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(5-3)転院にあたり【 45歳の自叙伝 2016 】

◆ Information
 【 45歳の自叙伝 】と題しておりますが「 自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅 」が本来のタイトルです。この自叙伝は下記マガジンにまとめています。あわせてお読み頂けましたら幸いです。and profile も…

(5-3)転院にあたり 登場人物、他

 … 父自身が治療目的で通っていた「触れずに痛みを取る会」の解散後、父はその会員たちの要請でヒーリングの先生( 気功師・真理を学ぶ会旧サトルの会 講師 )となっていた。宇都宮で「新 波動性科学入門」をテキストにヒーリングの講義をしていたが、講義を終えたその夜に脳内出血で倒れてしまった。

サトルの会 … 父の講師活動が広がっていくなか、各地の会員たちは「サトルの会」と言う名称を会全体の冠としてヒーリングの勉強会を行なっていった。このサトルは「 subtle ( = 微妙な、とらえがたい、微細な ) 」の意味で、いわゆる「 悟 ( さとる ) 」のことではなかったが、一般の方には分かりにくかったようだ。

 … ヨガと瞑想の講師。僧籍にあるが寺持ちではなく、むしろ独立独歩の行者の様相である。パドマヨーガ会(パドマワールド)の代表。母の瞑想体験「 とき子のインナートリップ ~ 直江幸法の瞑想体験(2001年)~ 」

中野さん … 父の勉強会に、栃木から東京まで通っていた勉強熱心な女性。十二月四日以降父との関係が明るみになり、真理を学ぶ会旧サトルの会)を出入り禁止になった。

市役所で

 父は半身不随になったものの、リハビリを開始できるほどに回復していた。そして、宇都宮での入院生活も一ヶ月半を過ぎ、神奈川への転院話が持ち上がっていた。ただ、転院となると宇都宮での入院費を支払って、次の病院でのリハビリに移るのであり、ここで新たな問題が発生した。つまり、父は健康保険料の支払いをしておらず、転院にあたっても、健康保険証の申請に行かなければならなかったのである。この申請も私があたることになった。

 市役所に相談に行くと、先に若い男性職員が対応してくれた。父はその他の公共サービスの支払いもしていなかったようで、相談を始めると、未払いの保険料など遡って調べ始め、まとまった納付を行わなければ健康保険証は出せないと言ってきた。今まできちんと支払をせず、困ったときだけサービスを求める者には、当然と言えば当然の冷たい態度だった。母には幾らか預かってきてはいたがそれでは足りず、また私に余裕があるはずもなく、入院費のことまで考えると、私が借り入れでもして用立てしなければならないのか、そんな当てもないのにどうしたらいいのか…と、不安がよぎっていった。

 その後も、その若い職員はまるでダメ人間を見るような視線で対応し続けた。これまでの状況説明や今の支払い能力などを話してみるものの、この相談は次第に押し問答のようになっていった。そして、その若い職員は話の進展が見込めないと判断したのか、責任者がいるらしい場所へ案内して、ここで待つようにと、面倒臭そうに片隅のベンチに私を座らせた。何とも悔しく惨めな気分だった。そして、誰が来るとも分からないまま、とにかくその間に出来ることは何でもしようと、健康保険証を無事に発行してもらえるように必死に通して祈ったのだった。

 しばらくして、今度は年配の男性職員が現れた。その人は来るなりベンチに座っている私の横に腰掛けて「大変だったでしょう、今日の納付は○○で良いですよ。ちょっと待っていてくださいね」と他の人には聞こえないように小さな声で話してくれた。その時言われたその納付額は、持ち合わせとほぼ同じ金額だった。年配の職員は納付書を持って戻ってくると、静かに「お父さん本当に良かったですね。お大事にしてくださいね」と優しく気遣ってくれたのだった。すっかり安心してしまった私は「ありがとうございます、ありがとうございます…」と何度も礼を言って市役所を後にした。

 この未納付問題は、父自身が支払えなかった訳ではなかっただろうに、きちんとしていなかったことは本当に問題であった。こうしたことの背景に、世間や父自身に対する父の傲慢さがあることは否定できないと思えた。余談だが、父は車の任意保険にも加入せず、荒っぽい運転を平気で繰り返していた。押さえるべきを押えない、ずれた感覚に父はあった。

 とにかく、何であれ、無事に健康保険証を発行してもらえたことは母も安堵するところであっただろう。私もどうにか役を果たせることができた思いで、その日起きたことを振り返ると、やおらありがたい気持ちが沸き起こって、こわばった身体がへなへなと緩んでいくのを感じた。


◇  ◇  ◇

父の自宅の引越し

 一月末になって父は茅ヶ崎に転院することになった。宇都宮での日々は中野さんの問題も済み、本当にいろいろと慌しく過ぎて行ったわけだが、その転院も済むと、次は父のマンションの引越しに追われることになった。業者には頼まないとの母の方針で、家族それぞれ時間のある時に、父のマンションに通い詰め、少しずつ引越しの準備と片付けを進めていった。

 ある時、母が比較的冷静に「あんた、お父さんの部屋から物凄いものを見付けたよ…」と父の机にあったと言う数枚の写真を見せてきた。見るとそれはある会員たちの写真だった。その内容も一人二人の問題ではなく、書き記せないが大勢の人のものであり、本来ならもっと衝撃的だったはずなのだろうが、実のところ今までの父のしてきたことに麻痺してしまっていたのか、むしろ「これが実態だったのか…」と呆れてしまい、妙に無反応な心境になっていた。母も同様ではなかったろうか。ただ、これはこのままという訳にも行かず、妻である母は被害者という立場でもって、相手の女性たちそれぞれに写真のコピーを送りつけたのだった。中には電話で私に文句を言ってきた人もいたが、少々罵られたところで全く意に介さなくなっていた。もうどうでも良かった。

 そのことよりも、その頃とある弁護士事務所から父宛に督促状のようなものが届いていて、もしかしたら、父に代わって支払いをしなければならないのか…などと考え、私にはこの金銭問題の方が気掛かりだった。とにかくこの頃は「いつまで父の尻拭いをし続けるのか、いったい次は何が起きるのか…」と思い煩うことが多く、私の気持ちはいつもまでも休むことが出来ずにいた。

 引越しはというと、父の部屋や水周りなどは本当に汚れが酷かった。大きめの家具も幾つも処分した。ベランダを埋め尽くした植物たちもどうにか片付けた。二十年以上借り続けた家は、孫たちの力も借り、家族総出で何とか期日までに引っ越しを終えることができた。

 結局、父が溜め込んできた物は、父自身が手を着けることなく一切が片付けられた。この光景は父に関する様々なこと総てにあてはまって見えるようだった。いつだって父の始末は人任せなのである。そして、私が子供の頃に見た空っぽの間取りを自分の子供たちと眺めていると、その時間の経過に大きな節目のようなものを感じた。

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 この引越しによって、母の家には父と会社の物が大挙して押し寄せた。母は父とのこれまでの顛末もあってか、家に溢れる家具や荷物を前に、ダンマリを決め込んで「二、三日話しかけないで!」と、私に強い怒り口調で言ってきた。気持ちの整理をするための時間が必要なのは理解出来ることで、特に異論はなかったが、母は感情的になれる相手にはあからさまに強くあたるところもあり、その対象は父と私であった。そしてその怒りが納まるまで、いつも成す術は無かった。





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この記事につきまして

 45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。

 記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。


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