見出し画像

「現成公案」メモ⑧

仏法における修証とは、「自己」⇆「万法」「迷」⇆「悟」「諸仏」⇆「衆生」という無限の往還である。
それぞれは同じ〈いのち〉の表と裏であり、その相互運動が仏道である。

このような無窮の参究である仏道を、道元禅師は以下のように簡潔にまとめている。

 仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり。万法に証せらるゝといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長々出ならしむ。

『正法眼蔵』(一)岩波文庫

仏道をならふといふは、自己をならふ也。

「ならう」(習う、倣う)は学ぶという意味に加えて、手本をまねるという意味がある。手本とはもちろん仏である。仏は本来の自己のことであるから、本来の自己である仏を手本にして行いを倣い、学ぶのが仏道であり、すなわち自己をならうことである。
つまり、仏(本来の自己)の行いを修めていくこと、それが修行という意味である。

自己をならふといふは、自己をわするゝなり。

修と証は一如である。したがって、自己をならうことは、同時に、自己をわすれることである。古い自己を捨てていくところに本来の自己も現れてくるからである。が、前提として主体的に自己をならう態度がなければならないのは当然である。

自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり。

自己と万法は一如であるから、自己(主体)をわすれることは、万法によって証されることである。
仏とは、万法と完全に一如である自己のことである。であるから、万法は仏のいのちである。したがって、仏にならい、自己を修することは、仏のいのちである万法によって本来の自己のすがた(仏のすがた)を証されていくことになる。万法は文字どおり自己を映し出す鏡である。

「わすれる」と「親密」

臨済禅では「大死一番」といって、古い自己が死に切ることを悟りという。
道元禅師はそういった強い言葉は使わず、「自己をわすれる」と言う。

『学道用心集』では以下のように言っている。

唯、しばらく吾我を忘れてひそかに修す、乃ち菩提心の親しきなり

ひそか」とは「密か」、つまり親密ということである。
吾我(自我意識)をわすれて、本来の自己(仏)と親密な関係になるのが修行である。すなわち、菩提心(仏の悟りの心)と親しいものとなることである。菩提心が本当の自己の心だったということ。それは自己の鏡である万法によって証されていくのである。

万法に証せらるゝといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

自己に対して「他己」という言葉が使われている。これは自と他は本来、一如なる関係(表裏一体)にあるということを意味している。自己も他己も、どちらも「己」である(われがなんじで、なんじがわれである)。

しかし、自我意識によって、自己と世界が分離して存在しているような錯覚が生まれたように、自己および他己の身心も、お互いに実体(我)のあるものとして、分離(=対立)して存在しているような錯覚が生まれる。

その錯覚を落とすことが、自己をわすれ、万法に証されることであり、自と他の分離を脱落させることである。「脱落」は透脱(透体脱落)ともいい、すべてのものには実体(我)はなく、すべては空であるということである。

『般若心経』ではこのことを「照見五蘊皆空」と言っている。身心(五蘊)は、自我意識から見ると、他と分離され、実体のあるものに見えていたが、じつは実体(我)のない空なる存在だったということ。空とは一如であるということである(いわゆる「身心脱落」である)。
そして、それをあるがままに「照見」しているのは菩提心(=観音さま)である。

悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長々出ならしむ。

悟りのあと(悟迹)は修行においては一休み(休歇)のようなものであるが、そこに居座らずに、それをまたさらに修行に振り向けて(=大迷)、どこまでも参究していくのである。「長々出」は、第一節では「跳出」という字が使われていたが、ここでは「どこまでも」という意味合いを込めて、このような造語が使われているのだろうと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?