(3-7)店長の日々① 駆け出し【 45歳の自叙伝 2016 】
ある充実
店長になった新宿NSビル店に勤務していた時に、私は結婚をして杉並に引越しをした。その年の暮れには娘も誕生した。営団地下鉄丸の内線の新高円寺駅と西新宿駅を往復する日々、家に帰ると小さな寝顔が本当に愛おしく映った。通勤にあって高層ビルの谷間を歩いていると、その空はやけに高く、清々しく感じた。
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満を持した異動
そしていつしか新宿NSビル店に来てから二年が経とうとしていた。自分で言うのも何だが、この間、店としては良い仕上がり具合になっていた。私が店先に立つ必要は全く無く、部下の社員が事務のほとんどをこなし、スタッフは中々の高いモチベーションで助け合って業務を行っていてくれた。スタッフ同士で問題を起こすことなどまったく無く、店全体を俯瞰して見ていると、まるで店が生きているようにさえ感じたものだった。そうして後、ついに新宿NSビル店を離れる時はやってきた。
新たな辞令で、私はそれまでの喫茶事業からレストラン事業への異動となった。社員になって店長としての仕事をさせてもらい、結婚して子供も授かった。ほぼ満足の仕上がりとなった店には本当に思い入れが尽きなかった。そしてこの喫茶事業の支配人代理を始め、たくさんの人々にいろいろなことを学ばせてもらっていた。何と言うか、とても充実した幸せな時間を過ごさせてもらっていた。
後任には一つ年下の新米店長が赴任することになった。その年の店長クラスの忘年会では、その新米店長が「直江店長の後は完璧です。僕は何もする必要が無かったんですよ!」と賛辞を贈ってくれたことがあった。
それはただのお世辞でも無かったようだった。何故なら、私が育てた社員やスタッフ達からも「何の問題もありません、今の店長と上手くやれています」と報告を受けていて、反対に後任の店長の悪口を聞くことも無かったからである。私は「あぁ、それなら良かった」とその都度、素直に思っていた。もっとも後任の店長の人柄や力量があってのことと思うが、とにかく新宿NSビル店は上手に機能して引き続き利益を上げていた。
よくある話の多くは、残されたスタッフが前任者のところに行き、後任者の悪口や不満を漏らす…と言うのが異動の際の付き物であり、そうすると人にもよるが、前任者は後任者がやり辛くしているのを影で嘲笑うと言うこともまた実際散見されるのだった。私の場合、まさにこの悪いケースを後々味合わされることになるのだった。
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小さな欧風料理の店
レストラン事業は会社の花形として位置づけられて、端から見れば、私は栄転と言うことだった。レストラン事業に来て最初の店舗は、百貨店は別館の地下にあった小さな欧風料理の店だった。
喫茶の知識しかなかった私は、料理や宴会の知識が少なく、異動後に結構苦労することになってしまった。休日には地元の図書館に何度も通い、ワインやチーズを手始めに西洋料理(特にイタリア料理だったが)に関する知識を詰め込んでいった。調理師学校を出ていた妻にも様々に教えられもして、とにかく仕事に支障が出ないようにと焦っていた。
この店は比較的規模が小さく、お客様との距離も近く、会話がし易かった。料理やアルコールを提供するときには、少しばかりの薀蓄も有効であって、またむしろ必要だった。初めはヒヤヒヤの会話も、いつしかお客様とのやりとりに楽しさを覚えていった。
そんな努力の甲斐あってか、店の売上も次第に上がっていった。そして、喫茶のときとはまた違う、アルコールを出してお客様に楽しんでもらう喜びを知っていった。お客様が自分の店で安心しきって過ごされるのを見ていると「接客って良いもんだなぁ…」とあらためて実感していった。また、店が忙しいときに私の接客を受けたお客様からチップを頂いたことがあった。日本では接客にチップはほとんど無いものだし、忙しい時の接客は荒れがちになる中で、それも日本人から頂けたことはちょっとした自信にもなり、その後の励みになった。
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サービスが伝説になる時
期せずして、各店舗のサービスの向上を図るために、当時の社長が支配人や店長クラスの人間に読ませた本があった。それは「顧客満足はリーダーシップで決まる」と副題のついた『サービスが伝説になる時/ベッツィ・サンダース』という本で…(抜粋)サービスが伝説になるためには~リーダーが「お客様のためになることなら何でもする」という姿勢を、仕事の上でも仕事を離れても、常に態度で示すこと。顧客に直接応対する現場の部下たちは、リーダーの言葉ではなく生きる姿勢に応えようとするものです…とあって、組織を預かる者として腑に落ちる内容が多く、どこか東洋思想にある組織論との共通点をも感じさせた。
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この記事につきまして
45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。
記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。
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