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【大衆小説】夏から夏へ ~ SumSumMer ~ 第2回

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第二譚  二 年 生 編

 

*2年生のはたのの話

 大葉小おおばしょうでは、2年生になってもクラス替えがなく、1年生と同じメンバーで次の学年に上がることになった。そんな中、小学校の同級生で一番最初に友達になったはたのが、あまり学校に来なくなってしまった。

ぼくは家が近かったこともあり、毎日『連絡ノート』と呼ばれる明日の予定や必要な物、先生からのメッセージが書かれたものを持って行ってあげていた。

 ただ、彼は本当に体調が悪いわけではなく、いわゆる『サボり』であり、彼の年の離れた兄と姉と一緒に家でゲームをやっていた。

インターホン越しにゲームの音が聞こえて来たり、その兄と姉の声(はたのの家に遊びに行った時に何度か会ったことがある)が聞こえていたりとあまり気分のいい話ではなかった。それでも、たかた先生が、

「けんたろうくんが行ってあげたら、はたのくんも学校に来やすくなるから大変だと思うけどお願いね」

と言ってくれたので少し嫌な気はしていたんだけど通っていた。ただ、はたのは完全に不登校というわけではなく、たまに学校には来ていたので、出席日数が足りるように要領よく来ていたのかもしれない。

こういう生き方は非難されることもあるのかもしれないが、社会で生きていくには、当時のぼくのように正直に生きるのもいいが、はたのみたいに功利的こうりてきな生き方をするのもまたありなのかもしれないと今になって思う。

 

 

*大葉小の避難ひなん訓練くんれんの話

大葉小学校では1学期に1回、『避難訓練』というものをやっていて、緊急きんきゅう避難ひなん警報けいほうが発令されたという体で訓練を行っていた。

そこでは『防災ぼうさい頭巾ずきん』と呼ばれるアイテムが活躍していて、これは椅子の上にいてある座布団ざぶとんに付いているファスナーを開けると座布団が変形し、雪ん子のわら帽子ぼうしのように頭にかぶる頭巾になるという優れものであった。この頭巾は柔らかい割に丈夫で、先生の指示で机の下に隠れた後に使用することになっていた。

そして、『おかしも』という呪文を意識しながら避難しており、これは『おさない』『かけない』『しゃべらない』『もどらない』の頭文字を取ったものであった。火災現場は一瞬の状況判断で、その命運が決定されることがあり、恐怖心が強く、冷静な判断が下せない生徒たちのために考えられたものであった。

毎回校庭に出た後に聞く校長先生の話が長いのはどこの学校でも定番なのだろうが、大葉小にいる間に実際に火災が発生せず、訓練だけで済んだのは幸せなことだったと言えるのだろう。

 

 

*九九の練習の話

2年生になってから、学年全体で『九九の練習』をやったことがあった。3つのクラスの教室にそれぞれ3つのテーブルを置いて、1組の先生が『1から3の段』、2組のたかた先生が『4から6の段』、3組の先生が『7から9の段』を担当して九九を覚えた。2年生の全生徒は好きなテーブルに行って、プリントに書いてある1つの段を覚え、テーブルに並んで何も見ずに先生に向かってそれを唱える。

 全部合っていたらその段はOKで、プリントのその段の横にスタンプを押してもらえる。それを繰り返して、最終的に3人の先生から3つずつ、9つのスタンプを貰えたら合格という授業だった。なんとそれを土曜の午前中に半日かけて一気にやってしまおうというのだ。

先生たちが生徒たちにルールを説明して行くと、ぼくはまず、担任のたかた先生のところへ行き、4から6の段を終えると1から3、7から9の段もしっかり終えることができた。それからはみんなで覚えられない子の相手をしてちゃんと学年全体が合格できるまで練習を行った。

そして予定より30分早い午後3時、生徒たちはスタンプをもらい終え、九九の授業を終えた。ゲーム感覚で覚えられて凄く楽しかったし、この授業のお陰で、今でも九九を暗唱できるくらいなので、いい経験になったと思う。

 

 

*誕生日会の話

 この地域は穏やかな人が多かったこともあり、大人同士も子供たちも仲が良かった。いろんな子の『誕生日会』があってそこに呼ばれていつもとは違う感じでケーキを食べたりゲームをしたりするのが好きだった。

 ぼくも毎年『誕生日会』を開いてもらっていて、その中でも一番よく覚えているのは2年生の時の誕生日会だった。その時には、はたの、しょうちゃん、かわのくん、もっちゃん、かめちゃん、つるちゃん、ぼくの妹、妹の友達のたけしくんが来てくれていた。部屋に飾り付けをし、庭にアルミでできたカラーのいろんな色のスズをちりばめて探す、『宝探し』をやった。

 みんなちょっとずつ遠慮してくれて、ぼくが1番多くスズを手に入れることができ、スズを持っている子は母から賞品を受け取った。その後にいちごのショートケーキを切り分けて食べ、みんなからプレゼントをもらった。

 その時に親にリクエストして買ってもらっていた『がんばれゴエモン2』は、多分ぼくが小学生の時に一番やったテレビゲームだと思う。結構バブリーな話なのだが、1990年代前半で、バブルがはじけてすぐの、当時の日本だからできたことなんだと今にしてみれば思う。

 

 

*ダジャレとゴロの話

2年生の時にクラスで流行っていたゲームがあって、それはダジャレを言い合って10秒たっても出てこなくなったら負けというゲームだ。ダジャレとあらば、ふとんがふっとんだ、アルミ缶の上にあるミカン、ロシアの殺し屋おそろしやなど、誰が考えたんだか知らないが、なぜか国民のほぼ全員が知っているというものがあった。

「電話に出んわ!」

「コンドルがめりこんどる!」

内臓ないぞうがないぞう!」

「惑星はくせー」

「木星もくせー」

妖怪ようかいに用かい?」

絶好調ぜっこうちょうな校長!」

「ジャイアン死んじゃいやん!」

「トイレにいっといれ!」

「レモンのいれもん!」

「ジャムおじさんがジャムを持参!」

「ねこが寝込んだ!」

「ダジャレを言うのはだれじゃ?」

「ドイツ人はどいつだ?」

「みつかんがみつかんない!」

「え~っと~。あー、思いつかない」

 といった具合だ。負けたからといって特にバツゲームなどはなく、そのまま平和に2回戦を行って、休み時間の10分間を過ごしていた。

 また、世間にはおもしろいゴロがあり、富士山の標高である3776mにちなんで『みんななろう』というなれるわけもないようなものや、2、4、6、9、11月が31日まででないという『西向くサムライ』などというものもあった。

小学生特有の勘違いである汚職事件をお食事券、肩甲骨を健康骨、台風一過を台風一家と思っているなど、まだまだ未熟な時期ではあったが、このゲームを行った後は、お後がよろしいようで、みんななんだかウキウキした気持ちで授業にのぞめていた。

 

 

*なわとびの話

2年生の時にクラス中が『なわとび』にハマっていて、ぼくもその例外ではなく休み時間に練習していた。

授業の合間の10分間の小休憩しょうきゅうけいの時に、いつも机の横に掛けていたなわとびをひっつかんで持って行き、一生懸命に練習していた。中でも小学生にでもできる技の定番として有名な『二重飛び』が流行っていて、みんなで回数を競って遊んでいた。

男女混じって練習している中でも回数は多い方だったので、授業で最初に1回成功してからは、2、3,5、10とどんどん記録が伸び続け、3,40回くらいはできていた。あまり運動神経が良くない子などは脇を閉めずに腕全体を回して練習していたので、全然上達していなかったりした。コツとしては腕を体の横に固定し、手首のスナップだけで行うといいだろう。

後はできるなら足を曲げずに軽く曲げて伸ばしたまま飛ぶと、上級者に見えてカッコイイと思う。練習するのが楽しくて、こういう些細なことがスキルを身に付ける喜びというものを知るいいキッカケになるんだと思う。

残念ながらさくらちゃんに褒められたことはなかったのだが、最終的に飽きてしまうまでに50回くらいはできるようになっていたので、頑張った甲斐かいはあると言える。

 

 

*ハンコ注射の話

2年生の時にクラスで一斉に『BCG (カルメット・ゲラン桿菌かんきん➝細長い菌バシル)』の注射を打つ機会があった。致死率ちしりつがほぼ100%で死の病と言われていた『結核けっかく』と呼ばれる病気を予防するためで、日本では1965年に作られたワクチンが使われていた。

 これはまず、小さな注射をして『ツベルクリン反応』というのを見て、そこで陰性であった子が受けるのだが、だいたいの子は陰性なので、結局は全員が受けることになっていた。小学生にとって注射とは恐怖する対象であり、みんなドキドキしながら順番を待っていた。

出席番号2番のぼくは、こういう時には早く生まれたことを後悔せずにはいられなかったのだが、そんなことを言っても仕方ないので観念して待っていた。1番のりゅうじくんが注射を終えて、

「全然痛くなかったよ」と言っていたのだが、ぼくは“ウソだ。りゅうじくんだからだろ?”と思っていた。

だが、実際に注射を受けてみると本当に痛くはなく、

「みんな、本当に痛くなかったよ!なんだかスタンプを押されたみたいだった」

 と言って安堵していた。これは恐らく日本の医療技術の凄いところで、痛みに弱い小学生のために『なるべく痛くないように改良に改良を重ねて』くれていたのだろう。

注射が終わると、左腕の外側の肩より少し下の部分に『六つの斑点はんてん』ができていて、ちょうどサイコロの6のようになっていた。普段は忘れているのだが、大人になってからもこの跡を見る度にこの出来事を思い出している。

 

 

*ミニ四駆の話

 ぼくが小学校低学年生の頃にはちょうど『第二次ミニ四駆ブーム』と重なっていて、近所の男の子はみんな好きなマシンを作って走らせて遊ばせていた。ミニ四駆とは、F1マシンをA1のノートと同じくらいの大きさにしたようなオモチャで、当時の価格は400円前後、四輪よんりん駆動くどうで動くのでミニ四駆という名前だった。

 第一次ブームの『ダッシュ四駆郎』の頃から比べると目覚ましい進化を遂げていて、当時爆発的人気であった『れつごう(レッツエンドゴー)』というアニメのマシンを持っている子がほとんどだった。

 双子ふたごの弟である豪が使う『マグナム』は『レブチューンモーター』を搭載していて速さが売りであった。一方、兄である烈が使う『ソニック』は『トルクチューンモーター』を搭載していて持久力じきゅうりょくが売りであった。ぼくらより少し後の世代だと『アトミックチューンモーター』という速さと持久力をそなえた『いいとこ取り』のものが出てきたりしていたようだが、ぼくらは基本的にこのどちらかの2択であった。

主人公二人のマシンにはそれぞれ必殺技があり『マグナムトルネード』と呼ばれるミニ四駆が野球のボールのように回転する技と『ハリケーンパワードリフト』と呼ばれるマシンの前方にあるウイングが変形して加速する技など現実ではあり得ないようなものを見て、子供ながらに“いや、こんなの無理だろ”と思ったりもしていた。

 他にも『スピンアックス』というジグザグ走行ができるマシンや『トライダガー』という壁走りができるマシン『レイスティンガー』というはりで相手をすマシンや『ブロッケンギガント』というウイリーの体制から相手を踏みつぶすマシン『プロトセイバー』という空気の刃で敵を切り裂くマシンなど『ウルトラC難度』の技を繰り広げていた。

 また、他の地域の子たちの中にはいわゆる『肉抜き』というプラスチックの車体を繰り抜いてその部分の代わりにネットを貼って軽くする改造や、『シャーシ(車体)』の前後のローラーにコーナリングしやすくなるパーツを付けるようなことをやっていた子もいたようだ。

だが、ぼくらの地域はそこまでガチでやっている子はおらず、せいぜいタイヤとモーターをいいパーツにするくらいだった。けど、友達の家に遊びに行ってレースをしたり、うちにもコースがあったので、みんなと楽しめていたのでいい思い出になっている。

当時のアニメで自分が持っているのと同じ種類のマシンが、溶岩に落ちたり破壊されたりするのを見て複雑な思いがあったのだが、“新しいマシンを出すために仕方がなかったのかな”と大人になった今なら思える。

そしてこの『烈&豪(レッツエンドゴー)』などの平成初期(1990年代)に流行ったものは、2010年代に入っても続いているものがそれなりにあり、息の長い作品として知られている。

他にも『マッハGoGoGo』というカーレースアニメや、土曜朝の『グランダー武蔵』という伝説の七つのルアーを探し求める番組、日曜朝の『タミヤRCカーグランプリ』というラジコンのレースを白熱した展開で放送する番組が好きだった。

 

 

*給食のエビフライの話

日本の小学校には給食と呼ばれるものがあり、お昼になると当番の人が給食を取りに行き、教室まで持ち帰って配って行くという仕組みだった。ただ、大葉小学校には他校と違うところがあって、それは『トレーラー』を使って運んでいたという点だった。『トレーラー』とは給食が入っているナベやハコを載せる台車のことで、銀色で下にコロコロが付いていて面白い代物だった。

しかもエレベーターで自分のところの回まで運んでくれるという至れり尽くせりな状況で、この学校はヤンチャな生徒が少なかったので、『トレーラー』のスピードを上げ過ぎて横転させてしまうようなこともなかった。給食着を貸してもらって着て、みんなに給食を配るのは、なんだか大人になったみたいで嬉しくもあった。

また、余った牛乳やみかん、プリンなどをジャンケンをして取り合い、ゲットした時などは何とも言えない優越感ゆうえつかんのようなものがあったりもした。学校によってスタイルが全然違っているので、別の学校に通っていた人と幼少期の話をすることがあったら、その学校特有の習慣がないか比べて見るのは面白いと言える。

そんな2年生のある日、給食でエビフライが出たことがある。エビフライと言えば、小学生で嫌いな子はいないんじゃないかというくらいの人気メニューなので、みんな喜んで食べていた。すると、たかた先生がみんなに声を掛けてくれた。

「みんないけないわね。エビフライ残しちゃ」

「え~。先生、みんなちゃんと食べてるよ」

誰かがそう言うと、たかた先生はその言葉を待っていたかのように話し始めた。

「いいえ、まだよ。エビフライはね、こうやって食べるのよ」

そう言うと先生は残しておいた自分のエビフライを箸でつかむと、なんとシッポまで一気に食べてしまったのだ。ぼくたちは驚いて口々に感想を述べて行った。

「すごいや先生!ぼくらシッポは食べちゃいけないと思ってたよ」

「先生、かたいのにシッポなんか食べて大丈夫なの?」

「私、なんだか怖いな。先生、大丈夫なの?」

みんなが意見を言い終わった頃、先生は穏やかに話し始めた。

「大丈夫よ、みんな。食べ物はね、その動物の命を貰ってできているの。お米だってそうよ。植物にだって命があって、みんなみんな生きているの。だからそんな大切な命を頂いているんだから、食べ物はなるべく残しちゃいけないのよ」

それを聞いてみんなとても感心してしまった。

「だからみんな先生のマネをして、食べてもいいと思う人はシッポまで食べてみて」

ぼくらの心はもう決まっていた。

「私、食べてみる!」

「ぼくも!先生がそう言うんなら食べてみるよ!」

「そうだよね、お腹が空いているのに食べられない子たちもいるのに、大事な食べ物を残しちゃいけないよね」

先生は決して『強要』しなかった。ぼくたちが食べたくないと思うかもしれない、その『気持ち』を尊重しようとしてくれた。だから、ぼくたちもその先生の気持ちに応えようとしたんだと思う。

結果的にクラス全員が、エビのシッポをすべて食べていた。2010年代に日本全体にある同調圧力のようなものは全くなく、みんなが気分よく食べることが出来ていた。それから何回か、給食でエビフライが出てきたのだが、みんな何も言われずにシッポまで食べ、体調が悪い時以外は給食を残すこともなかった。

 

 

*下松での話

おじいちゃんはおばあちゃんと田舎に帰る度に「大きくなったね〜」と言って出迎えてくれたり、ご飯のたびに「みんなで食べると美味しいねえ」と言っていて、ぼくらと一緒に食べるのを楽しみにしてくれているようだった。

おじいちゃんはわりとお酒が好きだったようで、大きめの徳利とっくりに入った養命酒ようめいしゅを毎食後にチビチビ飲んでいた。子供の頃のぼくには日本酒特有の匂いがキツいように感じられたが、酒は百薬の長というように、これはおじいちゃんにとって健康の秘訣ひけつと言えるものであったようだ。

また、食卓には珍しい食べ物も並んでいたりして、サザエや当時はわりと一般的だったくじらにくも食べたりしていた。この時に左ヒラメに右カレイという見分け方を教えてもらったり、カサゴを実際にさばいてもらったりもしていた。

おじいちゃんは限界まで何かに挑戦する人で(これは今のぼくにも色濃く受け継がれている)、毎朝トーストと一緒に飲んでいた牛乳をコップのきわまで入れていた。

母がそんなになみなみ注がないようにと一度誕生日にもっと大きなコップをプレゼントしたら、それにまたギリギリまで牛乳を注いでいて、母が「表面張力で満タンまでそそがない気が済まないみたい」と言っていた。

あと、この応接間にはいつもおばあちゃんが取っておいてくれた『白い紙』が置いてあって、これにメモを取ったり、『へのへのもへじ』という、この文字を書くと顔になる絵を描いて遊んだりしていたので、ライフハック的な意味で便利だったのでここで紹介しておきたい。

居間には東京のおじさんが連れて来た犬がいる時があり、この頃のぼくは野犬に向かって何を思ったのか「ワン」と言ったことで、山から走ってきたものを車の中に隠れて事なきを得たという経験から犬が苦手になっており、この犬がいつも怖かった。

ぼくらはこの頃から居間でトランプをやるのが日課で、おじいちゃんはトランプで手札を出し切れずに終わってしまうと「宝の持ち腐れ」と言っていたり、おばあちゃんが小さい数字を「こまい数字」と言っているので方言を覚えたりもしていた。

千葉の家ではスーパーファミコンがあるから退屈しないのだが、田舎にはそんなものはないので、寝る時に『20の扉』という、お題を決めた人に対して20回以内の質問で何か当てるゲームをやったり、母の昔の話を聞いたりもしていた。

千葉から遠く大掛かりな帰省ではあるのだが、おじいちゃんとおばあちゃんや親戚の人に遊んでもらえるので、毎年季節ごとに田舎に帰るのを楽しみにしていたのを今でもよく覚えている。

 

 

砂鉄さてつというものの話

小学校2年生の理科の授業の時に、磁石じしゃくを使って『砂鉄』というものを集める実験をやった。これは砂場にある細かい鉄を、ビニールの中に入れた磁石の力で引き寄せて、ビニールを裏返すことで手に入れるというものであった。

この砂鉄を集める感覚が、宝探しをしているような感じで魅力的に思えて凄く感動的だった。小学生の時には何を見ても興味が持てたりするものなので、この時期にいろいろ吸収したことは後にも印象に残っていたりする。

家に帰ってから公園に行ってもう一度やってみたくなったのだが、母に聞いても自宅には磁石がなく、結局どうすることもできなかったので、そのままやらず終いになってしまっていた。だが、その年の夏休みに田舎がある山口県下松市に帰った時に、おもちゃ箱から偶然にも磁石を発見し、かなり驚いたことがある。

別にそんなことはないのだが、なんだかおじいちゃんとおばあちゃんの大切なものを持って帰ってしまうような気がして言い出せなかった。その後、千葉に帰ってからもそのことが頭から離れず、ずっと気になったままだった。

ぼくは昔から人にものを頼むのが苦手で、極力自分で解決しようとする性分しょうぶんであったため、『磁石がほしい』ということがなかなか言い出せず、磁石を見る度に悶々もんもんとした気持ちになっていた。けど、ある日おばあちゃんがぼくらがとまっている2階まで来たことがあって、その時に“言うなら今しかない”と思い、意を決して磁石を持って帰っていいか聞いてみることにした。

「おばあちゃん、これもらっていい?」

「どうぞどうぞ」

「やったー。ありがとう」

「欲しかったら他のも持って行っていいからね」

「うん。そうするね!」

この出来事は今でも鮮明に思い出せるほど嬉しく、千葉に帰ってから友達と一緒に何度も公園で砂鉄を集めていた。

透明とうめいのビニール一杯に集めた砂鉄を見て、なんだか凄く高価なものを手に入れたような高揚感こうようかんを得たことを強く記憶している。

 

 

*生き物とのふれあいの話

小学生の時に下松に帰っていた頃にはよく、近所の桐戸川きりとがわこいさんに『エサやり』をしに行っていた。中にはかなり立派な錦鯉がいて、そこへパンの耳を細かく切ったものを投げ込んで食べさせていた。

エサやりに行くまでにおばあちゃんがパンの耳を用意してくれて、祖父母とぼくらの家族とで行くか、多い時は母の兄の東京のおじさんと久保のおじさんとおばさんと一緒に一族総出でエサやりに行っていた。この桐戸川へエサやりに行っている人はわりと多く、ほぼ毎回誰かが隣でエサをやっているのであった。

エサをまき始めると30から40匹くらいの鯉が寄って来て口をパクパク開けて食べ、たくさんまいても10分もあれば全部なくなってしまっていた。その後にはみんなで話しながら川のほとりを散歩して回るのが習慣だった。

また、下松にある神社にはカメさんが居て、よく妹と二人でおばあちゃんに『カメさんまいり』に連れて行ってもらっていた。境内では100円で売っているエサを買ってもらって大きな岩が横と縦に重なっている小さなため池にいる100匹ほどのカメさんにまいて食べさせる。

それが終わると近くに鉄棒があったので、学校で習ってできるようになった技を見せておばあちゃんに褒めてもらうのが嬉しかったりした。

「けんちゃんはなんでもできるんだね~」

そう言われると得意になって何回も同じように見てもらっていた。おばあちゃんは良く笑う、朗らかで柔和にゅうわな人だった。

 

 

*習い事(水泳)の話

 ぼくは幼稚園の年長、6歳の時からキッコーマンで水泳を習っていたのだが、そこではけっこう評価してもらえていて、他の子が『ヘルパー』という肩につけるをしながら練習している中、水に入ったその日からクロール、背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライの4泳法をマスターできたことで、水泳がわりと好きになっていた。

半年に1回くらい25mと50mのレースがあるのだが、4月生まれということもあり、同じ学年の子はもとより、一つ上の学年の子にも負けたことがなかった。将来は水泳の選手になろうかなと子供ながらに思う反面、少しもの足りなさも感じていた。

また、ぼくはいつもバスで通っていて、そこでは同じスクールの子たちと話しながら帰っていた。当時めちゃくちゃ流行っていたドラゴンボールのカードダスのカードを見せ合ったり、それぞれが家から持って来たお菓子を食べたりして遊んでいた。

みんなおっとっとやグミ、ハイチュウなど様々なお菓子を持って来ていて、周りの子たちと交換して、自分の持っていないお菓子を食べることができていた。

ある日いつものようにバスに乗っていると、一緒にスクールに通っていた妹が、となりの子と何やら話していた。するとなんと、オヤツをもらいもせずに、隣の子にオヤツをあげているではないか。

この頃、帰りのバスの中では、オヤツを交換するのが普通であったので、それを見た時に妹がペテン師にだまされているような嫌な感じがして、オヤツをもらった子たちに抗議したのだが、

「だってくみちゃんがくれたんだからいいじゃん」

と言われてしまって妹に話してみても、何とも言えないえ切らない態度を取られてしまった。そんなに大したことではなかったのかもしれないが、その時はなんだか無性に腹が立ち、感情に任せて泣きながら怒っていた。

「なぜそんなことで怒るんだ」と誰かに言われそうな話だが、当時のぼくにとっては対等でないということが、妹が浅はかにも外交に負けて不平等ふびょうどう条約じょうやくを結ばされているような、得も言われぬ敗北感(はいぼくかん)があって嫌だったのだ。

幼少期からぼくには、人生に対する満たされない思いがあったから、多分それが原因なんだと思う。大人になるにつれてそういうことに関して無神経になるのだが、本来すべての人間は対等であるべきであり、誰かだけが損をして割を食うことがないようにすべきだと今になっても思う。

 

 

*えいごの授業の話

大葉小では小学校5年生から英語の授業があり、上級生たちはなにやら難しそうなことを勉強しているようだった。だが、今にして思えば、日本は英語の勉強を開始するのが『致命的ちめいてき』に遅く、そして特殊な活用や理論など無意味なことを教えすぎである。

語学の肝はやはり『単語の記憶』と『会話の実践じっせん』であり、中国人の方々のように『復唱ふくしょう』することで覚えようとするような『工夫』が日本には欠けていると考えられる。大切なのは成果が出るまでガムシャラにやることではなく、やり方を変えながら『工夫』し、何が重要であるか、その『要点』を探ることにある。

逆算などと言っているようなバカには一生かかってもできはしないことであり、経済大国としての実像を結ぶためには、早くからより『実用的な』勉強をすることを心掛けるべきである。

 

 

*すいばりが刺さった話

 公園を歩いていたある日、てのひらで葉っぱをパラパラさわっていたら、その葉がとがっていたせいでトゲがささって抜けなくなってしまったことがある。病院に行くと年末調整の履歴でバレて、父から無駄遣むだづかいしたと怒られるかもしれないので、内々ないないに処理することになった。

 家に帰ってからぼくが好きで、毎週録画していた戦隊もののヒーローのビデオを再生しながら、母にナイフでえぐって取り出してもらった。これは涙が出るくらい痛く、トゲが深くまでささっていたのでなかなか抜けなかったこともあり、かなり大変だった。

 結局は30分ほど格闘して処置が済み、このことで我慢したからという理由で、誕生日とかクリスマスでもないのに、がんばれゴエモンの『えびす丸の迷路のゲーム』を買ってもらえたのは嬉しかった。

 

 

*はないちもんめの話

 2年生の時に、休み時間に『はないちもんめ』をやるのが流行ったことがある。もんめとは、重さの単位のことで、花が一匁いちもんめあるという意味の言葉である。

これはわりと女の子がやるイメージがある遊びだが、大葉小ではそういうのは全然気にせず、男子も混ざって遊んでいた。まず横一列になって手を繋ぎ、歌っている方が前に進んで歌詞の最後で足を空中に蹴り上げ、その後、交互に歌って進めていく。

「勝~って嬉しい、はないちもんめ」

「負け~て悔しい、はないちもんめ」

「あの子がほしい」

「あの子じゃ分からん」

「相談しよう」

「そうしよう」

 と言って、相手チームの中でほしい人を決め、代表者がジャンケンして、勝った方がその子をチームに入れることができるというルールの下に行われていた。その中でジャンケンすると、よくぼくを選んで来る子がいて、その子がリサだった。

 リサはお父さんがアメリカ人でお母さんが日本人のハーフの女の子で、家が近かったこともあってよく話していた。かなり話しやすい感じの子で、ぼくは女の子の中で、なぜだかこの子だけ呼び捨てで呼んでいた。向こうもたぶんぼくのことを好意的に捉えてくれていたと思う。友達の家に行く時にリサの家の前を通ると

「けんたろう~」

 と言ってよく手を振ってくれていた。日本人はあまりこういうことをしないのだが、お父さんの影響なのかアメリカンな雰囲気のある子だった。特になにかあったわけではないのだが、なんだかリサは異性だけど安心して話せる感じのする明るくて元気な子だった。

 

 

*習い事(習字)の話

 ぼくはとにかくじっとしているのが嫌いで、座って字を書くというのが大嫌いだった。日本ではこういった習字教室をおばあさんがやっていることが多いのだが、ここもご多分に漏れずそうであった。

 『習字教室』は家から3本隣に行った通りにあって、そこでは同じクラスのさくらちゃんとゆうまくんも通っていた。さくらちゃんは長い髪をいつもくくっていて、痩せていてかわいい子だった。ゆうまくんはだいぶ太っていて、運動ができなくて鈍い子だった。良くないことだが、ぼくはそんなゆうまくんを内心少しバカにしていた。

 当時流行っていたるろうに剣心の主人公のまねをして、ほおに十字を書いたり、知らない子と喧嘩になったりもしていた。

 けど、そんなぼくが『習字教室』に通い続けられたのには理由があって、それは綺麗な字が書けて先生にOKがもらえると、帰りに一つ好きなお菓子がもらえたからだ。『ハッピーターン』や『ルマンド』当時でたばかりの『アルフォート』など、いいお菓子がそろっていて、このお菓子ほしさに週一の習字に通っていたのであった。やはり、人間は食い気には弱く、何か目標やご褒美ほうびがあった方が頑張れるということだと思う。

 やる気を表す『モチベーション』という言葉を聞いたことがある人は多いと思うが、目の前にニンジンをつるされた方が馬は速く走れるというものだろう。ぼくはこのご褒美方式が好きで、ほとんど休まずにこの『習字教室』に通い続けることができたのであった。

 

 

*うさぎ小屋の裏での話

2年生の中頃、亀山かめやまくんと鶴川つるかわくんという二人と仲良くなった。かめちゃんは丸顔で鼻がツンと高くてしゃべり方がゆっくりで、つるちゃんは面長おもながの顔で目がつり目で早口な子だった。

 だいたい3人でかめちゃんの家で『ストリートファイター2』という格闘ゲームをやることが多く、負けた方が交代するというルールでやっていた。この『スト2』では壁際に追い込まれることで攻撃を回避できなくなる、いわゆる『ハメ技』の状態になることが多々あった。なので当時は、ボタンを連打しまくって『とにかく追い詰められないように攻めまくる』という戦略が主流で、3人で楽しくプレーしていた。

そんなある時、給食を食べ終わってからやる掃除をちょっとだけ休んで3人で話をしていた。

「次の授業、体育だよね」

「うん、いつも思うんだけど、女子と一緒に着替えるのってなんか気まずいよね」

 そんなたわいもない話をしていると、かめちゃんが急に真剣な顔になって話し始めた。

「けんちゃんって好きな子いるの?」

「えっ」

 ぼくはかめちゃんから意外な質問を受けたので少し戸惑ってしまった。

「いるよ」

「そうなんだ、ぼくも教えるから、けんちゃんも教えてよ。つるちゃんも」

「うん、いいよ」

「わかった。じゃあいつものとこ行こうよ」

 当時ぼくらは、3人で内緒話をする時に、人目につきにくいう理由でうさぎ小屋の裏に行くことが多かった。

「つるちゃん早く言ってよ」

「かめちゃんこそ」

 そんな感じでしばらく最初に言う人を押し付け合っていたのだが、このままではらちが明かないと思い、

「う~ん、じゃあぼくから言うね。ぼくはさくらちゃんが好き」

「「え~っ、そうなんだ~」」

 かめちゃんとつるちゃんはタイプが違うが、この時は珍しく声をハモらせていた。

「じゃあこれで解散」

「え~。それはズルいよ。勇気出して言ったんだから、二人も教えないとダメだろ」

「冗談だよ、僕はともみちゃんが好きなんだ」

 かめちゃんがちょっと照れながら好きだと言った友美ちゃんは、髪の毛をいつも横に二つくくりにしていて、明るくて可愛らしい感じの子だった。

「「そうなんだ~」」

 ぼくとつるちゃんは、さっきと同じように声をハモらせていた。

「なんか最後だとインパクトが薄れるかな。ぼくはけいこちゃんが好き」

 恵子ちゃんは細くて色白で背が高くて、ちょっと大人な雰囲気のある子だった。

“みんな好きな子って違うんだ”

ぼくはまだ幼かったので、これが女の子だと一人の子に集中したりすることはまだ知らなかったが、この経験はこの年頃の僕にとってかなり衝撃的なものであった。

日本には十人十色という言葉があるが、この頃はまだ曖昧あいまいであった、『自分と他人とは違う』ということが認識できた体験であった。秘密を共有すると仲良くなると言うが、このことがあってからその言葉の通り、ぼくら3人の結束はより一層強くなったように感じる。

 

 

*父との野球の話

日本のサラリーマンは土曜と日曜が休みであることが多く、その2日の休みというのは日本人にとって大変貴重なものである。そんな貴重な日曜日なのだが、たまにしか遊んでくれなかった父が、珍しく公園で一緒に遊んでくれたことがあった。

二人して公園に行き、交代でピッチャーとバッターをやって野球をやることになった。ぼくはあまり野球とは縁がなかったので、こういう感じで遊ぶのは初めてであり、その日は父の機嫌も良かったので凄く楽しかった。

「けんたろうもやるようになったじゃないか。もう父ちゃんと変わらないな」

「そうでしょ?だって、ぼくもう2年生なんだよ!」

「そうだな、大きくなったもんだ」

それから何度かバッティングを続け、そろそろ飽きてきたということで道具をその場に置いて、少し離れた所にあるブランコを後ろから押してもらってぐことになった。暫く漕いでいたのだが、次第に辺りも暗くなり、

「父ちゃん、だいぶ暗くなってきたね」

「そうだな。日も暮れそうだし、もうそろそろ帰るか」

「え~もう一回やろうよ~」

「しょうがないな。もう一回だけだぞ」

それから再度ブランコを漕いで、

「約束だからもう帰るぞ」

「うん、そうだね。帰ろう」

そう言って家路いえじいたのだが、なんと目を離した隙に、バットとグローブとボールが盗まれてしまっていたのだ。父が怒り出すのではないかと不安にられたが、発せられた言葉は意外なものであった。

「ちゃんと見とけばよかったな~。ごめんな、けんたろう」

普段から無遠慮ぶえんりょで怒りやすい父であったが、ぼくはこの時ばかりは尊敬できる人物であると感じた。父は『謝ることが出来る人』であった。現代社会において、自分の非を頑なに認めない人間が多い中、自分の子供に対しても真摯しんしに向き合うことができていた。

「ううん、いいよ」

「また今度、買ってやるからな」

そう言って帰ったその日は、ぼくにとって数少ない父とのいい思い出であった。

 

 

*母の誕生日の話

毎年11月15日は母の誕生日であった。小学校2年生にもなると、何かと親への感謝というものを示すように諭されるものであり、学校で先生や同級生から、そういう行動に出ていて当然のように言われたりする。

そこでぼくもプレゼントというものをあげようと考え、いろいろ思案してみたのだが、あまりいいものが思い浮かばなかった。そうこうしている内に、母の誕生日が近づいて来たのだが、ある雨の日に母が「かたる」と言っているのを聞いてはっとひらめいた。

何日か前にこういう話をしていた時に、かわのくんがおばあちゃんにではあるが、『肩たたき券をあげた』という話をしていたのを思い出したのだ。そこでぼくもそれに習ってプレゼントすることにしたのだが、当日までに母に見つかってはいけないと考え、机の引き出しに鍵をかけて隠しておいた。

そして当日、よく考えれば初めて母にプレゼントをあげたのだが、

「母ちゃん、コレ」

「何?コレって」

「誕生日プレゼントの肩たたき券」

「そんな――ありがとうね、けんちゃん」

と言って泣き出したので、“何も泣くことはないだろう”と思ったのだが、これはとても大切なことであった。母は『感謝することができる人』であった。

現代社会において、やってもらって当たり前と考えている人間が多い中、当時の母は、何があっても絶対に自分の非を認めなかったのだが、こういう時にお礼が言えるということは素直に尊敬すべきことであると考えられる。

「大事すぎて使えないね」

「いや、使ってくれなきゃ困るよ。せっかくあげたんだから」

と言って特に何も思わなかったのだが、大人になった今にして思えば、母の気持ちがよく理解できる。『孝行こうこうをしたいと思えど親はなし』と言うが、人間なんでも後悔しないように生きているうちにやっておいた方がいいと言える。

 

 

*ぼくの自信作の話

 小学校低学年の図画工作の授業は、工具を使うことはほとんどなく、もっぱら絵をいて提出するといった内容だった。2年生の中頃、クレヨンを使って絵を描く授業があり、大好きな『のぼり棒の絵』を描いて提出したことがあった。

 ぼくは綺麗に描けたことに対して満足感を覚え、先生に褒めてもらえると期待していたのだが、返って来た言葉は

「けんたろうくん、きなおそっか」

というものであった。ぼくは一生懸命に描いた大好きな『のぼり棒の絵』だったので、何が悪いのか分からず先生に聞いてみると、

「先生はこの絵はちょっとありきたりだと思うな。けんたろうくんなら、もっと良い作品が描けると思う」

と言われた。そのアドバイスがあったことで、先月みんなで飼い始めた『ザリガニの上にクラスの友達がいっぱい乗っている絵』に替えて提出することにした。

先生に見せに行くと凄く褒めてくれて、千葉市の選考にみんなで応募した中で、なんと『佳作かさく』に選ばれたのだった。表彰されたのはクラスで2人だけだったので、これも凄く嬉しかった。

昨今の日本では『個性』というものが大切にされなくなって来ているが、ぼくが描いたこの絵は、他の子には描けない『独創的どくそうてきな作品』であったと思う。ぼくは決して絵が上手とは言えなかったが、創意そうい工夫くふうと熱意を持って一生懸命に描いたのを大人たちが認めてくれたのだろう。

そのことがあってから、ぼくは例えヘタクソな分野でも、アイデア次第で勝つことができると、何でも全力で取り組むようになれたんだと思う。それで失敗することもあったけど、今まで頑張って来れたのは、こういう小さな『成功体験の積み重ね』があったからだと考えている。

 

 

*家族での遊びの話

当時家族でやっていたもので、階段を使って『ジャンケンに勝つと出した手の分だけ進める』という遊びがあった。グーはグリコ、チョキはチヨコレイト、パーはパイナツプルで、グーだけ進み方が遅くて不利であったが、グリコノオマケというフレーズを使って歩を進めるという裏技があったりもした。

この公園で遊んだ時に、帰る間際に父がベンチで寝ていたのだが、今にして思えば帰りの体力を温存していたんだと自分が車を運転するようになって気が付いたりもした。家では馬になってぼくら兄妹を背中に乗せてくれたりしたのだが、父はどうにも気分屋であり、そんな父とは、一つ大きく印象に残っている話がある。

ある時、撮りためておいた戦隊もののヒーローのビデオを一緒に見ようと言ったら、「もう眠いから寝る」と断られてしまったり、あげようとしていたオヤツをわたすと、「もう歯をみがいたから食べられない」と言われてしまったりもした。

仕方がないのでテレビを見ながらコタツに入り、みかんと千葉の特産品の落花生らっかせい(ピーナッツ)とを一人で食べていた。ぼくはこの時の悲しさというものを未だに胸に秘めていて、“父をしたう気持ちを尊重してほしかった“と思っている。

だが、“自分の子供ができたらこういう時には断らず一緒にビデオを見て、オヤツを食べてあげて、子供の頼みを無下むげにしないようにしよう“と思えているのは怪我けが功名こうみょうとでも言うべきことなのだろうか。

一瞬で消えたように見えるが『コインやトランプを手で弾いて隠している』とか、人体を切断するが『二人いて無事』とか、水を振って氷にするが『冷蔵庫でゆっくり冷やすとマイナス4度くらいまで水の状態を保っていられる過冷却水を使っている』とかいう映像を、タネもよく分からないまま見ながらそう思った。

 

 

*クリスマス会の話

 小学校2年生の時に妹の友達のたけしくんの家でやったクリスマス会を、ぼくは今でもよく覚えている。その日は『プレゼント交換』が企画されており、ぼくは母に渡された『バトルエンピツ』を持って行っていた。これはテレビゲームのドラゴンクエストのモンスターが描かれた六角ろっかく鉛筆えんぴつで、鉛筆を転がして出た面の技を繰り出して、対戦相手を倒すという、今考えても画期的かっきてきなオモチャであった。

ぼくは『プレゼント交換』に何を持って行くか事前に知らされていなかったのだが、その魅力的な内容から、この『バトエン』が無性にほしくなってしまっていた。だが、日本人の悲しい性なのか、『プレゼント交換』があるため、そのことを言い出せなかった。結局その場でみんなのプレゼントを見ても自分が一番欲しいと思えるのはこの『バトエン』であった。

“普段はあまり欲しくないようなものを買ってくる時もあるのに、なんでこんな時に限って良いものを買ってくるんだよ“と思いながらも、そうこうしているうちに、『プレゼント交換』が始まってしまった。

ルールは簡単で、曲に合わせて隣の人にプレゼントを手渡し、自分はもう一方の側の隣の人からプレゼントを受け取り、それを繰り返して音楽が鳴りやんだら手を止めるというものだった。

ぼくは自分のところにバトエンが返って来るのを願っていたのだが、その願いもむなしく、ぼくのところには別のものが来てしまい、バトエンはたけしくんのところへ行ってしまった。ガッカリしてうなだれていると、どうやらもう一人残念がっている子がいるようだ。それはなんと、ぼくのバトエンを手に入れたたけしくんだった。

「あ~あ~、つまんないの」

「どうしたのたけしくん?」

 ぼくは不思議に思ってワケを聞いてみた。

「実はぼく、けんちゃんのプレゼントの方がほしかったんだ」

「えっ」

 ぼくは意外な返答が返ってきたというのと、自分に訪れた思わぬ幸運との間で複雑な感情を抱いていた。

「それだったら、そのバトエンと交換しようよ!ぼくもそっちがほしかったんだ」

「えっ、そうなの!?それなら、ぼくもそうしたいな」

 こうしてぼくらは、お互いに全く損をすることなく、ほしいものを手に入れることができた。これは日本の昔話にある、『わらしべ長者』と同じで、持っていたワラを交換し、そこからまた違うものへと交換して行き、ついには自分の家を手に入れたという話を思い出すような出来事であった。そして、上手く交渉すれば欲しい物が手に入ることがある、ということを学ぶことができた瞬間でもあった。

 これは現代でもわりと通用する話で、テレビの企画やネットの掲示板などで実践する人は未だに一定数いるようだ。足りない足りないとなげいているよりも、幸運は思わぬところに転がっているのだから、自分なんかと悲観的にならずに、価値を認めてくれる人や集団に自分を売り込んでみるのが大切なんだと思う。

 

 

*勝手に貸さないでの話

小学校2年生の時に、いつものように友達と外で遊んで帰ると、クリスマス会で一緒だったたけしくんと妹が、なんとぼくのファミコンで遊んでいるではないか。

勝手に使っていることに対して、すぐにでも抗議したいところではあったが、彼らよりぼくの方が3歳年上であり、子供ながらに大人げないかと思ったので、その場ではぐっとこらえて何も言わないようにした。

だが、たけしくんが帰ってから、ぼくのものなのに断りなく使ったことを、妹と止めなかった母に対してかなり文句を言っていた。

ただ、もちろん母が立場的に断りにくかったことや、元々は親に出してもらったお金で買ったものであるということも、分かってはいたのだが、“ぼくの気持ちを尊重する”ということをしてほしかったのだ。

ぼくが怒っていたのは、貸したことにではなく、ぼくに断りもなく『勝手に』貸したことがどうしても許せなかったからで、ぼくにしては珍しく、その日から3日くらいは、いつまでもブリブリ怒っていた。

大人になってからはしょうもないと思えるようなことかもしれないが、子供にとっては真剣そのものの話なので、こういう時はその気持ちを否定したりせず、誠意を持って対応するようにしてあげてほしい。

 

 

*千葉の家での思い出の話

 ぼくが小学校低学年生だった頃、あすみが丘では『住宅ブーム』が巻き起こっていて、横にたくさん列がある緩い坂道の両側に、『黒い家と白い家が交互に並んで』建っていた。ぼくらはその中の1件を借家として借りていて、『坂の下から5番目の屋根が黒い方の家』だった。

日本の家屋には珍しく1階2階両方にトイレがあり、1階には風呂、キッチン、リビング、畳がかれている寝室があって、ぼくはそこで母と妹と3人で寝ていた。

2階には父の寝室、ぼくの部屋、妹の部屋があって、それぞれが自分の趣味の物を置いていた。外にはレンガ作りの駐車場と、車2台分くらいの芝生の庭があり、そこで父とサッカーをしたりキャッチボールをしたりしていた。

たまにボールが母の家庭かてい菜園さいえんに入ってしまって怒られたり、冬になると芝生しばふの上に綺麗に雪が降って、それを使って雪だるまや雪うさぎを作ったりしていた。

 また、ぼくがとても気に入っていて、この庭でよく遊んでいたのが、『竹馬』と『ホッピング』だった。『竹馬』は身長と同じくらいある2本の棒に突起とっきがついていて、そこに乗ることでバランスを取りながら自分の足のように使って歩くという乗り物だった。

『ホッピング』は、工事現場にあるドリルのような形をしていて、バイクのハンドルのような部分を持って、下側にある横に広がっている乗る部分に足を掛けて、そのさらに下にある大きめのバネを使って1本足でジャンプする、という乗り物であった。どちらもバランス感覚をやしなうのに適しており、『竹馬たけうま』で片足でジャンプしたり、『ホッピング』で庭を一周したりして楽しんでいた。

 

 

*おじいちゃんとおばあちゃんがまりに来てくれた話

 小学校2年生の冬、おじいちゃんとおばあちゃんが、ぼくら家に泊まりに来てくれた。その日はみんなで夕飯を食べて普通に寝たのだが、次の日起きてからが大変だった。朝起きて長袖のトレーナーを着ると袖の中が動いていて突然腕に痛みが走った。

 理由は取り込んだ洗濯物の中に『スズメバチ』が入っていて、ぼくの腕を刺してしまったからだ。ぼくは痛みで泣いていたのだが、お母さんが服を脱がせてスズメバチをティッシュの箱でたたいてつぶしてくれた。

「けんちゃんごめんね」

 事情を知ったおばあちゃんはぼくの顔を真っ直ぐ見て、ちゃんと謝ってくれた。その後、ぼくは病院に行ってワクチンを打ってもらい、1日安静にしていた。その後はスズメバチに二回刺されるとワクチンを打っても死ぬというデマを信じて、ハチの巣には絶対に近づかないようになった。

 

 

*しょうちゃんの引っ越しの話

2年生の終わりに、とても悲しいことがあった。それは、1年生の時から仲良くしてくれていて、一緒に遊んできたしょうちゃんが、なんと転校してしまうことになったのだ。

それを聞いたぼくは凄く残念に感じて、泣きそうになってしまったのだが、

「大丈夫、5年生になったら戻ってくるから」と言ってくれたので、

「なんだ、それなら良かった。また会えるんだね」

と言って二人で笑い合っていた。よくある親の仕事の都合での転校というやつで、3年限定の、期間が過ぎれば東京の本社に戻って来れるというものであった。

だが、いざその時を迎えると、また会えると分かってはいても、なんだかとてもさみしい気持ちになった。
引っ越し当日、はたの、おおのくん、もっちゃんでしょうちゃんを見送ることになった。引っ越しのトラックがどんどん荷物を飲み込んでいき、いよいよお別れの時がやってきた。

「しょうちゃん、元気でね」

「うん、おおのくんも」

そう言って二人は、がっちりと握手した。

「また、マリオカートしようね」

「うん、それまでにもっちゃんに勝てるようになっとくよ」

この二人も笑いながら、固く握手あくしゅをした。

「5年生になったら、絶対に戻ってきてよね」

「うん、約束する。必ず戻ってくるよ」

そう言って泣きそうになりながら握手したしょうちゃんの手は、柔らかくて暖かかった。しょうちゃんが窓から顔を出しながら手を振っているタクシーを見送ってから、ぼくらはそれぞれの家へと帰っていった。これはぼくにとって初めての、仲の良い友達との別れであった。

だが、“5年生になればまた会えるんだし”と考えてどこか楽観視していた。家に帰ってからは、これまでしょうちゃんと過ごした日々を繰り返し思い出していた。ぼくたちはずっと友達で、いつだって繋がっているんだ。

また会えるよね、しょうちゃん。


ほかのはなし
第二回 https://note.com/aquarius12/n/n485711a96bee
第三回 https://note.com/aquarius12/n/ne72e398ce365
第四回 https://note.com/aquarius12/n/nfc7942dbb99a
第五回 https://note.com/aquarius12/n/n787cc6abd14b

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