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思想・哲学・宗教・人物(My favorite notes)

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思想・哲学・宗教など心や意識をテーマにしたお気に入り記事をまとめています。スキさせて頂いただけでは物足りない、感銘を受けた記事、とても為になった記事、何度も読み返したいような記事…
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#仏教

「現成公案」メモ⑪

以下の節では、「衆生と悟り」の関係について語られる。 人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。 人が悟りを得るというのは、水に月が宿るようなものである。月はぬれず、水も乱れない。 水と月(衆生と悟り) 「水」は衆生を表わし、「月」は悟り(菩提)を表わす。 衆生が菩提心を発すことを発心(発菩提心)という。悟りの心は本来、衆生に備わっているから発心することができる。したがって、衆生と悟りが分かれていて、衆生が修行をすることで未来に悟りを得るのではな

「現成公案」メモ⑩

以下の節では、仏法における生と死について語られる。 この節については以前にも「前後際断」という言葉を中心に書いたが、あらためて書いてみたいと思う。 以下、本文 たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。 焚き木は燃え尽きて灰となる。元の焚き木に戻ることは決してない。そうであるが、灰は後、薪は先(前)と考えてはならない。 燃えて灰となったものが元に戻ることは決してないというのは、単純な物理法則(エントロピ

「現成公案」メモ⑨

人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。 人がはじめて法(ダルマ)を求めるとき、法は求める対象になっているため、法そのものからかえって離れてしまっている。法(ダルマ)とは自己の真理のことだから、自己を先に立てて法を求めれば、当然、法と分離してしまう。 『学道用心集』では「法我を転じ、我法を転ずるなり」(法が自己を転じ、自己が法を転ずるのだ)と言っている。 ここでは主客が逆転している。つまり、まず法のほうが主体となって自己を証し、そのあとに自己が法を証し

「現成公案」メモ⑧

仏法における修証とは、「自己」⇆「万法」「迷」⇆「悟」「諸仏」⇆「衆生」という無限の往還である。 それぞれは同じ〈いのち〉の表と裏であり、その相互運動が仏道である。 このような無窮の参究である仏道を、道元禅師は以下のように簡潔にまとめている。 仏道をならふといふは、自己をならふ也。 「ならう」(習う、倣う)は学ぶという意味に加えて、手本をまねるという意味がある。手本とはもちろん仏である。仏は本来の自己のことであるから、本来の自己である仏を手本にして行いを倣い、学ぶのが仏

「現成公案」メモ⑦

修証において、自己が先手となるのを「迷」といい、万法が先手となるのを「悟」という。どちらも仏法における修証であり、一如である。 迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。 仏法から見た万法とは「仏のいのち」そのものである。 「迷」という自己(主体)における弁道が熟しきり、「仏のいのち」である万法に証され、自己が「仏のいのち」そのものとなってしまうことを「大悟」といい、それが「諸仏」である。そのとき自己は完全に消え失せて

「現成公案」メモ⑥

第一節では、「諸法の仏法なる時節」(如是・絶対肯定面)と「万法ともにわれにあらざる時節」(不是・絶対否定面)が表裏一体(一如)であり、その両面をも超出していく仏道修行において、本当の「生滅」(生/死)、本当の「迷悟」(迷い/さとり)、本当の「生仏」(衆生/諸仏)が現成しているということだった。 続く第二節以降は、その基本構造を背景にしながら、すべてが一如であるということはどういうことか、さまざまな角度から具体的に論じられていく。 自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法

「現成公案」メモ⑤

しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。 仏道においては、絶対肯定の面(如是)と絶対否定の面(不是)とが一如であり、その両面(豊倹)をも超出していくという修行のかぎりにおいて、本当の「生滅」が現成し、本当の「迷悟」が現成し、本当の「生仏」が現成するということであった。 「しかもかくのごとくなりといへども」の「かくのごとく」とは「是の如く」と書くので「如是」ということである。 仏道とは絶対肯定と絶対否定が一如であり、その両面をも超出して

「現成公案」メモ④

仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。 「諸法の仏法なる時節」(如是・諸法実相)の絶対肯定の面と「万法ともにわれにあらざる時節」(不是・諸法空相)の絶対否定の面が一如である。 豊倹の「豊」とは絶対肯定の面であり、「倹」とは絶対否定の面のことである。両面が一如だということはどちらにも偏ったり滞ったりしてはならないということ。だから仏道というのはその両面をも超出(=跳出)しているのだという。 修行の躍動性 ここで「跳出」という言葉が使われている

「現成公案」メモ③

万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。 一文目は「諸法~」であり、ここでは「万法~」となっている。「諸法」は仏法から見た自己という肯定面を示していたが、ここでは自己の面は消えている(裏に回っている)。よって、すべてがひっくり返っている。 「われにあらざる時節」とは、無我(無自性)という意味もあるが、ここでの「われ」は「我」(実体)という意味だけでなく、主体(自己)の意味も込められている。つまり主体(自己)の面が消えると純粋な客

「現成公案」メモ②

以下、本文。 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。 「諸法」とはそのまま訳せば、もろもろの法(ダルマ)ということ。法(ダルマ)はいろいろな意味合いがあるが、ここでは存在を存在たらしめている「かた」のこと(「理法、軌範」※)。では、どういう存在の「かた」なのかといえば、当然、自己を自己たらしめている「かた」である。 「諸法」を”すべての存在”と捉えることもできるけれど、次の文(万法ともにわれにあらざる時節~)における「万法」

「現成公案」メモ①

『正法眼蔵』の「現成公案」巻について、あくまで個人的なメモです。 「現成公案」巻は『正法眼蔵』の巻頭に位置するもので、ある意味、『正法眼蔵』のエッセンスを凝縮したような面がある。同時に、俗弟子に向けて書かれたものであるためか、難しい仏教用語や語録からの引用が少なく、かな表記も多い。だから一見、読みやすいように思えるけれど、そのぶん意味を取り違えてしまう危険性も多いように思う。 巻名について 「現成公案」という巻名について。 「現成」という言葉は「現前成就」の略語で、ある

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占いとアラヤ識【人生好転シリーズ02】

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