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「全機」について③

前回、「生」とは〈いのち〉の全現成であり、今、この「生」を私が生きるなかで出会うすべての存在は、この「生」と〈ひとつ〉となって存在しているということを書きました。

前回に引き続き、本文を見ていきたいと思います。

生といふは、たとへば、人のふねにのれるときのごとし。このふねは、われ帆をつかひ、われかぢをとれり。われさををさすといへども、ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし。われふねにのりて、このふねをもふねならしむ。この正当恁麼時を功夫参学すべし。

『正法眼蔵』(二)岩波文庫

(「生」というのは、たとえば人が「ふね」に乗っているときのようである。この「ふね」は、私が帆を使い、私が舵を取っている。私が棹をさし「ふね」を進めているとはいえども、「ふね」が私を乗せて、「ふね」のほかに私はいない。私が「ふね」に乗って、この「ふね」をも「ふね」ならしめている。このまさに真実である時を功夫参学しなさい。)


仏法という「ふね」

〈いのち〉の全現成である「生」とは、人が「ふね」に乗っているときのようだといいます。ここではあえて平仮名表記のままにしておきますが、この「ふね」は仏法のことを指します。

龍樹尊者が仏法について次のように言っています。

「仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行は則ち苦しく、水道の乗船は則ち楽しきが如し。菩薩の道もまた是の如し」(「十住毘婆沙論」※柳宗悦『南無阿弥陀仏』岩波文庫より抜粋)

世間の道に難しい道と易しい道があるように、仏法にもさまざまな門があるといいます。陸路は自分の足で行く険しい道ですが、水路は船に乗って進んでいくから楽ちんです。ここでは前者を自力聖道門、後者を他力浄土門として説明されています。

ただ道元禅師の言う「ふね」は、あくまで、この「私」が帆を使い、舵を取り、進めているのであり、その意味で一人乗りです。自分の「生」は自分が生きるしかありませんし、誰のせいにもできません。したがって非常に実存的です。ですから阿弥陀様が大きな船ですべての衆生を浄土へ連れて行ってくれるというような他力の道ではありません(本当は他力門もきわめて実存的な教えではあります)。

とはいえ、もちろん自分の足だけで行く陸路でもありません。あくまで仏法という「ふね」によって生かされていく道だということだと思います。ですから「ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし」と言われます。

「私」が「ふね」を進めているようだけれども、実は「ふね」(仏法)のほうが主体となって「私」を載せています。そのとき「ふね」(仏法)を除いて「私」はいません。

仏法によって生かされていくには、発心が必要です。それは信心といっても同じです。「心」は〈いのち〉のことであり、菩提心ともいいます。

菩提心(自未得度先度他の心)

菩提心は自未得度先度他(いまだ自らは彼岸に渡らずとも他を先に彼岸に渡そうとする)の心ともいいます。これは自己犠牲的な利他行のことを言っているのではありません。〈いのち〉そのものからすれば、すべての衆生は平等に〈ひとつ〉の存在です。ですから、そもそも自己犠牲だとか、もしくは自分だけが救われるというのはありえません。ですが、相対的な自我の世界では、自と他が分かれていますから、救いも相対的にならざるをえません。

「いまだ自らは彼岸に渡らずとも他を先に彼岸に渡そうとする」のは菩薩の心です。菩薩とは「菩提を求める人」ですから、菩提心のことです。

四弘誓願に「衆生無辺誓願度」(衆生は無辺なれど誓ってみな救う)という有名な言葉がありますが、これは自我の「私」ではなく、菩薩の心(菩提心)が唱えているものです。「無辺」とは辺際がない、つまり〈ひとつ〉なるものという意味ですから、衆生がみなバラバラにしか見えない自我の「私」に唱えることはできません。ですが、〈いのち〉を本源とする菩提心からすると衆生は本来無辺なるものなので、誓って救わざるをえないのです。そして誰もが菩提心を持っています。だから誰もが唱えることができるのです。

現象世界における相対的な平等ではなく、〈いのち〉の次元における絶対の平等だけが本当の救いです。その自他不ニの〈いのち〉に帰って初めて本当の意味で人をも助け、自分をも助けることができるのだと思います。

その菩提心が主体となって生きられていくのが菩薩の道です。それとは逆に、自我としての「私」は二元性の意識ですから何をやっても自他分離の行為にしかなりません。

仏法(菩提心)は生死の大海を渡る「ふね」ですが、しかしこの「私」を除いては「ふね」もありません。誰も乗らない「ふね」は「ふね」とは言えないからです。したがって、「私」によって実際に生きられない抽象的な「仏法」など存在しません。「われふねにのりて、このふねをもふねならしむ」とはそういうことです。

「ふね」が「私」であり、「私」が「ふね」である、そのように生きている真実としての「今」(=正当恁麼時)を参究せよといいます。


続いて本文を見ていきます。

この正当恁麼時は、舟の世界にあらざることなし。天も水も岸もみな舟の時節となれり、さらに舟にあらざる時節とおなじからず。

『正法眼蔵』(二)岩波文庫

(このまさに真実である時は、「舟」が世界そのものでないことはない。天も水も岸もみな「舟」の時節となっており、決して「舟」ではない時節と同じではない。)


「舟」の時節

ここで「ふね」は「舟」となっています。これは道元禅師も意図的に書き分けたのだと思います。つまり「私」と「ふね」(仏法)が完全に一体である、つまり本当の自己となることを「舟」と表現しています。

本当の自己である時(=正当恁麼時)が「舟」の時節であり、その時は、万法が自己そのものとなっている、つまりすべては〈ひとつ〉であり、自己でないものはないといいます。

そして「さらに舟にあらざる時節とおなじからず」と強調しています。

ちなみに、「さらに~」とは「決して~ない」という強調の否定形です。
「時節」という言葉は道元禅師がよく使う言葉でありながら説明が難しいのですが、「時」と「世界」を一つの単語で表わした言葉です。ですから、抽象的な誰かの世界ではなく、「私」の生きる実存的な世界のことを「時節」といいます。

「舟」(本来の自己)の時節は、「舟」ではない時節とは全く違う世界なのだということです。「舟」ではない時節とは、仏法(=菩提心)にいまだ目覚めていない自我としての「私」が経験している世界であり、それは「舟」の時節とは根本的に異なる世界なのです。それもそのはずで、「ふね」に乗っていない「私」は、ただ生死の海におぼれる、つまり生死流転を繰り返すしかない存在ですから当然です。

諸法の仏法なる時節

「現成公案」巻では「舟」の時節を「諸法の仏法なる時節」と言っています。「現成公案」巻は『正法眼蔵』の最初に収められている巻であり、その第一文が「諸法の仏法なる時節~」です。「諸法」とは五蘊(自己)のことです。つまり「諸法の仏法なる時節」とは自己が仏法となっている時節という意味です。

『正法眼蔵』をはじめ道元禅師の書かれたものはすべて「諸法の仏法なる時節」(「舟」の時節)である世界について書かれているので、そのことを前提に読まないと意味が分からなくなります。ただの知的関心では読めないのです。といっても、べつにお坊さん限定だとか坐禅を一生懸命やっているかとかではなく、仏法を自分のこととして生きようとしている人、つまり本気で目覚めたいと思っている人に向けて書かれたものだということです。


続いて本文を見ていきます。

このゆゑに、生はわが生ぜしむるなり、われをば生のわれならしむるなり。舟にのれるには、身心依正、ともに舟の機関なり。尽大地・尽虚空、ともに舟の機関なり。生なるわれ、われなる生、それかくのごとし。

『正法眼蔵』(二)岩波文庫

(このゆえに、「生」は私自身が生じさせているのであり、私自身を「生」の〈私〉ならしめているのだ。「舟」に乗っているということにおいては、身心も、主体と環境も、すべてが「舟」の機関となっているのだ。全大地、全虚空、ともに「舟」の機関である。「生」である〈私〉、〈私〉である「生」、それはこのようなものなのである。)

「機関」とは、〈いのち〉の働きの仕組みのことだと以前書きました。仏法と〈ひとつ〉になった自己である「舟」は、もちろん〈いのち〉の働きとも〈ひとつ〉の存在です。ですから「舟」の世界は〈いのち〉の働きそのものとなっています。ここでは「生」が強調されていますが、この「生」は「死」と一如である「生」ですから、「生死」と言い換えても同じです。

永遠の菩薩行

「舟」は生死の大海を渡るものです。ですが、生死の大海を超えて彼岸へたどり着くための手段ではありません。というのも、道元禅師の言う「生死」は、迷いの生死ではなく〈いのち〉の全現成としての「生死」ですから、「生死」がそのまま涅槃(彼岸)なのです。したがって、〈いのち〉の全現成としての「生死」と一体となって進む「舟」に行き先はありません。ある意味、その「舟」の航程におけるすべての瞬間が「彼岸」であり、その航行(菩薩行)は永遠(=時間を超えたもの)と言うしかありません。

(長くなりましたので、続きはまた次回にしたいと思います)


【追記】(2024/6/30)
補足します。
菩提心のことを自未得度先度他の心と書きました。これは『正法眼蔵』「発菩提心」巻のなかでも言われているとおりです(「発心とは、はじめて自未得度先度他の心をおこすなり、これを初発菩提心といふ」)。
一方で前の記事(「全機」①、「全機」②)のなかで、信心(=不思量底である本当の「心」に帰すること)によって「非思量」が生まれるということも書きました。

道元禅師は『学道用心集』のなかでは菩提心を「無常を観ずる心」と言っています。「無常を観ずる心」とは在るがままに観る智慧のことですが、これが「非思量」にあたると思われます。

ということは菩提心にはふたつの側面があるということになります。
①無常を観ずる心=非思量
②自未得度先度他の心

これは仏の心における智慧と慈悲にあたります。
①が智慧であり、②が慈悲です。

智慧と慈悲は本来ひとつのものです。両輪となって働くものなので、どちらが欠けても働きません。智慧のない慈悲はありえず、慈悲のない智慧もありえません。それが菩提心(仏の心、菩薩の心)であり、仏法であるということになります。


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