おおのくん、もっちゃんは同じクラスになっておらず、そのことでかなり心細かったのを覚えている。

 席についてホームルームが始まるのを待っていると、担任の先生がやって来た。この先生は30代半ばくらいの年齢で、たかた先生とは正反対の、なんだかプライドが高そうで怖い雰囲気ふんいきの先生だった。不安はあったけど新生活に胸をふくらませた一日だった。

 

 

*大きな声、出さないでの話

 3年生の時に担任になった先生は、わりと性格がきつく、ものをはっきり言うタイプの人だった。優しいたかた先生に慣れていたぼくは、この先生がどうしても好きになれず、同じように考えている子たちと、よく愚痴ぐちを言っていた。

さらに、この先生はかなり『えこひいき』をするタイプの人で、自分の好きな生徒には甘く、気にいられていない生徒には厳しく当たるのであった。その中で特に先生のお気に入りだったのが、ぼくが同級生だが、よねぱい(米山先輩)と呼んでいた米山くんだった。

彼は身長は小さめだったが、ちょっと色黒の猿顔で顔立ちが良く、女の子から人気があるような子だった。そんなある日、ぼくが掃除の時に友達と話していると、

「もう、おかもとくんは、どうしてそんなに大きな声を出すの?もっと小さな声で話しなさい」と言われてしまった。

 ぼくとしては特段大きな声で話していたつもりはなかったので、

「えっ、先生。みんなと同じくらいだよ」と言ったのだが、

「嘘をつくんじゃありません。よねやまくんの声と比べて明らかに大きかったわよ」

 と大きな声で怒鳴られてしまい、そこからは何も言い返せなかった。そして、それからぼくは大きな声を出すのが怖くなってしまって、母に相談して声を小さくする手術が大学病院で受けられることを調べたり、それからは先生の前では口数が減ってしまったりと、変に気を遣うようになってしまった。

これは明確に『トラウマになった』ということであり、まだものの分別ぶんべつがついていないような子供をしかる時は、頭ごなしに言うのではなく、理由や状況などを伝え、絶対にヒステリックに怒鳴るようなことはしないであげてほしい。

このことがあってから、ぼくは先生の前では委縮いしゅくして話すようになってしまった。ただ、他の男子もよねぱいと比べられて理不尽に怒られることが多く、人は時に『善悪ではなく、好き嫌いでものごとを判断する』ということを身をもって学んだ経験でもあった。

 

 

*たっちゃんとの話

 3年生になって初めてのクラス替えの後、高宮たかみや 雄彦たけひこくんという子と仲良くなった。3年生になってからは、ほとんどその子と遊んでおり、彼の家に行って『ヨッシーアイランド』という本来は一人用のスーパーファミコンのゲームを交互にやったりしていた。

また、その子の家には『プレステーション』があったので、『クラッシュバンディクー』や『ファイナルファンタジー7』を彼の姉がやっているのを見たりしていた。

2番目のお姉ちゃんがプレステの『メモリーカード』を買いに行く時に貸してもらったことがあったのだが、当時まだ新しかった3Dの画面を見て凄く感動したのをよく覚えている。

 あと、たっちゃんは何かの病気で脚が悪かったようで、今までに2回『右足のすねの部分』を手術していて、今後もう一回手術を受けないといけないと言っていた。

 手術の時に看護婦さんから、「痛いのに泣かないでえらいね」と言われたらしく、そのことをたまに嬉しそうに話してくれていた。このちょっとした自慢話を聞く度に、ぼくが幼少期に看護婦さんを監獄かんごくさんと言って、入院していた際に笑いを取っていたことを思い出したりもしていた。

 たっちゃんは背の順では真ん中くらいだったのだが、前の方の子と仲が良かった他の子と密約みつやくして場所を代わってもらい、ぼくの前に来るようにして、いつもいろいろしゃべっていた。しゃべり方がかわらしい感じで、怒るといつも口で

「ピキっ」

と頭の血管が切れるような効果音を言っていた。今までの友達も仲が良かったのだが、ぼくにとって初めて『親友』と言えるような友達であった。

 

 

*たっちゃんの弟の話

 たっちゃんの家は6人家族で、お父さんとお母さん、姉が二人、弟が一人いるという家族構成だった。その中でも印象に残っているのが、弟のたつひろくんで、その子はいわゆる知的ちてき障碍者しょうがいしゃの子で、家に遊びに行った時にビデオテープを巻き戻して何回も同じシーンを見ていたのをよく覚えている。ぼくは一度、

「これって何やってるの?」とたっちゃんに聞いてみたことがあったのだが、

「いっつもこうやって見てるんだ。同じところを100回くらいずっと。たつひろにはこれが楽しいみたい」

 少し悲しい表情だったが、彼の家族は皆、たつひろくんを優しく見守っているようだった。身近にそういう子がいなかったので少し珍しいと感じたが、ぼくらが子供の頃にはいわゆる『差別さべつ意識いしき』というものをむしろ嫌悪するようになっていたので、他の子と同じように接することができていた。

 

 

*やべくんとのゲームの話 透視の前に送る?

 3年生の矢部くんという子とたまに遊んでいた。この子はたっちゃんの次に仲が良く、お互いの家に遊びに行ってテレビゲームをやることが多かった。やべくんは冬になるとイソジンでうがいをしていて、

「これは上級者向けだから、飲んだら危ない、よその子には使わせちゃダメだって親から言われている」

 と言ってぼくには使わせてくれなかった。だけど、それはぼくを嫌ってのことではなく、本心からぼくを気遣ってくれてのことだと分かっていたので嫌な気はしていなかった。

 この子と遊んで一番楽しかったのは、修行と称して『がんばれゴエモンキラキラ道中(がんばれゴエモン4)』を二人で協力して一日で80%のところまでクリアしたことだった。うちの親は本当に厳しかったので、ゲームは1日1時間までと固く決められており、それを破ることは基本的には許してくれなかった。

 だが、この日は『途中で休憩して15分遠くを見る』、『明日は一切ゲームをしない』という条件で1時間だけ延長させてもらえた。初めて2時間もゲームができたというのと、友達と協力していつもより早く進められたというのが凄く嬉しかった。

 ただ、母がよくおやつに出していたポテトチップスを食べた手で、コントローラーをさわるのが本当は嫌だったのだが、やべくんに気を遣って言い出せなかった。

 この話を通して知ってほしいこととしては、ポテトチップスはなるべく『はしを使って』食べるようにしてほしいということだ。ぼくは電車のつり革に対して目をらすと、きんが見えるというほどの潔癖症けっぺきしょうではないのだが、トイレに行ったら手を洗うなどの最低限のことは守ってほしいと考えている。

 基本的に“スーパーファミコンのコントローラーやテレビのリモコン、携帯電話などの電子機器には汚い手で触ってほしくない“と考えており、手づかみでものを食べるというのは、ぼくの中ではご法度となっているのだ。

あと、このゲームにはたぬきに化かされそうになるステージがあって、彼の出す二択の質問にどんどん答えて行くのだが、最後の質問で、

「夢と現実の世界どっちがいい?」と聞かれ、そこで夢を選ぶと砂漠に行き左右どちらから出ても街の向こう側へ行けないのだが、正解の現実を選ぶと狸から、

「楽しい夢の世界でなら、ずっと幸せでいられるのにかい?」と聞かれゴエモンが

「ああ、それでも俺は現実を選ぶぜ」と答えると狸から、

「気に入った!お前なら通してやってもいいぜ!」と言われて通過できるのであった。

 この話は当時から凄く印象に残っていて、幼いながらに今生の厳しさと、人の強さというものを知ることができたのであった。

人生は魂の修業であり、それをおこたればたちまち精神が奈落の底へ転落してしまう。人生の意味は自分に課せられた使命を全うすることにあり、己の道が何たるかを考え、それを邁進(まいしん)するのが生きるということであると言えるのではないだろうか。

*とみさんの話

ぼくが住んでいた千葉市緑区あすみが丘は『住宅地』として開発された土地で、商業施設や飲食店などが全然ないという少し寂しいところだった。近所にある一番おもしろい建物がセブンイレブンで、その他は歯医者しかなかったので、遊びに行く時は誰かの家に行ってゲームをすることが多かった。

ただ、東京のベットタウンとして開発されたであろう場所であったため、みんな車を持っていて、土日には遠出したりしていたので、何かを買ってもらったりすることにはさほど困ってはいなかった。

そんな中、町内で唯一のコンビニであったセブンイレブンに遊びに行く時には、いつも同級生の富田くんと一緒に行っていた。

この子の家はわりと裕福ゆうふくだったのか、遊びに行くと毎回おやつを買っていて、ぼくはそんなにお金がなかったので、買わずに帰るか、10円のガムを買って帰っていた。とみさんは短髪のえびす顔で、明るくて話が面白いと言う感じの子だった。

ある時、とみさんから上の歯が歯茎の中に入っていて、生えてこなくて困っているという話をされた。よくよく聞いてみると、来週の金曜日の3時間目に学校を抜けて小さな手術をすることになったらしい。

とみさんはそんなに気にしている風ではなかったのだが、相談された身としてはなんとかしたいので心配しつつも遊んでいたら、あっという間にその日が来てしまった。とみさんが手術に向かう時に

「とみさん頑張ってって言って」と自分で言い、みんなから

「とみさん頑張って」と言われていたのにはちょっと笑ってしまったが、

とみさんが涙目なのを見て、“ほんとは無理してたんだな”と思うとぼくも少し悲しくなった。次の週にとみさんが口にガーゼを付けて元気に登校したことで、無事に帰って来て安心したのをよく覚えている。

後にとみさんから、「あの時に話を聞いてくれたことで少し楽になった」と言われたことがあり、“多少なりとも役に立てて良かったな”と思ったのであった。

 

 

永久歯えいきゅうしに生え変わるの話

小学校低学年になると、みんな歯が大人の歯に生え変わり、抜けた歯をどうするかということを考える。日本では一般的に、上の歯を埋めたり谷底へ投げ込んだり、下の歯を屋根の上に乗せたり山の上に置いて来たりする。なぜ生えている側と『反対の方向』なのかと言うと、その乳歯にゅうしの代わりに生えた永久歯が、上の歯は下へ、下の歯は上へグングン伸びるようにという願いを込めてそうするようだ。

だが、これは少し古い習慣なので、ぼくの母は『せっかくだから歯を取っておきたい』と言って、へその緒と同じ箱にぼくの歯を並べて取っておくようにしていた。同級生の中には歯が抜けた時に食べていたものと一緒に飲み込んでしまったり、寝ている間にいつの間にかなくなっていたという子も居たが、ぼくはなんとか全部コンプリートできた。

歯が抜けそうになり、歯茎の中でグラグラしている時は、なんだか気になってストレスになりそうではあったが、いざ抜けてしまうとなんだが寂しい気もするのであった。コンプリートした歯を見ながら、せっかく永久歯が生えたのだからと一層気合を入れて歯みがきをしたお陰で、それから全然虫歯になることなく過ごせていた。

あまり家族と話さなかった健康マニアの父が、毎日出掛けに言ってくれていた言葉がある。それは

「歯みがきして、車にひかれんなよ」

という言葉であり、結局小学校を卒業するまで口ぐせとして言い続けていた。検診以外で歯医者に行ったことがないというのは、ぼくの一つの自慢であったので、手洗いウガイと歯磨きは、面倒だがサボらず適度にやっておいた方が良いと言える。

 

 

*ひみくんの挑戦の話

 3年生のクラスには比見くんという子がいて、普段からおとなしい子なのだがわりとガンコで、自分の意見を曲げないような子だった。

 ある時、みんなで音楽の授業のために教室移動をしていると、突然ひみくんが壁にぶつかって大きくこけてしまった。おでこが赤くなっていて、念のため保健室で休むことになったのだが、障害物が何もないところで急にぶつかったので、みんな不思議に思っていた。

 あとになって分かったことなのだが、ひみくんは目をつむって歩く練習というのをやっており、これは小学生がよくやる自転車に手放しで乗るようなもので、特に意味はないのだが、自分の限界に挑戦するために行ったものだった。

 先生からこってりとしぼられはしたのだが、しばらくたつとまた同じことをやって怒られていたので少しあきれつつも、こりずに挑戦するのは見習うべきだなとも思ったりしていた。

*チョコボールの話

 幼少期というのは不思議な能力を備えていることがあるもので、『前世の記憶』があるだとか、『動物と話ができる』だとか不思議な話を聞くことがある。

ぼくにもその経験があり、チョコボールの箱を目をつむって見てみると、当たりの箱のくちばしの形になる部分が光って見えるというものだった。

これはいわゆる『透視とうし』というもので、古来では『千里眼せんりがん』という遠くの景色や過去、未来が見えるというものの一種であった。

 ある時、母と妹とスーパーへ買い物に出掛けた時、100円くらいならお菓子を買っていいと言ってもらい、例の透視をやってチョコボールを2箱選んだら、『銀のエンゼル』が2つ出てきた。母は凄く驚いていたが、ぼくは中が当たっていることは知っていたので、別に凄いことだとは思っていなかった。

 この『銀のエンゼル』を5枚集めるか、1000箱に1枚入っていると言われる『金のエンゼル』を1枚手に入れると、『おもちゃの缶詰』と呼ばれるグッズと交換してくれるのだ。ぼくはこういう形でエンゼルを集めていたので、『銀のエンゼル』を最大14枚持っていた。大人になってからは自然と使えなくなった能力だが、7歳までは神の子と言われるように、幼少期には霊的れいてきな力が残っているものなのだろう。

 他にも二つに折れるアメリカの黒い猫のキャラクターが描かれたガムの当たりクジが連続で4回出たことがあったり(これは透視を使っていなかったので、単に当たりが出やすかったのかも)、と子供の頃は不思議な出来事がたくさん起こっていた。

 

 

*妹の話

ぼくの妹は小学校1年生からぼくが習っていたところとは違うところで、ピアノを習い始めてずっと続けていた。

そのお陰か、小さい頃からかなり記憶力がよく、特に『固有名詞』をよく覚えているのが印象的だった。ピアノで左脳、水泳で右脳が鍛えられるので、小学生の習い事としてはこの2つは定番と言ってよく、これらをやっていた妹は常に学校の成績はトップクラスだった。

ぼくは当時コーンフレークについていたJリーグのシールをひとりじめしてしまっていたり、歳が3つ年上なのだが、口喧嘩では敵わなかったりして返答に困ると「うるさい、ぶたピッグ!!」「ぶたじゃないもん!」というやりとりでなんとか急場をしのいでいた。

腕力ではぼくに勝てなかったり、凄く忍耐強いタイプで一度決めた予定はめんどうでもさっさとこなして行くような子だった。鳥が好きだったので、『日本野鳥の会』に登録して父と一緒によくバードウォッチングに行っていた。

ぼくはこの頃は兄貴風を吹かせていたので、遊ぶ時に何かと口出ししたりしていた。

 

 

*テトリスの話

小学校3年生の時(1996年)に『テトリスjr』という携帯ゲーム機が発売された。当時は発売日に、その爆発的な人気から長蛇ちょうだの列ができ、ぼくと妹も母に連れて行ってもらって、家電量販店の入口に並んで貯めていたお小遣こづかいで買って帰ったことがあった。

 その日から毎日のようにやっていたのだが、次の視力検査で視力が0.7まで落ちてしまい、そのことで父に取り上げられてしまった。結局それから一度もやらず終いなのだが、ゲームが始まる時に流れる『コロブチカ』というロシア民謡は今でも耳に焼き付いている。

 

 

*夜市での思い出の話

3年生の夏、下松に帰った時に親戚一同で縁日えんにちに行ったことがあった。ぼくら兄妹は下松の親戚の中で最も年下の二人であったので、よくこういったもよおしに連れて行ってもらえていた。両親はこういう時には折角せっかくだからと、だいたい千円ずつ渡してくれることが多かった。

その時に金魚すくいやクジをやってスーパーボールを手に入れたりしていると、お金がなくなってきてしまった。可愛らしい2匹の黒とオレンジの金魚をながめながら最後に何か珍しいものはないかと探していると、面白そうなものを見つけた。

それはなんとウナギのつかみ取りで、3分以内に獲れたものについては、いくらでも持ち帰っていいというものだった。それに心惹かれたぼくら兄妹は、さっそく挑戦してみることにした。

「ねえ、おじいちゃんコレ取ったらさばいてくれる?」

「いいともさ。おじいちゃんに任せておいで」

おじいちゃんは昔船乗りだったこともあり、カサゴとかメバルを釣って来ては捌いて食べさせてくれていたので、安心して任せようと思った。

そこで店番の人に、300円払ってゲームをスタートさせると、ウナギ特有のヌメりがあるせいで、これがなかなか上手く行かない。長子(一番歳上の子供)として妹に負ける訳には行かないと考え、奮起ふんきしてなんとかウナギをゲットすることができた。

自分で獲ったというその喜びは一入で、その日は上機嫌でおじいちゃんおばあちゃんの家まで帰ることができた。だが、明くる日になって、なんだかウナギが捌かれるのが可哀想になってしまい、妹と相談して生かしてやることにした。

それをおじいちゃんに言いに言ったら、「けんちゃんとくみちゃんは優しいね。分かった。それならもうおじいちゃんはウナギをさばくのはやめておくよ」

「うん。ありがとう、おじいちゃん!!」

こうしてウナギは難を逃れたのだが、千葉へ帰るまでの2週間の間にウナギは死んでしまい、自分の名前に因んでウナタロウという名前を付けていたので、その名前をアイスの棒に書いて、丁寧に埋葬まいそうしてあげた。

今にして思えば、美味しく料理して食べてあげた方が、ウナギにとってはとむらいになったのかもしれないが、おじいちゃんは、ぼくらの優しさを組む方を選んでくれたのだろう。命の大切さを学ぶことができた、ある夏の日の出来事であった。

 

 

*下松のプールの話

下松には夏になると市民に向けて貸し出される大きな『50mプール』があり、ぼくと妹は二人とも水泳を習っていたこともあって、帰省した時によく利用していた。

プールには50円で入ることができ、これは当時の物価から考えても破格(はかく)の安さであった。だいたいはおじいちゃんかおばあちゃんが連れて行ってくれて、更衣室をはさんで50mプールと反対側の子供用プールと行き来しながら遊んでいた。

このプールに通っていた時、ぼくは『とてつもなく美味しいもの』と出会ったことがあったのだが、それは、おばあちゃんが買ってきてくれた8個入りの『メロンカップ』だった。このアイスは黄緑色の色彩が凄く綺麗で、とろけるような甘味があり食感も最高であった。

泳ぎ終わってほどよく疲れていたこともあり、この時に食べたアイスがぼくがこれまでの人生で食べた中で『一番うまかったデザート』と言っても過言ではないくらいだった。また、食べ終わった後のメロンカップの容器は、何か入れておくには丁度よさそうなものだったので、“帰ってから何か入れておこうと“思い、一つもらって帰ることにした。

*ミニバスの思い出の話

 3年生になってから、運動が大好きだったぼくに、また一つ楽しみが増えた。それは、毎週土曜日に大葉小の体育館でやっていた『ミニバスケットボール』であり、ぼくはこのミニバスが終わってから毎週放送されていた『スラムダンク』を見るのが習慣になっていた。

 このスラムダンクは、当時の日本で驚異的きょういてきな人気を誇っており、コミックスは累計1億2千万部以上、日本で一番部員が多いのがバスケ部になっていることにも一役買っている作品であった。

 ミニバスの方では、パスやジャンプシュート、『レイアップ』と呼ばれる走りながら流れで歩幅ほはばを調節して片足でジャンプし、ボールをリングに置いてくるようにシュートする技などを練習していた。スラムダンク効果で空前の大ブームが巻き起こっていたこともあり、人数が多くてみんなでワイワイやっていたので凄く楽しかった。

 ぼくは身長が高かったこともあり、チーム内で行われるミニゲームではいつもわりと活躍できていたので、半ドンで午前中に授業が終わるこの土曜日が大好きだった。ただ、他所の学校がかなり遠いこともあって、練習試合をやれなかったことが残念ではあった。

 

 

*りかの授業の話

 3年生の時、斎藤さいとうくんと蒲原かばはらくんという子と同じクラスになった。斎藤はサイに蒲原はカバに似ていて、この二人は人を馬鹿にするようなタイプだったので、ぼくは正直好きになれず、特に斎藤の方とは相性が悪かった。

かばはらの方もいつもプールの授業がある時に、当時アニメ化されていて人気だった、『みどりのマキバオー』のオープニングを、センスのない変な替え歌で歌っていたのが嫌だった。

 斎藤とは、何回か殴り合いの喧嘩にも発展していて、たかた先生には気に入ってもらっていたぼくだったけど、3年生の担任の先生からは好かれていなかったので、先生が仲裁に入る時にいつも斎藤寄りの意見を言われるのが嫌だった。

 そんな二人とだが、一回鼻を明かしてやった話があって、それは理科の授業の時に先生がやっていた『2択で手を挙げて質問に答えて行く』というちょっとしたゲームでのことだった。

「それじゃ、まずは1問目ね。ビニール袋に入れた磁石に、砂鉄はくっつくかな?くっつかないかな?くっつくと思う人~」

ここでぼくはくっつくと思ったのでそっちで手を挙げた。

「そうれじゃあ、くっつかないと思う人~」

 斎藤は逆の方で挙げていたのだが、正解は僕の選んだくっつく方であった。

「くっそ~不正解か~」

「磁力だから、ある程度ならくっつくんだよ。貫通かんつうするからね」

「へっ、マグレだろそんなの」

「考えたら分かるだろ。こんなの」

「じゃあ、もう一回当ててみろよ」

「いいよ。やってやろうじゃん」

 みんなが一通り感想を言い終わったあと、先生が2問目の問題を出題した。

「それじゃあ2問目ね~たくさんの画鋲がびょうの上に風船を置いたらどうなるかな~割れると思う人~」

 ここでさいとうがてを上げ、ぼくは割れないと思ったので逆の方で手を挙げた。そして、またしても正解したのはぼくの方であった。理由は圧力が分散されるからであり、別に知識があったわけではなく、ぼくはそういった『思考を用いた勘』については昔から自信があったので、それで正解できていた。

「くっそ~、また不正解か」

「だから言ったろ。割れないって」

ちょっと得意げになったぼくに対し、斎藤はかなり悔しそうであった。

「ううっ、このままじゃ負けられん。おかもと。次の問題、今日のデザートをかけて勝負しろ」

「いいよ。望むところだ」

ぼくは少し不安だったけど、自分の勘を信じてみることにした。

「それじゃ、これで最後の問題ね。耳の後ろに手を当てるのと、当てないのとだと、よく聞こえるのはどっちかな?当てた方が良いと思う人~」

 ぼくは迷ったが、その方が手に反射した音が耳の中に入りやすくなるはずだと考えてこっちにした。

「じゃあ、当てない方がいいと思う人~」

 意地なのか、斎藤はぼくと逆の方の答えで手を挙げていた。

「は~い、それじゃあ正解ね~。正解は、『当てた方がいい』でした。みんなは何問できたかな~?」

 先生が説明してくれた理由はぼくが考えていたものと同じであり、それも嬉しさに拍車はくしゃをかけた。

「お前すげえじゃん。負けたよ。楽しみにしとけよな、給食」

「そうだろ?うん、楽しみにしとく」

 そして待ちに待った給食の時間がやってきたのだが、ここでの斎藤はかな不運だった。

「なんだよ。プリンかよ」それは全国の小学生の憧れのデザートであった。

「ほらよ、約束だ」斎藤は嫌々といった感じで、プリンを差し出して来た。

「いいよ。食べたいだろ、プリン」それを聞いて斎藤は少し怪訝けげんそうな顔をした。

「えっ、いいのかよ?バカじゃねえの、お前」

日本人には『損得そんとく勘定かんじょう』だけで生きているような人が多くいて、こういう余裕ぶったことを不快に思う人は多い。だがぼくはこの時、斎藤が食べたいだろうなというのと自分はすでに一個持っているということを踏まえてこの判断を下していた。

そして、このあと何日か経って、休んだ子の分のゼリーが余ってじゃんけんで取り合った時、偶然にも斎藤が勝利し、なんと『こないだの借り』と称して、それをぼくにくれたのであった。この経験からぼくは、『奪い合えば足りず、分け合えば余る』ということを学ぶことができた。

 

 

*床屋が好きなワケの話

 ぼくは退屈だし切った後の変な感じが嫌で、髪を切るのが好きではなかった。

床屋の前にあるアレがくるくる回るのを見て“どうやってワープしてんのかな?“と思ったり“なんであんなハミガキ粉みたいなカラーなんだろ?”と思ったりしていたのだが(昔は小さな手術も行っていたため、赤が動脈、青が静脈、白が包帯)、毎回散髪に行くのは楽しみだった。

今考えてもそこの床屋の店主は上手くやっていたと思うのだが、まず待ち時間を持て余さないように、『スーパーファミコン』が置いてあって、プレーできるようになっていた。そこでは『自分の持っていないソフトをプレーできる』とあって、そのことが凄く楽しみだった。

中でも一番のお気に入りだったのが、『スーパーマリオワールド』で、友達の家で何回もプレーしているにも関わらずいつも選んでいた。このゲームはスーパーマリオブラザーズ4という位置づけで、初めてヨッシーがゲームに登場した作品でもあった。

マリオ自身がマントで飛べたり、ファイヤーボールが出て敵を倒せたり、色違いのヨッシーが4種類いて、甲羅を食べると火を吐いたり、飛べたり、地面を隆起させることができたりと、楽しい要素が盛りだくさんだった。

 そしてこの床屋でもう一つ凄かったのが、帰りに『珍しい飴』がもらえることだった。この飴玉は一見普通の飴なのだが、なんと中にガムが入っていて、食べている最中に食べ物が変わるという優れものだった。当時これが本当に大好きで、もらってから帰りの車で食べている時は、おおげさだが至福の時と言えた。

 大人になってからもこのことが忘れられず、近所の商店街で10個入りの袋を見つけた時には、狂喜きょうき乱舞らんぶしたくらいだった。正式名称は『どんぐりガム』と言うらしく、当時のぼくは名前を覚えようとしていなかったので『アメガム』と呼んでいた。

 他にはその床屋に行った帰りに幼稚園に通っていた時から仲が良かったたかやくんの家に行くことがあり、『チューペット』と『アンパンマンポテト』を食べさせてもらうことが何回かあった。チューペットはその後何回も食べていたのだが、アンパンマンポテトは他に似たような食べ物がなかったので、大人になってからもその味が忘れられず、どこかでまた食べたいなと思ったりもしていた。

 結論を言うと、それは『ハッシュドポテト』という名前の食べ物なのだが、そのことを知るまでに長い月日が経っていたため、別にさほど珍しい物ではないのだが、再びそれを口にした時の感動たるや、相当なものであった。

また、『ポテトウインナー』というウインナーにポテトが入っているものなど、平成初期にも美味しい料理がたくさんあった。

 

 

*のみやくんの話

たっちゃんと遊ぶ時にたまに一緒に遊んでいた子がいて、それが違うクラスののみやくんだった。のみやくんは1、2年生でたっちゃんと同じクラスで、色が白くて鼻が高く、西洋風のカッコイイ顔立ちをしていた。

 のみやくんと一緒に遊ぶ時には、だいたいレゴブロックをやっていたのだが、ぼくは内心これがあまり好きではなかった。3人で思い思いの作品を作って見せ合うのだが、のみやくんは凄く褒めるのが上手く、たっちゃんはそのたびに

「ふふ~ん。そうでしょう」

と言って喜んでいた。のみやくんはそんなつもりはなかったのだろうが、ぼくはなんだか“たっちゃんを取られてしまって、もう遊べなくなってしまうんじゃないか”というような不安にかられることがあった。

 ある時、たっちゃんが熱を出して休んでしまったことがあり、休み時間にのみやくんが遊ぶ約束をしに、ぼくらのクラスにやって来たことがあった。

「あっ、おかもとくん。今日、遊ぼうかと思うんだけど、たっちゃんいる?」

「たっちゃんなら今日は休みだよ。風邪ひいちゃったんだって」

 そう言うとのみやくんは少し残念そうな顔をした後、

「そうなんだ。ねえ今日遊ばない?」

「今日?」

 友達の友達というのはなんだかちょっと気まずいものがあり、何回か会ってはいるものの、人見知りしにくいぼくでも、彼には少し抵抗があった。だが、こうやってせっかく誘ってくれているということもあり、

「いいよ。じゃあ放課後一緒に帰ろうよ」

「OK。それじゃ、授業が終わったらまた来るよ」

 それから授業を終え、約束通りのみやくんが迎えに来てくれた。ぼくらは互いの家を知らなかったので、一緒に帰って学校に近いのみやくんの家で荷物を置いて、ぼくの家で遊ぶことにした。そして、ぼくの家に着いて中に入ろうとしていると、のみやくんが何かを見つめている。

「おかもとくん家も『かずさ牛乳』取ってるんだね」

「うん、そうだよ。もしかして、のみやくん家も?」

「そうだよ!これ凄い新鮮で美味しいよね」

「そうそう!それになんだか他の牛乳より濃くて、甘いんだよね」

 千葉には上総と下総という地名があって、ぼくの住んでいた地域は、北側にある上総の方だった。そこでは地名にちなんで『かずさ牛乳』というものが売られていて、ぼくの家はこれを取っており、家の前に設置されている箱に、毎週2本のビン牛乳が置かれているのであった。

 ビンを返却する時にはその箱に戻しておくと牛乳屋さんが新しい物を入れる時に回収してくれていた。そして、この『かずさ牛乳』の話をきっかけに、なぜだかすごく打ち解けることができ、急激に仲良くなることができた。

 多分向こうにも少なからず同じような苦手意識があったのだろう、それがなくなってからというもの、たっちゃん家で3人で遊ぶ時にも、前のように嫌な気持ちで遊ばずに済むようになった。あまり知らない人と接する時には『共通点を見つけると良い』と言われるが、この体験は正にそういったものであった。

*マラソン大会の話

 大葉小学校では毎年冬に『マラソン大会』が開催されていて、ぼくは毎年それを楽しみにしていた。1周約300mある学校の周りを10周するというルールで、男女別に走るのだが、60人ほどいる男子生徒の中で何位になるかというのが関心事であった。

 ぼくは長距離よりも短距離の方が得意だったため、1年生の時には苦戦し、結果14位で終わってしまった。14位だったことに凄く悔しさを覚えたぼくは、次の2年生のマラソン大会に向けて対策を練ることにした。

 そこで両親に相談してみると、マラソンのトップ選手は、鼻から吸って口から吐くという呼吸法で体力を温存しながら走っているという。これはいいことを聞いたと思ったぼくは、二人にお礼を言ってさっそく2年生のマラソン大会の練習の時に実践してみることにした。だが、この呼吸法は思いのほか苦しいもので、10回前後それで練習して本番を迎えたのだが、残念なことに16位まで順位が下がってしまった。

これに気を悪くしたぼくは、家に帰ってから両親に文句を言ったのだが、そんなことで順位が良くなるとはずもないので、早々に切り替えて、3年生のマラソン大会では、どうやって今より上の順位を目指すかということを考えた。そして1年後の冬、ぼくがたどり着いた結論は、『自分の信じたやり方で走る』ということだった。

 結局頑張って走るのは自分であり、呼吸法など、小手先のことでどうこうしようというのが浅ましかったのだとも思った。当時ぼくはミニバスにプールに習字にといろいろ習い事をやっていてそれなりに忙しかったのだが、それがない日の放課後に友達とちょっとだけグラウンドを走って帰ったりしていた。

 そして迎えたマラソン大会当日、ぼくは自分が信じた口だけで呼吸こきゅうするというやり方で、見事12位まで順位を上げることができた。このことからぼくが学び取ったこととしては、正しいやり方というのは、人によって違っていて、結局は自分に合ったやり方というのを『自分で』探し出すしかないということだ。

習う時、教える時には、人にはそれぞれ『タイプ』というものがあり、最適さいてきなやり方はその成果を見ながら考えるということが大切だ。

 

 

*ねりけしの話

 この頃はどこの小学校でもそうだが、ぼくの学校でも『ねりけし』が流行っていた。ねりけし』とは消しゴムのカスを集めて練ってかたまりにするというもので、それ専用の消しゴムが売られていたりもするものである。

 ぼくは専用の消しゴムを持っていなかったのだが、公園に行った時に違うクラスの子が持っていて『ねりけし』を少し分けてくれて、それを元にせっせと作っていた。

だが、これには少し問題があって、専用の消しゴムと普通の消しゴムのカスを合わせると、大きくなるにつれて『ねりけし』がヒビ割れてくるのだ。

そこで水を足して柔らかくするのだが、欲張りすぎたぼくは水ではカバーしきれないくらい大きくしてしまって、『ねりけし』がぽろぽろ欠けるようになってしまった。

だが、なんとなく愛着があったので引き出しのすみにそっとしまっておいたのだった。

 

 

*やましたさんとの話 

 3年生の時に同じクラスになった山下さんという子は、背丈せたけは普通くらいで髪が長く大人しめの性格の子だった。

あすかちゃんと違うクラスになってからというもののなんだかこの子のことが気になっており、2学期になって偶然にも同じ班になった。

話しているうちにどんどん気になってきたのだが、別に付き合っているわけでもないのに、当時からクソ真面目だったぼくは、なんだかあすかちゃんに悪い気がして、その気持ちを抑え込むようにしていた。

 ぼくが風邪気味かぜぎみで熱っぽい時に心配してくれたり、前日から教科書を入れ替えるのを忘れた時に、席が隣で見せてくれたりと何かと親切にしてくれた。

 明るい性格のあすかちゃんとは対照的に、本を読んだり絵を描いたりすることが好きだったようで、くしゃみをする時に口に手を当てたり、律儀(りちぎ)にハンカチで手をふいていたりと、わりとお上品な子でもあった。

 特に何かあったわけではないのだが、若い頃には異性に目移りしやすいもので、『意志の強い人間である』ということも一つの取柄であると言えそうだ。

 

 

*おんがくの授業の話

 ぼくは昔から高い声を出すのが苦手で、おんがくの授業の時はわりと苦労したものだった。先生に当てられた子が前で歌うのだが、みんなが当たり前に出せる高いドやレといった音域でも、ぼくには出すことができず、いつもくやしい思いをしていた。

 日本の授業はテクニックなど専門的なことを教えることは少なく、『とにかくやってみろ』というような進め方なので、指導をする時は、『裏声を混ぜてミックスボイスで歌う』といったような具体的な改善法を教えるようにしてほしいものである。

また、印象に残っているものとしては、リズムに合わせて体を動かす『リトミック』とか、かえるの歌が、かえるの歌が、聞こえてくるよ、聞こえてくるよ、と前のパートを追い掛けるようにして歌う『輪唱』を練習したりもしていた。

そんなこんなで授業を受けていたわけだが、ある日、クラスの高木さんという女子から衝撃的な一言を言われてしまった。

「おかもとくんの歌声って、ニワトリが首を絞められてる時みたいで変だよね」

「なっ(なんてこと言うんだの『な』)」

 小学生というのは時になんの配慮もすることなく、残酷ざんこくな真実をためらわずにつきつけるものである。ぼくは今まで声が出ていないという自覚はあったのだが、まさか『ここまでむごい現実』をつきつけられるとは思っていなかったので、かなりのショックを受けたのであった。

「うるさいな。そんなこと言ったって真剣にやってるんだから仕方ないだろ」

「なによ、あんたが下手だから悪いんじゃない」

 気持ち的にひん死のところにこんなことを言われ、“ぼくだって一生懸命に歌っているのに、下手だから悪いと言われては立つ瀬がない”と思い、思わず今考えても酷いことを言ってしまった。

「なんだと、このゴリラ女」

「なによ、ゴリラって」

 それから、おんがくの先生が止めに入るまで二人でひたすらののしり合い、しばらくは全く話をしないようになってしまった。なんとか上手くなりたいと思い悩んだのだが、いかんせんやり方が分からなかったということもあり、当時やっていたリコーダーを頑張って練習して見返してやろうと考えた。

日本の小学校ではリコーダー、ピアニカ、ハーモニカをやるのが定番になっていて、どこの学校でもだいたいやっているのであった。

そして、授業のたびに奮闘していたのだが、2学期末にクラスで発表会(成果を見せつけるためになぜかどの楽器でも必ずやる)をやることになった。そこで頑張って来た成果が認められた(あれをそこまで本気でやる人はあまりいない)ため、先生が授業の終わりにぼくを名指しで褒めてくれた。

「たかぎさんとおかもとくんは本当によく頑張ったわね。先生感心しちゃった。これからも頑張ってね」

 これは後になって分かったことなのだが、たかぎさんの家はいわゆる『音楽一家』で、彼女は陰で楽器を相当練習していたようだった。

「あんたやればできんじゃん、見直したよ。下手なんて言ってごめんね」

「ううん、いいよ。あれがあったお陰で練習できたわけだし。ぼくもゴリラなんて言ってごめん」

 こうして仲直りできたわけだが、ぼくはこれまで何かあったら見返してやりたいと考え猛練習もうれんしゅうすることで、だいたいのことは乗り切ってこれた。人生には『レベルアップ』は必要不可欠であり、そのままでいるとたちまちみんなから追い抜かれてしまう。

みんなが日進月歩で努力している中では、『現状維持はすなわ衰退すいたい』であり、集団の中で認められるためにも、日々努力して『何か光るもの』を身に付けられるようにすべきであると言える。

 

 

*消費税が上がる!!話

 平成元年(1989年)竹下登内閣の時に日本は初めて消費税を導入し、買い物をすると全ての商品に対し3%の消費税がかかることになった。その後の平成7年 (1995年)村山 富市内閣の決定で橋本 龍太郎内閣の時に消費税はさらに5%まで引き上げられた。当時、それを知ったたっちゃんから、

「けんちゃん見て見て、凄いもの買ったんだ。これで消費税が上がっても絶対に大丈夫なんだよ!!」見ると彼は、大事そうに何か小さなものを握(にぎ)りしめている。

「それって切符?」

「うん!500円の切符を2枚買っておいたんだ。これでどこへ行くにも安心だよ」

 ぼくは“運賃うんちんが違うのでその場に応じた値段の切符を買うべきなのでは?”ということと“切符はその日しか使えない決まりがあるのでは?”ということをほぼ同時に思った。それに消費税が上がっても恐らく『10円ほど』しか運賃は違わず、“今買っておく意味は全然ないんじゃないか”とも思った。

だが、切符は購入から3日ほど経っていて、今さら交換してもらえないだろうし、たっちゃんが『あまりにも』喜んでいるので、なんだか言い出し辛くなって、

「そっかーそれなら安心だね」と言って茶をにごすことにした。

 それから、たっちゃんの家に遊びに行くたびに例の切符を見せられたので、いつか彼が切符を使ってガッカリしてしまうんじゃないかと思ってヒヤヒヤしていたのであった。

*たっちゃん家にお泊りした話

3年生の3学期に、ぼくら家族にとって衝撃的しょうげきてきな知らせがあった。それは父の仕事の都合での『転勤』であり、4年生になるタイミングであの『阪神淡路大震災』があった『神戸』への転校が決まってしまったのだ。

 当時から日本では転居を伴う全国転勤というものが一般的に許されており、全国規模の保険会社に勤めていて、エリートであった父からすれば、会社から打診されればしたがう他ないと考えたのであろう。

だが、個人的には外国では禁止している所もあるくらいだから、本人が希望していなくても転勤させるのは『凄く良くないこと』だと思っている。その代わり家を会社から貸してもらえたり、給与面では待遇たいぐうが良かったりするのだが、この『転勤族』と呼ばれる人たちにとっては、辛い現実でもあった。

 そして、一番仲が良かったたっちゃんにそのことを言うとかなり驚かれ、なんと後日たっちゃん家で、お別れの意味を込めて『お泊り会』をやることになった。と言っても特段何をするわけでもなく、ただぼくがパジャマと歯ブラシと、母から持たせてもらったお菓子を持って、たっちゃんの家に遊びに行かせてもらい、そのまま泊って帰るというだけのものだった。

 夕飯の時にはたっちゃんのお父さんが帰って来て初めて顔を合わせ、7人で食卓を囲んだのは賑やかで凄く楽しかった。そして、たっちゃんの部屋に行き、ベットの横に敷いてもらっていた布団の上に、ぼくは寝ることになるようだった。

 学校での話や、今度発売されるゲームの話などで一通り盛り上がったあと、順番に風呂に入ってから、そろそろ電気を消して寝ようかという話になった。だが、たっちゃんのお母さんから促されても、なんだか名残惜しいような感じがして、なかなか踏ん切りがつかないでいた。

「もう会えなくなるなんて寂しいよね」

「そうだね。3年生になってから、ぼくらだいたい一緒に遊んでたもんね」

 あと半月もすれば、こんなに一緒にいたというのに全く会えなくなってしまうと思うと、なんだか二人ともしんみりしてしまった。

「ねえ、けんちゃん『文通ぶんつう』しない?」

「『文通』か~。いいね、やろう!」

 この頃はまだ携帯電話が全然普及していなかった時代であり、雑誌や新聞に『文通募集の記事』があったりした。一般人やなんと有名人までも、住所や連絡先がまるまる載っていることも珍しくはなく『文通』というものがわりと普通に行われていた。

 これから手紙で話せると考えると、なんだか寂しくないような気もして、その日は安心して床に就くことができた。そして次の日の朝、たっちゃんの家族にお礼を言って、日曜日だったので11時頃に、ちょっとした冒険を終えたような気分で自分の家に帰って行った。

 

 

*ぼくの引っ越しの話

3年生の3学期が終わるとぼくは転校の準備をするため、荷造にづくりを行っていた。住み慣れた家を離れるのは寂しかったが、家族と一緒なのでそれほど不安には感じていなかった。あすみが丘ではこの時期、転校して行く子と転入して来る子が大勢いて、仲のいい子が引っ越しで出て行く時には見送りをしてあげることが多かったのだが、“まさかこんなに早く自分の番が回って来るとは”と思ったりもしていた。

父の転勤は恐らく震災と無関係ではなく、神戸で『人が足りなくなっている』ことでの移動であると考えられた。この時にちょうど盛り上がっていた『千葉市の人口が100万人を突破するかも』という話は、実は2010年代になっても達成されることはなく、“あの時もし震災が起きていなくて、千葉に残って人口100万人を一緒に迎える未来はどんなものだったのかな?”と考えたりもする。

ただ、それを一緒に迎えられないのは残念だったけれど、仲の良かった子がみんな見送りに来てくれたのは嬉しかった。みんなともう会えないと思うと、とても悲しい気持ちになって、“最後にしょうちゃんともう一度会いたかったな”とも思っていた。

 はたの、かわのくん、もっちゃん、かめちゃん、つるちゃん、たっちゃん、のみやくん、やべくん、とみさんが見送りに来てくれて、みんなと一言ずつ交わして引っ越しのトラックを見送ってから、土気駅へと向かうタクシーに乗り込むときには、少し泣きそうになった。けど、みんなの前では笑って別れようと

「これで最後じゃないよ、いつかまたみんなで会おう」とだけ言って別れを告げた。

タクシーの中から外の景色を眺(なが)め、これが土気を見る最後かと思うとかなり寂しい気持ちでいっぱいだった。


ほかのはなし
第二回 https://note.com/aquarius12/n/n485711a96bee
第三回 https://note.com/aquarius12/n/ne72e398ce365
第四回 https://note.com/aquarius12/n/nfc7942dbb99a
第五回 https://note.com/aquarius12/n/n787cc6abd14b