第1254回「坐禅と戒の本質」

戒定慧の三学が仏道修行の根本であります。

戒によってまず五戒などの戒や生活規律を身につけます。

それによって禅定・三昧の境地を深めます。

ついで、真理の観察を通して智慧を体得するというのが修行なのであります。

禅宗の修行は、この禅定を修めることが中心となりますが、その土台はやはり戒なのであります。

先日夏期講座では、午後からイス坐禅の時間を設けてもらいました。

このところ、イス坐禅を体験したいという方が増えているからであります。

有り難いことに都内のイス坐禅の会は、すぐに満席となってしまうようなのです。

都内のイス坐禅は、三十名と限定していますが、夏期講座のあとのイス坐禅は百名を越える大勢となりました。

これほど大勢の方にイス坐禅を伝えるのは初めてでありました。

イス坐禅については、昨年から研究し試行錯誤を繰り返して、次の四つに集約しています。

一、首と肩の調整

二、足の裏、足で踏む感覚

三、呼吸筋を調整

四、腰を立てる

の四つなのであります。

一の首と肩の調整というのは、今の人は私も含めてデスクワークが多く、またスマートフォンなどを見る時間も多いので、どうしても首が前に出てしまい、肩も巻き肩になりやすい傾向があります。

そこで首や肩をほぐして、ただしい位置にすえるのです。

首の位置一つで、坐禅は全然変わってきます。

それから腰を立てるには、なんといっても足で地面を踏みしめて押す力が大事であります。

足から立ち上がるようにしないで、無理に腰を入れようとすると、腰に負担がかかってしまったりします。

足で地面を踏んでいる感覚をつかんでもらうようにしています。

呼吸筋については、単に呼吸を見つめましょうと言ってもなかなか実感しにくいものです。

そこで肺を上下、左右、前後に広げるように意識する運動を取り入れています。

そして最後に腰を立てるのです。

特に首肩をほぐすにはある程度の時間が必要であります。

タオルなども使いながら、肩周りをほぐしてゆきます。

足の裏は、テニスボールやゴルフボールを使って、足で押すようにして刺激を与えます。

足の裏の感覚を取り戻してもらうだけでも体は大きく変化します。

そんな講座を行っていました。

百名もいらっしゃると、後の方に伝わるのかとハラハラしながら行いました。

私からよく見えるところで、その日の講師であった小川隆先生が、受講してくださっていました。

まことに恐縮したものであります。

ひととおりのワークを行って腰を立てて坐りました。

ふと小川先生のお坐りになっている姿勢が目に入りました。

それが実に堂々たる坐り方でありました。

私は内心やはりさすがだなと思っていました。

いつも小川先生は、ご自分ことを「禅の修行もしたこともない」とご謙遜なされますが、高校時代には岡山の曹源寺の坐禅会に通われていたのです。

腰がスッと立っていて素晴らしい坐相だと拝見していました。

夏期講座のあとにも小川先生からは、「全身に血が流れはじめているような感じがし、手足が温かく、足の裏がしっかり大地を捉えているような感じ」がされたという感想をいただきました。

有り難くうれしく思ったのでした。

そしてイス坐禅は、大勢の方で行ってもできると分かりました。

更にそのあと、三日経った頃に、小川先生からは、「特に左右の足の裏の存在を思い出したというのが最もはっきりした実感で、歩いている時も足の裏が床を踏みしめているのを感じますし、特に机に向かっている時に、左右の足の裏と尾骨の三角形で上体を支えているような安定感を覚え、頭が軽くなったような感じがしております。」

というお言葉をいただきました。

左右の足の裏と尾骨で上体を支えるというのはイスに坐った時の良い姿勢であります。

大事な要点をつかんでくださってうれしくなりました。

そして更に小川先生からは、
「講習の後、ふと思い出したのですが、たしか『夢十夜』に、木を彫って仏像の形にするのでなく、木の中にもともと埋まっている仏の形を掘り出すのだという話があったかと思います。

私は坐禅というものを、歪んだ体を矯めて正しい型のなかに力ずくで押し込む行のようにイメージしていたのですが、先日の講習の際は、ご指示に従って体をほぐし呼吸を整えていくうちに、もともと体の中に埋もれていた坐禅の形が自然に表に出てきたような感じがいたしました。」

というお言葉をいただきました。

「体をほぐし呼吸を整えていくうちに、もともと体の中に埋もれていた坐禅の形が自然に表に出てきた」とは見事な表現であります。

これこそが、私が目指しているイス坐禅の本質なのだと思いました。

私などもそんな感じがするのですが、このように明確に言葉に表すことができないのです。

多くは無理矢理型にはめ込んで辛抱している坐禅になっているのではないかと反省します。

唐代の禅僧たちは、一問一答によって、坐禅の本質に目覚めたのだと思います。

更に驚いたのは、小川先生は、

「石頭禅師の説く「自性清浄、之を戒体と謂う」という言葉や、薬山禅師の「大丈夫、当に法を離れて自ら淨かるべし」という語が腑に落ちた気がした」というのです。

坐禅の本質から更に戒の本質まで感じ取ってくださったのでした。

「有相の戒を否定するけれども、決して捨戒や破戒には進まず、外からの規制によらない自身を根拠とした清浄を説く、という論理」が、先日のイス坐禅の体験と、6月4日に公開した管長日記の内容が結びついて、石頭禅師や薬山禅師の言葉の裏にある実感に少し触れられたというのであります。

薬山禅師については、小川先生の『禅僧たちの生涯』には次の言葉が引かれています。

現代語訳を引用します。

「大の男たるもの、法に頼らず、己れ自身で清浄でおられねばならぬ。どうして、衣の上でコセコセと、細かな作法に憂き身をやつしておれようか!」

かくて、ただちに石頭大師に参じ、綿密に奥深い真実を悟ったのであった。」

「大の男たるもの、法に頼らず、己れ自身で清浄でおられねばならぬ。」というところの原文が、「大丈夫、当に法を離れて自ら浄かるべし」という言葉です。

「外在的な法の助けなど借りずに自分自身を拠りどころとして清浄でいられなければならぬ。どうして法衣の上でのコセコセとした細かな作法を、己が務めとしておられようか」というのであります。

小川先生は、イスの坐禅によって坐禅の本質を体験され、『禅僧たちの生涯』に書かれている、「『戒体』は外から授かるものではなく、清浄なる自己の本性・仏性こそがもともと我が身に具わっている真の『戒体』にほかならない」ことを実感されたのでした。

イス坐禅の功徳は大きいものです。

白隠禅師も説かれていますが、一坐の功は大きいと改めて思いました。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?