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思想・哲学・宗教・人物(My favorite notes)

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思想・哲学・宗教など心や意識をテーマにしたお気に入り記事をまとめています。スキさせて頂いただけでは物足りない、感銘を受けた記事、とても為になった記事、何度も読み返したいような記事…
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2024年6月の記事一覧

「全機」について③

前回、「生」とは〈いのち〉の全現成であり、今、この「生」を私が生きるなかで出会うすべての存在は、この「生」と〈ひとつ〉となって存在しているということを書きました。 前回に引き続き、本文を見ていきたいと思います。 (「生」というのは、たとえば人が「ふね」に乗っているときのようである。この「ふね」は、私が帆を使い、私が舵を取っている。私が棹をさし「ふね」を進めているとはいえども、「ふね」が私を乗せて、「ふね」のほかに私はいない。私が「ふね」に乗って、この「ふね」をも「ふね」な

「全機」について②

前回、「全機」とは万物(自己)を生かしている〈いのち〉の働きであり、その仕組み(=機関)が生を本当の「生」ならしめ死を本当の「死」ならしめている、そして、その〈いのち〉の働きの仕組みが「透脱」と「現成」であると書きました。 前回に続いて本文を見ていきたいと思います。 (「生」はどこから来るのでもなく、「生」はどこかへ去るのでもない。「生」はどこから現れるのでもなく、「生」は何かから成るのでもない。そうではあるが、「生」は〈いのち〉の全きあらわれであり、「死」は〈いのち〉の

「全機」について①

道元禅師の『正法眼蔵』に「全機」という巻があります。 以前、「現成公案」巻に出てくる「前後際断」という言葉について書きました。(↓もしご興味ありましたら参照いただけましたら幸いです) 以前の記事の中で、「前後際断」は仏法における生と死について述べる過程で使われた言葉だということを書きました。 その仏法における生と死について「全機」という巻ではさらに詳しく論じられています。 そこで、同巻は比較的、短いものなので、できるだけ逐一訳しつつ、何回かに分けて考察していきたいと思いま

「ヒト型・先行原意識仮説」 悟りの正体

更新 2024.7.14  本論は、禅の悟りを「先行原意識」の活動だとする仮説である。この背景には、受動意識仮説がある。現代の脳科学は、私たちの意識は、行動開始を指示する脳内の信号よりも0.5秒ほど遅れて現れることを明らかにした。人間は、意識に従って行動するのではなく、行動が先に動き出して、意識は行為の後を追って現れるのだと。この現象を顕在意識を中心に見たのが「受動意識仮説」である。  今、これを反対に、行為を引き起こす神経活動の方から見て、行為発動の神経の側に「先行原意

意識は幻想か実体か

ウエブ上に意識は幻想か、実体なのかを話題にした記事があったので今更ながら取り上げてみた。 このことに関し過去色々なことを考えて書いてきた。 この世界でたった一人の私が過去ではなく、また遠い未来の世界でもなく、現在のまさにこの時代のこの場所に生まれて存在している理由を問えば、真に不思議だ。 さらに、その私という意識(=精神)は、私の肉体が死ぬと同時に永遠に消えてしまうのか、それとも絶対的な無の空間に私の精神だけが永遠に漂い続けるのか、答えのない問題を自問してきた。 この議論は

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第1270回「戒の変遷」

「比丘」という言葉があります。 『広辞苑』には、もともとは食を乞う者の意で、「出家して具足戒を受けた男子。修行僧を言う」と解説されています。 岩波書店の『仏教辞典』には、 「仏教興起時代には諸宗教一般に、托鉢する男性の修行者をこのように呼んだ。 仏教では、出家得度して具足戒を受けた男子の修行者を<比丘>と呼ぶようになり、<パーリ律>では227の戒条、『四分律』では250戒(二百五十戒)を受けるとされる。」と明記されています。 出家するということは、具足戒を受けるということでもありました。 「ありました」という過去形で述べていますように、いろいろの変遷があって、今は行われていないのであります。 「具足戒」を調べると、その内容は 「犯せば僧伽より追放される重罪である<波羅夷(はらい)法>(婬・盗・殺・妄)、」 それから次に僧残法があります。 これは「六昼夜他の全ての比丘を礼拝するなどの贖罪の摩那埵を行い、20人以上の比丘からなる僧伽の前で出罪羯磨(しゅつざいこんま)を行う(罪を隠していた場合には同じ期間の別住がさらに課せられる)などの一定の手続きの後に許される」ものです。 それから「僧伽または衆多人(2、3人)または1人の比丘の前に不法に所持したものを捨てることで許される」という「波逸提(はいつだい)法」があります。 そして「他の比丘に向かって懺悔(さんげ)すれば許される」という「波羅提提舎尼(はらだいだいしゃに)法」があり、 最も軽いもので「自ら反省懺悔することで許される」という「突吉羅」があるのです。 罪の重さでこのように分類されています。 「波羅夷」は重罪で、教団から追放されるのです。 仏教では、体罰などはありませんので、もっとも重いものが教団追放です。 それはまず「淫事を行うこと」でした。 出家者には結婚や性行為は認められませんでした。 それから盗むというのは「与えられていない物をとること」です。 殺は「人を殺すこと」で故意に人を殺すことを言います。 妄語戒というのは「宗教的な嘘をつくこと」であり、「自身が正しい覚りを得ていないことを認識しているのに究極の覚りを得た」と嘘を言うことです。 僧残法は、一応教団には残れますが厳しい罰が課せられます。 そこには女性に触れることなども含まれています。 もともと性に対しては厳しい戒が課せられていたことが分かります。 僧残法ではありませんが、お金を蓄えてはいけないというのもあります。 美食を求めてはいけないというのもあります。 軍隊が合戦するのを見てはいけないというのもあります。 それほどまでに暴力行為を否定するのが仏教教団でありました。 立って小便してはいけないという決まりもあります。 これら二百五十もの戒を受けることが、出家して比丘になることなのでした。 これは、『四分律』という中国で翻訳された律典によっています。 これは小乗部派の一つ、法蔵部の伝持したものです。 中国では道宣律師がこれを重んじました。 道宣律師は終南山(陝西省西安南方)に住し、律学に励んだ方です。 そしてかの鑑真和上は、その孫弟子にあたります。 鑑真和上が、この『四分律』に基づいて、日本において具足戒を授けたのでした。 そのご功績は実に大きなものです。 しかし、『四分律』は部派仏教のものでした。 大乗仏教が興ると、大乗の利他の精神に基づいて大乗戒が説かれるようになってきたのでした。 最初は十善戒が主張されました。 のちに『瑜伽師地論』において、<三聚浄戒>が説かれるようになりました。 三聚浄戒は、止悪とともに作善と衆生利益とを誓う戒です。 悪いことをしないように、良い行いをして、人々のために尽くそうと誓う戒なのです。 中国・日本では梵網経に説く梵網の<十重四十八軽戒>が重視されるようになりました。 はじめの頃には、律蔵の律と梵網経の戒とが併修されていましたが、伝教大師最澄は律を捨てて<梵網戒>のみを大乗仏教の修行規範とすべきことを主張するようになりました。 それまでの東大寺など三戒壇に於いての受戒だけでは、伝教大師にとって弟子の育成は困難だったのでした。 その受戒制度では一年にわずかしか朝廷より認可されなかったようです。 そのように国が管理していたものでした。 そこで伝教大師は、大乗戒の独立をお考えになったのでした。 今まで東大寺などで授ける具足戒を大乗戒に変更することを主張したものでした。 これが認められて、比叡山に新たに大乗戒の受戒が行われるようになったのです。 ただいま私ども円覚寺でも布薩のおりには大乗戒である三聚浄戒と、十善戒、十重禁戒を唱えているのは、こんな経緯がもとになっているものです。 三聚浄戒と十善戒、十重禁戒をこちらに紹介しておきましょう。 円覚寺の布薩で唱えているものです。 三聚淨戒 第一摂律儀戒 み教えにしたがい 過ちのない行いに 生き 第二摂善法戒 み教えにしたがい 善き行いにつとめ 第三摂衆生戒 みほとけの作すが如く、いのちと人の世に誠を尽さん 十善戒 第一不殺生 すべてのものを慈しみ、はぐくみ育て 第二不偸盗 人のものを奪わず、壊さず 第三不邪婬 すべての尊さを侵さず、男女の道を乱すことなく 第四不妄語 偽りを語らず、才知や徳を騙(たばか)ることなく 第五不綺語 誠無く言葉を飾り立てて、人に諂(へつら)い迷わさず 第六不悪口 人を見下し、驕(おご)りて悪口や陰口を言うことなく 第七不両舌 筋の通らぬことを言って親しき仲を乱さず 第八不慳貪 仏のみこころを忘れ、貪りの心にふけらず 第九不瞋恚 不都合なるをよく耐え忍び怒りを露わにせず 第十不邪見 すべては変化する理を知り心を正しく調えん 十重禁戒(じゅうじゅうきんかい) 第一不殺生 命あるものをむやみに殺さない 第二不偸盗 人のものを盗み取ることをしない 第三不淫欲 道に逆らった愛欲を犯さない 第四不妄語 嘘偽りを口にしない 第五不沽酒 酒に溺れて生業(なりわい)を怠ることをしない 第六不説四衆過罪 他人の過ちを責めない 第七不自讃毀他 自分を誇り他人を傷つけることをしない 第八不慳貪 物でも心でも人に施すことを惜しまない 第九不瞋恚 怒りに燃えて自分を失わない 第十不謗三寶 仏法僧の三寶をそしらない このような戒を今唱えているのは、長い仏教の歴史の変遷を経てのことなのです。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1269回「仏教伝来」

仏教伝来はいつなのか、西暦五三八年のことだと言われています。 岩波書店の『仏教辞典』にも 「私的には、すでに帰化人が仏法を信奉していたと思われるが、公的には、538年、百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)(聖王)が使者を通して仏像や経典を送ってきたことが、日本への仏教伝来(公伝)とされる。」 と書かれています。 「聖明王」については、 「?ー554 正しくは<聖王>。百済(くだら)と日本との関係は、他の朝鮮諸国と違い、一貫して良好であった。 6世紀の初め頃、百済に武寧王(ぶねいおう)が立ち、高句麗(こうくり)に攻められ漢城を捨てて公州に移ったが、やがて百済を立て直し、倭と修好した。 武寧王の子聖明王は父王が523年に没した後、百済王となり父王の志をつぎ日本と修好し、仏像・経論を大和(やまと)の朝廷に献じた。 これが我が国への<仏教公伝>で、その年は五三八年であるが、五五二年(欽明13)とする説もある。」 とも書かれています。 西暦五三八年というと、中国においては梁の武帝が盂蘭盆会を行った年でもあります。 武帝は、南朝梁(りょう)の初代皇帝であります。 在位は五〇二年から五四九年まで、蕭衍という名です。 南朝文化黄金時代を現出させ、南朝の仏教も頂点に達した時の方です。 武帝は、仏教を篤く信奉し、帝位についた502年、自宅を光宅寺と改めたほどです。 その寺には法雲(四六七~五二九)という高僧を住まわせています。 武帝は、達磨大師とも問答した事で知られています。 504年には詔を下し、道教を捨てて仏教に帰依しました。 「511年、自ら断酒肉文を撰し、仏教徒としての戒律生活に入り、513年、宗廟の犠牲を廃し、517年、天下の道観(どうかん)(道教寺院)を廃して道士を還俗(げんぞく)させた。519年、禁中に戒壇を築き菩薩戒(ぼさつかい)を受けた」と『仏教辞典』には書かれいてます。 達磨大師と問答されたことは禅門でも知られています。 百済の聖明王は、梁の武帝からも支援を受けていました。 また五三八年というと、天台大師智顗の生まれた年でもあります。 もちろん、まだ玄奘三蔵は生まれてはいません。 鳩摩羅什はいましたので、鳩摩羅什訳の『法華経』などを読むことはできた時代です。 そんな頃『仏教辞典』によれば、 「氏族分立の時代で、伝来にさいして崇仏・排仏の論争がおきたというが、実際は国際派の蘇我(そが)氏と国内派の物部(もののべ)氏の権力争いに仏教が巻きこまれたものであり、信仰的には、蘇我氏が自己の氏神として仏を取りいれ、物部氏は国神(くにつかみ)を立てたということである。 仏が<蕃神(となりぐにのかみ)>とか<客神(まろうどがみ)>などと表現されたように、当時は、まだ仏と神との違いは知られていない。」 と書かれています。 歴史で学ぶことですが、蘇我氏と物部氏の争いがあって蘇我氏が勝ったのでした。 飛鳥時代になると、天皇を中心とした国家体制が整って、「寺院の建立、経典の読誦・講説、諸種の法要、仏像の製作など」がなされて、それは「多くは鎮護国家・除災招福を目的としたものである」と書かれています。 また『仏教辞典』には、 「奈良時代になると、仏教の浸透が進み、南都六宗のように、学僧によるめざましい研究成果も現れ、日本文化の形成に仏教が大きな影響を与えた。 他方、仏教の日本化も見のがされてはならない。 現実超越を基調とする仏教は、しばしば日本的変容を受けて現実肯定的になっていった。神仏習合や文芸に摂取された仏教に、それが見られる。」 とも書かれています。 仏教が日本に伝わって定着するには、仏法僧の三宝がそろうことが必須でした。 仏様とその教えと、その教えを信奉する教団の三つであります。 仏様とその教えとは、仏像と経典をいただければそれで、十分であります。 問題は教団であるサンガです。 サンガを輸入するのは容易ではありません。 サンガとは僧侶たちが作る組織です。 最低でも四人がいないとサンガにはなりません。 しかも、出家して僧侶となるためには、 十人以上の僧侶の許可が必要とされているのです。 十人の僧侶を船で大陸から連れてこないといけないのでした。 今と違って船で大陸から渡ってくるのは容易ではありませんでした。 当時日本の僧が中国に行っても正式に受戒をしていないので、沙弥としてしか扱われなかったようです。 なんとか日本でも受戒できるようにと七三三年(天平五)に栄叡と普照らが中国から戒師を招請するために派遣されました。 栄叡・普照らは、七四二年(天平14)揚州大明寺の鑑真和上を訪れ、来日を要請しました。 鑑真和上は六八八年のお生れですので、この時で五四歳でした。 当時海を越えて日本に来るというのはたいへんなことでした。 五度の渡日を企てましたが、妨害や難破により五度とも失敗しました。 鑑真和上自身も失明しました。 そうした失敗を乗り越え、七五三年(天平勝宝5)十二月に渡日に成功しました。 鑑真和上も六五歳になっていました。 七五四年(天平勝宝6)には奈良に入り、四月には東大寺大仏殿の前に仮設の戒壇を築いて聖武上皇・光明太后らに菩薩戒を授けました。 さらに、80余人の僧に具足戒を授けました。 ここに、戒壇で三師七証方式により『四分律』の二五〇戒を授ける国家的授戒制が始まったのでした。 こうしてようやく日本も正式に仏教国となることができたのでした。 五三八年に仏像などが伝わってから七五四年まで、実に二一六年の歳月がかかったのでした。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1268回「四苦八苦」

四苦八苦という言葉があります。 日常でも使われる言葉で『広辞苑』にも 「①〔仏〕生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦を合わせたもの。人生の苦の総称。 ②転じて、非常な苦しみ。また、さんざん苦労すること。」と解説されていて、「弁解に四苦八苦する」という用例もあります。 岩波書店の『仏教辞典』でもう少し詳しく調べてみます。 「四苦八苦」とは、 「苦しみを四つあるいは八つに分類したものの併称で、原始経典以来説かれる。 <四苦>とは、生(生れること)・老・病・死で、これに怨憎会苦(憎い者と会う苦)、 愛別離苦(愛する者と別れる苦)、求不得苦(不老や不死を求めても得られない苦、 あるいは物質的な欲望が満たされない苦)、五取蘊苦(五盛陰(ごじょうおん)苦・五陰盛(ごおんじょう)苦とも。 現実を構成する五つの要素、すなわち迷いの世界として存在する一切は苦であるということ)を加えて<八苦>となる。 後世になると四苦八苦は、人間界のすべての苦ということから、この上ない苦しみ、言語に絶する苦を意味するようにもなった。」 と解説されています。 お釈迦様の教えでも大切にされている四聖諦では、一番目に苦聖諦があります。 この苦を理解するのは、仏教を学ぶにはとても重要なことであります。 修行僧達にも、自分の人生は苦であると思うかと尋ねると、苦と答える者もいれば、そうでもないと答える者もいます。 たしかにこの春に道場に入った者にしてみれば、不自由な暮らしですので、身体的に苦であると感じることが多いでしょう。 今までのイスの暮らしから、畳の上で暮らすことになるだけでも身体的な苦があります。 更に自分の好きなようにできないというストレスがあります。 精神的な苦もあることでしょう。 しかし、仏教で説く苦というのはそういうものではないのです。 その点について、ワールポラ・ラーフラ氏の著書である『ブッダが説いたこと』(今枝由郎訳)を参照してみましょう。 「第一聖諦 ドゥッカの本質」として次のように書かれています。 「パーリ語(およびサンスクリット語)のドゥッカは、一般的には苦しみ、痛み、悲しみ、あるいは惨めさを意味し、幸福、快適、あるいは安楽を意味するスカの反対語である。 しかし、四つの真理のうちの第一の真理の場合のドゥッカは、ブッダの人生観、世界観を表わしており、より深い哲学的な意味合いがあり、はるかに広い意味で用いられている。 確かに第一の真理のドゥッカには、普通の意味での苦しみも含まれているが、それに加えて不完全さ、無常、空しさ、実質のなさといったさらに深い意味がある。 それゆえに、第一の真理に用いられているドゥッカが含むすべての概念を一語で表わすのは難しい。 そうである以上、ドゥッカを苦しみ、痛みといった、便利ではあるが、不十分で誤解を招く訳語に置き換えないほうがいいだろう。」 と説かれています。 ここで「苦」には「不完全さ、無常、空しさ、実質のなさ」という意味があるとされています。 更に「<ブッダが、「人生には苦しみがある」と言うとき、彼はけっして人生における幸せを否定しているわけではない。 逆にブッダは、俗人にとっても僧侶にとってもさまざまな精神的、物質的幸せがあることを認めている。 ブッダの教説をまとめたパーリ語の五部経典の一つである増支部経典の中には、家族生活の幸せや隠遁生活の幸せ、 感覚的喜びによる幸せやその放棄による幸せ、執着による幸せや無執着による幸せといった、 さまざまな肉体的、精神的幸せが列挙されている。 しかしそれらはすべてドゥッカに含まれる。 さらには、高度な瞑想によって得られる、普通の意味での苦しみの片鱗すらない、非常に純粋な精神的次元も、またまぎれもない幸せとされる次元も、心地よさあるいは不快さといった感覚を超越し、純粋に沈静した意識の次元も、すべてはドゥッカに含まれる。 同じく五部経典の一つである中部経典の一つのスッタ〔経]では、瞑想の精神的幸せを賞賛したあと、ブッダは、「それらは無常で、ドゥッカで、移ろうものである」と述べている。 ここで注意しなければならないのは、ことさらドゥッカという用語が使われていることである。 普通の意味での苦しみがあるからドゥッカなのではなく、「無常なるものはすべてドゥッカである」からドゥッカなのである。」 ということなのです。 岩波書店の『仏教辞典』にも 「肉体的精神的苦痛が苦であることはいうまでもないが、楽もその壊れるときには苦となり、不苦不楽もすべては無常であって生滅変化を免れえないから苦であるとされ、これを苦苦・壊苦(えく)・行苦(ぎょうく)の<三苦>という。」 と解説されています。 苦苦、壊苦、行苦については『ブッダが説いたこと』を参照してみます。 「ドゥッカの概念は、 ①普通の意味での苦しみ ②ものごとの移ろいによる苦しみ ③条件付けられた生起としての苦しみ の三面から考察することができる。 老い、病い、死、嫌な人やものごととの出会い、愛しい人や楽しいこととの別れ、欲しい物が入手できないこと、悲痛、悲嘆、心痛といった、人生におけるあらゆる種類の苦しみは、普通の意味での苦しみである。 人生における幸福感、幸せな境遇は、永遠ではなく、永続しない。 それらは、遅かれ早かれ移ろう。そしてものごとが移ろうときに、痛み、苦しみ、不幸が生じる。 この浮き沈みは、移ろいによって生じる苦しみとしてドゥッカに含まれる。 以上の二種類の苦しみは容易に理解でき、誰にも異論がないだろう。 第一の真理である「ドゥッカの本質」のこの点は容易に理解できるので、一般によく知られている。 それは、誰しもが日常生活で体験することである。」 「しかし、第三の「条件付けられた生起」としての苦しみという面こそが、「ドゥッカの本質」のもっとも重要な哲学的側面であり、それを理解するのには、一般に存在、個人あるいは「私」とされているものを分析してみる必要がある。 仏教的観点からすれば、私たちが一般に存在、個人あるいは「私」と見なしているものは、たえず移ろい変化する肉体的、精神的エネルギーの結合にしか過ぎず、それらは五集合要素から構成されている。 そしてブッダは、 「これら執着の五集合要素はドゥッカである」 と述べている。 また他の箇所では、「ドゥッカとは五集合要素である」とはっきりと定義している。」 と説かれています。 お互いこれが自分だと思い込んでいますが、その自分という実体のあるものはなく、五つの構成要素が集まって、あるように見えているに過ぎないのです。 ありもしない自分を確かにあるものだと思い込んで、自分中心にものごとを見ているのが苦しみの原因なのです。 五つの構成要素が五蘊であります。 五蘊は色受想行識の五つです。 『仏教辞典』には、 <色>は感覚器官を備えた身体、 <受>は苦・楽・不苦不楽の3種の感覚あるいは感受、 <想>は認識対象からその姿かたちの像や観念を受動的に受ける表象作用、 <行>は能動的に意志するはたらきあるいは衝動的欲求、 <識>は認識あるいは判断のこと。 人間を<身心>すなわち肉体(色)とそれを依り所とする精神のはたらき(受・想・行・識)とから成るものとみて、 この五により個人の存在全体を表し尽していると考える。」と解説されています。 この五蘊によって自己中心の世界観を作り出しています。 これがお互い迷い苦しむ原因なのです。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1266回「唯識を学ぶ」

学生時代には、ほんの少しですが、仏教学を学んでいました。 一応サンスクリット語、パーリ語を習い、更にチベット語も勉強していました。 金剛般若経を研究していて、弥勒作と伝えられる金剛経の頌をサンスクリットとチベット語を参照して論文を書いたことを覚えています。 それだけにインド仏教学というのがいかにたいへんな学問であるかを、身をもって体験していました。 私のような者にはとても無理だと分かって、あきらめたのでした。 そんな仏教学を学んでいて、般若経から中観思想を学んでいると、どうしても中観派と対象的な唯識に関心を持つものです。 そんな興味を持ち始めた私に、とある先輩の方が、唯識に手を出すと卒業できなくなると言われたことを覚えています。 それほどまでに唯識という学問は深淵で難解なのであります。 まだ命のあるうちに、もう一度この唯識を勉強しておきたいという気持ちだけを持ってきました。 書物の上では、いろんな唯識について解説書を読んで来ていました。 この度龍雲寺の細川さんと円融寺の阿純章さんとが主催で、僧侶を対象に唯識の勉強会が始まるとご案内いただいたのでした。 是非ともこの機会に学ぼうと思ったのですが、一回目と二回目には、すでに予定が入っていてお伺いできず、講義の録画を拝見して学ばせてもらったのでした。 第三回目には、ちょうど上京して講演する予定があり、その講演の前に講義に出てからでも間に合うと分かったので、講義を拝聴してきました。 講師は駒澤大学の教授である吉村誠先生であります。 一回目と二回目を動画で拝見していましたが、その資料の作り方から、講義の内容、よくぞあれほどの深い内容を話されたと感服していました。 是非とも一度お目にかかってみたいと思っていましたので、今回その願いが叶ったのでした。 控え室で親しくお話させてもらいました。 仏教学の落伍者である私にとって、仏教学の教授である先生は仰ぎ見る存在なのであります。 どれほどたいへんな道のりであるのか多少分かりますので、尊敬の気持ちは人一倍強いのであります。 有り難いことに気さくにお話させてもらいました。 とりわけ熊野にとても関心をお持ちだと分かって、うれしくなりました。 しばらく熊野談義に花が咲いたのでした。 熊野三山についてとても造詣が深く、何度も訪ねてくださっているというのです。 そうしているうちに講義が始まりました。 今回は、有り難いことに瑜伽行派の修行について講義して下さいました。 瑜伽行派というのが、弥勒が創始し、無着と世親の兄弟が組織体系化したと伝えられ、瑜伽行派の論師たちは、時代とともに唯識論者と呼ばれるのです。 「唯識」は「仏教学説の一つ。一切の認識はただ自己の識(心)によって生み出されたもので、認識の対象となる事物的存在はないと説く。」と『広辞苑』に解説されています。 岩波書店の『仏教辞典』には 「あらゆる存在はただ<識>、すなわち<心>にすぎないとする見解。 般若経の空の思想を受けつぎながら、しかも少なくともまず識は存在するという立場に立って、自己の心のあり方をヨーガの実践を通して変革することによって悟りに到達しようとする教えである。」 と説かれています。 瑜伽行派の瑜伽というのは「ヨーガ」のことです。 「ヨーガ」とは、吉村先生は、「心を落ち着けて真理を観察すること」と分かりやすく説明して下さっていました。 この真理を観察することが修行となります。 もともとブッダも真理を観察するようにと教えてくださっていたのでした。 『ブッダ最後の旅』に、 「修行僧たちよ。 ここで、修行僧は、身体について身体を観察し、熱心に、よく気をつけてこの世における貪欲や憂いを除去していなさい。 感受に関して感受を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。 心について心を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。 諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。 このようにしてこそ修行僧は正しく念じているのである。」 という言葉があります。 四念処と呼ばれる教えですが、すでに『ブッダ最後の旅』において説かれていることを今回教わりました。 更に部派仏教では、五停心観(ごじょうしんかん)が説かれています。 不浄観、肉体や外界の不浄なありさまを観じ、貪りの心を止めること、慈悲観で一切衆生を観じて慈悲の心を生じ、怒りの心を止めること、因縁観で、諸事象が因縁によって生ずるという道理を観じ、無知の心を止めること、界分別観で五蘊・十八界などを観じ、物に実体があるという見解を止めること、そして数息(すそく)観で呼吸を数えて、乱れた心を止めることであります。 数息観について吉村先生は。言葉によって思考することをやめさせる修行だと教えて下さいました。 言葉を使うことによって自我意識が強くなり、煩悩も強くなります。 禅の公案も言葉によって考えることをやめさせるものでもあります。 それから大乗の瞑想は空観なのだと教わりました。 空、無相、無願という三つを観じるのです。 そうしていよいよ瑜伽行派の修行の内容を教わっていったのでした。 解深密経、瑜伽師地論、唯識三十頌などという難解な経典をもとにして解説してくださいました。 瑜伽師地論では、仏教におけるヨーガを体系化して、大乗のヨーガが説かれています。 大乗のシャマタ、ビパシャナについて解説してくださいました。 法仮安立という言葉にされた仏の教えを拠り所として止観を修めるのです。 止の所縁は無分別影像、観の所縁は有分別影像などと難解な言葉が続きます。 それでも先生の明快な解説を聞きながら、メモをとっていると、なんとなく理解できたような思いになるのでした。 私にも唯識の世界の一端が垣間見られたような感慨に耽っていました。 とりわけ今まで学んだことのなかった、瑜伽行派の修行の内容を学べたので、禅の修行との関連も少し分かったように感じました。 分からなかったことがわかり、知らなかったことを知るというのは、大きな喜びであります。 そんな感動のうちに講義が終わったのでした。 ところが寺に帰って復習しようとして、メモしたノートを見返したのですが、やはりよく理解できていないのでした。 講義があまりに素晴らしく、理解できたような気になっていただけと分かったのでした。 専門家が何年もかけて学ぶのが唯識なのですから、私のような門外漢が少し聞いて分かるはずもありません。 それでも、今回のことをご縁に、これからも根気よく学んでいこうと思ったのでした。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1261回「初めて日本に伝わった禅」

『禅学大辞典』で「禅宗」という項目を調べてみると、日本の禅の伝来について次のように書かれています。 「日本における禅の流伝は、伝説によれば、孝徳天皇白雉四年(六五三)に入唐した元興寺道昭が慧可の法孫慧満から禅法を伝え、元興寺東南隅に禅院を建てたのを初伝とし、次いで天平八年(七三六)普寂の門人道璿が来朝して北宗禅を伝え、延暦二一年(八〇二)最澄が入唐して傭然から牛頭禅を受け、嵯峨天皇の橘(檀林)皇后の招請で、馬祖下、斉安の法嗣、義空が来朝して南宗禅を伝えた。 また承安元年(一一七一)叡山の覚阿が入宋して、瞎堂慧遠から心印を受けたと伝えられる。 以上の五伝はその法系が栄えなかった。 次いで三宝寺の大日能忍は、自ら修した禅法の得悟を、入宋させた練中・勝辨の二弟子に託して、育王山の拙庵徳光に呈示させ、その印可証明を受けた。 彼等の帰朝後、能忍は日本達磨宗の旗織(きし)を掲げ、盛んに禅を鼓吹した。 道元禅師の弟子となった懐弊・義介・義演等は、初め達磨宗の禅風を受けていた。 本格的な禅が日本に伝えられたのは、文治三年(一一八七)に入宋して虚庵懐敞から黄竜一派を伝えた明庵栄西に始まる。」 と書かれていますように、初めて禅を伝えたとされる方が道昭であります。 道昭について『仏教辞典』には 629(舒明1)ー700(文武4) 「法相宗の僧。 河内国(大阪府)丹比郡船連(ふねのむらじ)の出身。 653年(白雉4)入唐、玄奘三蔵に師事して法相教学を学び(一説には摂論教学)、660年(斉明6)頃帰朝、法興寺(飛鳥寺(あすかでら)・元興寺(がんごうじ))の一隅に禅院を建てて住し、日本法相教学初伝(南寺伝)となった。」 と書かれていて、禅を伝えたことに言及されていません。 またこの道昭は日本で初めて火葬にされた僧でもあります。 道璿については『仏教辞典』には、 「702(中国長安2)ー760(天平宝字4) 一説に757年没。 中国、許州(河南省)衛氏の出身。 定賓(じょうひん)から戒律、普寂から北宗禅を受学。 戒師招請のため入唐していた普照、栄叡の要請に応じて736年(天平8)来朝。 伝戒師として大安寺西唐院に住し、東大寺大仏開眼会には呪願師(じゅがんし)を勤めた。 晩年病を得て吉野の比蘇寺(ひそでら)に退き没。 没時には律師。道は華厳・天台にも通じ、これらの教学は弟子行表(ぎょうひょう)(724ー797)を通じて最澄に影響を与えた。」 と記されています。 普寂という方は五祖弘忍の法を嗣いだ神秀のお弟子であります。 最澄については、『興禅護国論』の中に次の記述があります。 『日本禅語録1 栄西』から古田紹欽先生の現代語訳を参照します。 「伝教大師の譜の文に次のようにいっている。「謹んで自分が受けた得度の公の許状を見るに、そこに師主は奈良の左京の大安寺伝燈法師位行表である、引文。 その行表の祖の道璿和上が、大唐国より持って来て写し伝えた達磨大師の教えを説いたものが、比叡山の宝蔵にある。 延暦の歳の末に自分は大唐国に到り、師について教えを受け、さらに達磨大師の禅の教えを師から付授された。 それは大唐国の貞元二十年十月十三日のことであり、天台山禅林寺(今の大慈寺)の翛然からである。 翛然はインドから大唐国にいたる代々の祖師に伝わった法脈を受け継ぎ、また達磨大師の禅の教え、すなわち牛頭禅の法門を授かって伝えていたのであるが、その翛然から禅法をちょうだいして帰国したのであり、それは比叡山に安置し行なっているところである」と。」 と書かれています。 翛然という方については、諸説ありますが、牛頭禅の系統だと書かれています。 牛頭禅とは、牛頭法融(ごずほうゆう)(594ー657)を祖とする中国禅宗であります。 牛頭の名称は、法融所住の弘覚寺が江蘇省牛頭山に存したことに由来します。 それから、檀林皇后によってまねかれた義空という僧もいました。 義空は、馬祖の弟子である塩官斉安禅師のお弟子であります。 馬祖系の禅を伝えています。 義空は檀林寺の開山となったと『禅学大辞典』には書かれていますが、数年で中国に帰ってしまいました。 檀林皇后は、義空に参じて、 「唐土の 山のあなたに 立つ雲は ここに焚く火の 煙なりけり」という和歌を残されています。 それから先日紹介した覚阿という僧がいて禅を伝え、更に大日房能忍がいたのでした。 結局『禅学大辞典』にある通り、 「本格的な禅が日本に伝えられたのは、文治三年(一一八七)に入宋して虚庵懐敞から黄竜一派を伝えた明庵栄西に始まる。」ということになるのです。 『興禅護国論』に「鏡に垢あれば色像現ぜず、垢除けばすなわち現ずるがごとく、衆生もまたしかり。心未だ垢を離れざれば法身現ぜす、垢離るればすなわち現ず。(『興禅護国論』第七)」という言葉があります。 『日本の禅語録1 栄西』には、 「もし鏡に汚れが付いていれば映像は現れませんが、その汚れを取り除けば現れます。私たち衆生も同様です。 衆生の心に垢という煩悩がまとわりついていては、仏の本身は現れませんが、その垢を取り除けば、 はっきりと現れます。」と訳されています。 この教えなどは、即心是仏を標榜しながらも北宗の禅であります。 やはり戒や禅定など実際の修行を重んじられたからこそ、日本において禅が受け容れられていったのではないかと思っています。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1258回「まるごとが仏」

先日は花園大学での講義の為に上洛してきました。 講義の前日に、妙心寺の新管長にご就任なされた霧隠軒山川宗玄老師にお目にかかりました。 花園大学の母体は妙心寺でありますので、大学の総長として新しい妙心寺の管長さまに表敬訪問し、ご挨拶申し上げたのでした。 そのあと禅文化研究所でYouTubeの撮影を行っていました。 更にその晩には花園禅塾に行って、禅塾の塾生達に坐禅をするための体操をあれこれと教えてきました。 長年どうしたら坐禅がよりよく坐れるか、慣れない人には、どうしたら苦痛無く坐れるか、あれこれと研究し工夫してきましたので、お若い方にもお伝えしようという思いであります。 一時間ほどの講習ですが、はじめにはやはり足を念入りに調えるように時間をとりました。 やはり、いろいろ学んできて分かったのは足が大事だということです。 足の指も大事ですし、足の裏も重要ですし、足首も柔らかくしておかないといけません。 テニスボールを学生さんたちの分を持っていって、はじめにはテニスボールを踏むということを行いました。 まず拇指球でテニスボールを踏むようにするのです。 右足から行いました。 右の膝を少し曲げて、足でテニスボールを踏むぞという意志を持って踏みつけるのです。 テニスボールは弾力性がありますので、かなり強く踏みしめても大丈夫です。 それから次に小指球でテニスボールを踏みしめます。 拇指球、小指球というのは、それぞれ親指、小指の付け根でありますが、付け根といっても土踏まずの上の方あたりであります。 それから拇指球と小指球の間を踏みしめます。 そうして土踏まず全体をテニスボールをころころ転がすようにして刺激を与えます。 そして踵と土踏まずの境目あたりを踏みしめるようにします。 このところはとても気持ちの良いものです。 そしてここに重心を置くようにして立つとまっすぐ立てるようになります。 そうしてしっかり足で踏むという感覚を身に付けてもらってから、坐って足首を回します。 足と手で握手するように足の指の間に手の指を入れて、大きく回してゆきます。 反対回しもします。 それから足の指を一本一本回してゆきます。 反対回しもします。 そうしますと足の指の感覚がしっかりしてきます。 両手の親指で足の裏を押して刺激します。 指の間、指の付け根、土踏まずから踵まで押して刺激します。 そして、最後には拳を作って足の裏をトントン叩いて刺激します。 そこで立ち上がってもらうと、右の足は、しっかり大地を踏みしめて立つという感じがするものです。 足の裏から根が生えたようにどっしりとして安定します。 まだ何もワークをしていない左足はただ床の上に乗っかっているだけの感じです。 左右の違いを感じてもらいます。 また足の色も変わるのです。 右の足の方が血行がよくなっているのが分かります。 そこで、今度は左の足も同じようにテニスボールを踏むところから始めます。 ひととおり行ってもう一度立ち上がってもらうと、今度は両足がしっかり地面を踏んでいる感じがするのです。 そこで更にまず右足で足の裏にテニスボールが無いけれどもあるように思って、踏み潰すつもりでしっかり床を押すようにしてもらいます。 更に左足も足の裏にテニスボールが無いけれどもあるように思って、踏み潰すように力を入れてゆきます。 そうしますと両足で床を押して立つことができるようになります。 その時足で床を押す力が、そのまま床から腰を立てる力となってはたらくのです。 腰を無理に入れようとするとどうしても腰が張ったりしてしまいます。 足で地面を押す力で、腰を立ち上げるようにすると、最も無理なく自然に立ち上がるのです。 頭までスッとまっすぐに立っている感じがつかめるのです。 これが腰を立てる要領となります。 それから股関節をほぐしてゆく運動をあれこれと行ってから皆で最後少し坐ってみました。 坐りやすくなったとか、落ち着いた感じがするという声をいただきました。 いつも坐禅の前に行っておいて欲しい運動もお伝えしておきました。 幸い今の禅塾の塾頭さんは親切にご指導してくださっているので、真向法を教えたり、いつも坐禅の前に体操の時間をとってくださっているようです。 やはりこうして体をほぐしてから坐ることが大事だと感じています。 股関節を柔らかくしてから足を組まないと、膝や足首を無理にひねって壊してしまうことがあるのです。 その次の日が大学の講義でありました。 禅とこころ、今回は禅僧の逸話に学ぶというシリーズです。 第二回目は唐代の禅僧の逸話を紹介しました。 単に逸話を紹介するのではなく、そこから禅の思想が学べるように工夫しています。 唐代の禅僧でも馬祖禅師、百丈禅師、黄檗禅師、臨済禅師の四名を中心に学びました。 そして番外に懶瓚和尚、布袋和尚、蜆子和尚を紹介しました。 馬祖禅師の教えの中核はなんといっても即心是仏です。 「馬祖は示衆して言った「諸君、それぞれ自らの心が仏であり、この心そのままが仏であることを信じなさい。達磨大師は南天竺国からこの中国にやって来て、上乗一心の法を伝えて諸君を悟らせた。」 ということに他なりません。 それから黄檗禅師の 「祖師ダルマは西方から来られて、一切の人間はそのままそっくり仏であると直示なされた。 そのことをいま君は知らずに、凡心に拘われ聖心にかかずらって、おのれの外を駆けずり廻り、あいも変らず心を見失っている。 だからこそ、そういう君に対して、〈心そのものが仏だ〉と説かれたわけだ。ちらりとでも妄心が起これば、たちまち地獄に落ちることになる。」 という『伝心法要』の言葉も紹介しました。 原文には「一切の人は全体是れ仏なり」とあります。 心だけとり出すわけにはゆきません。 この体も含めて全体まるごとが仏だと示されているのです。 そのことを実感するためにもこの体をしっかりと自覚して、この体まるごとが仏だと体感することが大事であります。 禅塾での体操も単に坐禅の為というよりも、足で地面を踏んで立っている、この体まるごと仏である自覚になって欲しいという願いを持っています。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1254回「坐禅と戒の本質」

戒定慧の三学が仏道修行の根本であります。 戒によってまず五戒などの戒や生活規律を身につけます。 それによって禅定・三昧の境地を深めます。 ついで、真理の観察を通して智慧を体得するというのが修行なのであります。 禅宗の修行は、この禅定を修めることが中心となりますが、その土台はやはり戒なのであります。 先日夏期講座では、午後からイス坐禅の時間を設けてもらいました。 このところ、イス坐禅を体験したいという方が増えているからであります。 有り難いことに都内のイス坐禅の会は、すぐに満席となってしまうようなのです。 都内のイス坐禅は、三十名と限定していますが、夏期講座のあとのイス坐禅は百名を越える大勢となりました。 これほど大勢の方にイス坐禅を伝えるのは初めてでありました。 イス坐禅については、昨年から研究し試行錯誤を繰り返して、次の四つに集約しています。 一、首と肩の調整 二、足の裏、足で踏む感覚 三、呼吸筋を調整 四、腰を立てる の四つなのであります。 一の首と肩の調整というのは、今の人は私も含めてデスクワークが多く、またスマートフォンなどを見る時間も多いので、どうしても首が前に出てしまい、肩も巻き肩になりやすい傾向があります。 そこで首や肩をほぐして、ただしい位置にすえるのです。 首の位置一つで、坐禅は全然変わってきます。 それから腰を立てるには、なんといっても足で地面を踏みしめて押す力が大事であります。 足から立ち上がるようにしないで、無理に腰を入れようとすると、腰に負担がかかってしまったりします。 足で地面を踏んでいる感覚をつかんでもらうようにしています。 呼吸筋については、単に呼吸を見つめましょうと言ってもなかなか実感しにくいものです。 そこで肺を上下、左右、前後に広げるように意識する運動を取り入れています。 そして最後に腰を立てるのです。 特に首肩をほぐすにはある程度の時間が必要であります。 タオルなども使いながら、肩周りをほぐしてゆきます。 足の裏は、テニスボールやゴルフボールを使って、足で押すようにして刺激を与えます。 足の裏の感覚を取り戻してもらうだけでも体は大きく変化します。 そんな講座を行っていました。 百名もいらっしゃると、後の方に伝わるのかとハラハラしながら行いました。 私からよく見えるところで、その日の講師であった小川隆先生が、受講してくださっていました。 まことに恐縮したものであります。 ひととおりのワークを行って腰を立てて坐りました。 ふと小川先生のお坐りになっている姿勢が目に入りました。 それが実に堂々たる坐り方でありました。 私は内心やはりさすがだなと思っていました。 いつも小川先生は、ご自分ことを「禅の修行もしたこともない」とご謙遜なされますが、高校時代には岡山の曹源寺の坐禅会に通われていたのです。 腰がスッと立っていて素晴らしい坐相だと拝見していました。 夏期講座のあとにも小川先生からは、「全身に血が流れはじめているような感じがし、手足が温かく、足の裏がしっかり大地を捉えているような感じ」がされたという感想をいただきました。 有り難くうれしく思ったのでした。 そしてイス坐禅は、大勢の方で行ってもできると分かりました。 更にそのあと、三日経った頃に、小川先生からは、「特に左右の足の裏の存在を思い出したというのが最もはっきりした実感で、歩いている時も足の裏が床を踏みしめているのを感じますし、特に机に向かっている時に、左右の足の裏と尾骨の三角形で上体を支えているような安定感を覚え、頭が軽くなったような感じがしております。」 というお言葉をいただきました。 左右の足の裏と尾骨で上体を支えるというのはイスに坐った時の良い姿勢であります。 大事な要点をつかんでくださってうれしくなりました。 そして更に小川先生からは、 「講習の後、ふと思い出したのですが、たしか『夢十夜』に、木を彫って仏像の形にするのでなく、木の中にもともと埋まっている仏の形を掘り出すのだという話があったかと思います。 私は坐禅というものを、歪んだ体を矯めて正しい型のなかに力ずくで押し込む行のようにイメージしていたのですが、先日の講習の際は、ご指示に従って体をほぐし呼吸を整えていくうちに、もともと体の中に埋もれていた坐禅の形が自然に表に出てきたような感じがいたしました。」 というお言葉をいただきました。 「体をほぐし呼吸を整えていくうちに、もともと体の中に埋もれていた坐禅の形が自然に表に出てきた」とは見事な表現であります。 これこそが、私が目指しているイス坐禅の本質なのだと思いました。 私などもそんな感じがするのですが、このように明確に言葉に表すことができないのです。 多くは無理矢理型にはめ込んで辛抱している坐禅になっているのではないかと反省します。 唐代の禅僧たちは、一問一答によって、坐禅の本質に目覚めたのだと思います。 更に驚いたのは、小川先生は、 「石頭禅師の説く「自性清浄、之を戒体と謂う」という言葉や、薬山禅師の「大丈夫、当に法を離れて自ら淨かるべし」という語が腑に落ちた気がした」というのです。 坐禅の本質から更に戒の本質まで感じ取ってくださったのでした。 「有相の戒を否定するけれども、決して捨戒や破戒には進まず、外からの規制によらない自身を根拠とした清浄を説く、という論理」が、先日のイス坐禅の体験と、6月4日に公開した管長日記の内容が結びついて、石頭禅師や薬山禅師の言葉の裏にある実感に少し触れられたというのであります。 薬山禅師については、小川先生の『禅僧たちの生涯』には次の言葉が引かれています。 現代語訳を引用します。 「大の男たるもの、法に頼らず、己れ自身で清浄でおられねばならぬ。どうして、衣の上でコセコセと、細かな作法に憂き身をやつしておれようか!」 かくて、ただちに石頭大師に参じ、綿密に奥深い真実を悟ったのであった。」 「大の男たるもの、法に頼らず、己れ自身で清浄でおられねばならぬ。」というところの原文が、「大丈夫、当に法を離れて自ら浄かるべし」という言葉です。 「外在的な法の助けなど借りずに自分自身を拠りどころとして清浄でいられなければならぬ。どうして法衣の上でのコセコセとした細かな作法を、己が務めとしておられようか」というのであります。 小川先生は、イスの坐禅によって坐禅の本質を体験され、『禅僧たちの生涯』に書かれている、「『戒体』は外から授かるものではなく、清浄なる自己の本性・仏性こそがもともと我が身に具わっている真の『戒体』にほかならない」ことを実感されたのでした。 イス坐禅の功徳は大きいものです。 白隠禅師も説かれていますが、一坐の功は大きいと改めて思いました。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1246回「無事の人」

岩波文庫の『臨済録』は、ただいま入矢義高先生の訳注でありますが、もとは朝比奈宗源老師の訳注でございました。 先代の管長であった足立大進老師が、この現代語訳を担当されたとうかがっています。 『臨済録』の示衆のはじめの方にある臨済禅師のお説法を朝比奈宗源老師の訳で拝読してみます。 「そこで師は言った。 今日、仏法を修行する者は、なによりも先ず真正の見解を求めることが肝要である。 もし真正の見解が手に入れば、もはや生死に迷うこともなく、死ぬも生きるも自由である。 偉そうにする気などなくとも、自然にすべてが尊くなる。 修行者よ、古からの祖師たちには、それぞれ学徒を自由の境地に導く実力があった。 わしがお前たちに心得てもらいたいところも、ただ他人の言葉や外境に惑わされないようにということだ。 平常のそのままでよいのだ、自己の思うようにせよ、決してためらうな。 このごろの修行者たちが仏法を会得できない病因がどこにあるかと言えば、信じきれない処にある。 お前たちは信じきれないから、あたふたとうろたえいろいろな外境についてまわり、万境のために自己を見失って自由になれない。 お前たちがもし外に向って求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖師であり仏である。 お前たち、祖師や仏を知りたいと思うか。 お前たちがそこでこの説法を聞いているそいつがそうだ。 ただ、お前たちはこれを信じ切れないために外に向って求める、(そんなことをして) たとえ求め得たとしても、それは文字言句の概念で、活きた祖師の生命ではない。 取り違えてはいけない。お前たち、今ここで、して取れないなら永遠に迷いの世界に輪廻して、愛欲にひかれて畜生道に落ち、驢馬や牛の腹に宿ることになるだろう。 お前たち、わしの見解からすれば、この自己と釈迦と別ではない。 現在、日常のはたらきに何が欠けているか。 六根を通じての自由な働きは、今までに一秒たりとも止まったことはないではないか。 もし、よくこのように徹底することが出来ればこれこそ一生大安心の出来た目出度い人である。」 というものです。 このうちで、「古からの祖師たちには、それぞれ学徒を自由の境地に導く実力があった」というところは、原文は「古よりの先徳の如きは、皆な人を出す底の路有り」となっています。 今日では「人を出す」は、「人にまさる」という意味であることが分かっています。 小川隆先生は、講談社学術文庫の『臨済録のことば 禅の語録を読む』には、「わが道の先人たちには、みな余人に勝るすぐれた路があった」と訳されています。 自己と釈迦とは別ではないことのたしかな証が、六根を通じてのはたらきが何も欠けていないことだというのです。 『宗鏡録』にこんな問答があります。 異見王が波羅提尊者に問いました。 「何をもって仏とするのか」。 尊者は「本性を見るものが仏である」と答えます。 王は「ではあなたは本性を見たのか」と問います。 波羅提尊者は「わたしは仏性を見ました」と答えます。 王は、「では本性はどこにあるか」と問います。 波羅提尊者は、「本性は作用するところにある」と答えました。 王は、「如何なる作用であるのか。いま見えぬではないか」と言います。 波羅提尊者は「いま現に作用しているのを、ご自分でわからないのです」と答えます。 更に波羅提尊者は「作用すれば、八処に現れる」と言います。 それは「母胎にあっては身といい、世に出ては人という。 眼にあっては見るという、耳にあっては聞くという。 鼻にあっては匂いを区別して、口にあってはものを言う。 手にあってはものをつかみ、足にあっては走る。 拡大すると世界を被い、収斂すると微塵に納まる。 わかる者はこれが仏性だと知り、わからぬ者は精魂と呼ぶ」と答えたのでした。 見たり聞いたりするはたらきが仏性だと説かれたのです。 さてこの臨済禅師のお説法を小川先生は分かりやすく次のように要約されています。 一、「人の惑わし」を受けるな、 二、己れの外に「馳求」するな、 三、自分自身を信じ切れ、 四、その自分自身は「祖仏」と別なく、「釈迦」と別なきものである、 五、といっても、何も特別のものではない、それは「祗(まさ)に你、面前に聴法せる底」、すなわち現にこの場でこの説法を聴いている、汝その人のことに外ならない、 六、その汝の身には途切れることなくはたらきつづける「六道の神光」が具わっている、 七、それを如実に看て取る者が、つまり一生「無事」の人なのである。 ということなのです。 盤珪禅師は、今この話を聞いている時に、外で鳥の声が聞えてもちゃんと鳥の声だと聞ける、それは聞こうとしなくても聞けているのであり、それが素晴らしい不生の仏心がみんなに具わっている証拠だと示されました、 明快なことは明快、これ以上明快なことはないほどです。 理解できることもまた理解できます。 しかしながら、これで本当に納得できるかというと、やはり難しいものです。 それにはいろんな修行や回り道が必要なのであります。 多くの事、多事を経験してこそ無事になるのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

人間と意識の顛倒夢想、戦争でお金儲けしたい人も読んでほしい記事

私が「意識」について書くとき、「リンゴを見ている自分の意識」など、意識の内容全体のことではありません。「リンゴを見ている自分の意識」を「意識している(自覚している)」ことそのものであり、その意識の焦点のことを「意識」としています。 自己意識全体ではなく、自己意識の焦点です。 認識全体ではなく、認識の焦点です。 気づきという、認知の焦点です。 意識の焦点として意識を定義したとき、明確にしたいことは次のことです。 人間が意識を存在させているのではなく、意識によって人間が