人間と意識の顛倒夢想、戦争でお金儲けしたい人も読んでほしい記事

私が「意識」について書くとき、「リンゴを見ている自分の意識」など、意識の内容全体のことではありません。「リンゴを見ている自分の意識」を「意識している(自覚している)」ことそのものであり、その意識の焦点のことを「意識」としています。

自己意識全体ではなく、自己意識の焦点です。

認識全体ではなく、認識の焦点です。

気づきという、認知の焦点です。

意識の焦点として意識を定義したとき、明確にしたいことは次のことです。

人間が意識を存在させているのではなく、意識によって人間が存在させられている。

そもそも「意識」を「意識」と表現したり、「精神」「心」「真の自己」と名づけると、人間を中心にした表現になります。人間専用の表現です。

地球を宇宙の中心に置いて、太陽や惑星が回っていると考えた天動説の世界観と同じです。

「意識」というものを物理的に表現すると、【無[相即]無限の光】の物理的性質であり、存在するものを確かに存在させる観照作用になります。

(※【無[相即]無限の光】の物理的性質は、対象作用と観照作用で、ホログラムの物体光と参照光の関係に類似します。)

 

【無[相即]無限の光】は、最高次のホログラム、最高次の多義図形のようなものであり、存在可能な世界は全て存在させ(対象作用)、さらに自身の持つ観照作用によって存在するものを確かに存在させ確定します(在らしめる)。

人間専用の表現の「意識」ではなく、シンプルに「観照作用」です。

この観照作用によって、「リンゴを見ている自分の意識」も意識することが可能です。今、あなたが世界を認知していると確かに自覚することができているのは、照明作用によるものです。

「自己意識が確かに在る」と観えているのは観照作用の物理的効果です。

 

人間(脳)が観照作用(意識)を存在させているのではなく、【無[相即]無限の光】が人間を存在させ、それが持つ観照作用(意識)によって、「確かに人間が存在する」として確定します。観照作用が存在しなければ無です。この世が存在するためには原初の物理状態【無[相即]無限の光】に観照作用が必須です。

 

人間がいるから意識(観照作用)が存在するわけではありません。人間が消えても意識(観照作用)は存在します。

人間は、観照作用が認知の本質、原因、正体であることを悟ることが可能です。

人間という現象そのものを滅し、【無[相即]無限の光】に潜在化し、観照作用そのものだけに成ることで悟ります。(※悟るのは、【無[相即]無限の光】に潜在化し、再び顕在化したときの人間です。)

観照作用そのものの状態を純粋意識と名づけることもあります。それぐらい観照作用そのものと「人間の自己意識が見ている」という感覚は酷似しています。

 

不確定性原理とは、不確定性関係にある「位置と運動量」が位置の曖昧さが小さくなると運動量の曖昧さが大きくなり逆も然りの関係です。よく位置と運動量は同時に正確に決めることができないという説明を見ます。「一方は正確に決まるの?」という疑問を持ちますが、一方を曖昧さゼロで確定し正確に決めることは不可能です。曖昧さゼロで確定するともう一方が無限大になってしまいます。結局はどちらも絶対的な確定はしないでゆらいでいます。ミクロで私たちは確定せずぼやけている存在です。

ミクロな粒子を波として表わしたものを物質波と呼び、ある程度広がりを持つので、針のように一点に集中したものではありません。物質波には最小の広がりがあります。物質は、マクロで静止しているように見えても、ミクロではゆらいでいます。この世界では絶対に超えられないゆらぎです。

 

人間という現象は、この不確定性原理の超えられないゆらぎを[人間~世界全体]を滅することで超えることができます。これは「悟り」と呼ばれます。悟りは、神秘現象や宗教的なもの、奇跡などではなく、普遍的な物理現象です。

[人間~世界全体]を滅すると観照作用そのものだけの状態になります。それはつまり、【無[相即]無限の光】の状態、唯一・絶対・静止であり、さらにこの状態は、存在可能な世界を全て「今」認知している状態になります(※全ての存在可能な対象を含む原初の状態)。

これは、人間の意識による不確定性原理の超越です。

(※正確には人間を中心にした世界全体の観照作用(意識)による不確定性原理の超越です。)

 

不確定性原理では、位置の曖昧さがゼロになり正確に確定する(静止・不動)と、運動量の曖昧さがが無限大になります。運動量の曖昧さが無限大になるとは、可能な全ての運動量が重ね合わせで存在するということです。

 

この関係は人間の意識も同じです。(※正確には、人間の意識の焦点から時空全体を観ている意識(観照作用)であり、人間専属の意識(観照作用)ではありません。)

人間の認知(意識の焦点)が極限に至ると(最高次のメタ認知)、認知が静止・不動になり、「人間という現象~時空全体の可能性の全て(無限)」が重なり合って消滅し、【無[相即]無限の光】になります。

[人間~世界]という現象が消えても、それは死ではありません。【今[相即]永遠】に全てを観ているもの、つまり、観照作用そのものの物理状態に成るだけです。

(※これを「人間」が不生不滅の命に復帰するという表現にすると、人間中心的です。)

観照作用を「神」と解釈すると、神人合一のような表現ができますが、これも人間中心的です。人間という現象は生滅する領域の現象であって、観照作用ではあり得ません。人間という現象は従であり、観照作用が主(しゅ)です。人間の思考は、人間を中心に置いてしまうので主従関係が逆になってしまいます。(どちらの考え方も平等に価値がある構造ではあります。)

 

絶対温度の下限である絶対零度とは、原子の振動が小さくなりエネルギーが最低になった状態のことです。不確定性原理のため、原子の振動が完全に止まることはなく、零点運動をしています。人工的に有限回の操作で、絶対零度に移行することは不可能です。

しかし、人間の認知は、[人間~世界]を滅することによって、完全に静止(不動)にすることが可能です。単純に静止ではなく、【静止[相即]エネルギー無限大】です。エネルギーが最低であるとき相即不離でエネルギー無限大になります。それが、【無[相即]無限の光】の物理状態であり、無限の可能な世界を包含し、それを観照作用により認知するという物理的性質を持ちます。この観照の物理作用を人間は意識(意識の焦点)と呼んでいます。自分の意識としています。自分がいるから意識が存在すると思っています。実相は、意識が存在するから人間が存在します(在らしめられる)。

 

意識の正体を悟るということは、全ての人間の意識の正体を悟るということです。意識の正体である「観照作用」は、「唯一絶対静止」相即「全知」です。「観照作用(意識)」が「全ての人間」を観照する構造になる。「今」自分の意識の焦点(観照作用)だと思っているものが、「今」他者の意識の焦点も担っていることになります。

つまり、「全ての人間は、意識の焦点を介して同一人物」と捉えることができます。

厳密に意識とは、【無[相即]無限の光】の物理的性質の「観照作用」のことですが、分かりやすくすると、「人間という現象」の意識を有する観照者は1人ということです。

「今」目の前にいる他者も、過去に存在した他者も、未来に存在するであろう他者も、何の改変無く、ただ静寂に、何の判断もなく、「観照作用(意識)」がスキャンするように、認知します。

 

実相において自由意思は存在しないので、大きな時代の流れには逆らえないかもしれませんが、人権の停止や戦争は起きて欲しくないです。もし、戦争に行くように命じる立場や戦争によって金儲けできる立場であっても、戦争の最前線にいる人間の人生を生きているのは、「今」自分の意識だと思っている意識なんだと知って欲しいです。全ての人は同一人物という構造です。

 

同じ時間にいる人間は、全くの他人であり、その人生をその本人の意識の焦点から認知することはできないと思うかもしれませんが、観照作用は、時空を超越し全知です。時空を隅々まで満たし、相即不離で唯一として観ています。

 

意識の解明が、神秘や奇跡ではなく、物理や数学で求められ、「全ての人間は、意識の焦点を介して同一人物」ということが科学的に示唆され常識になりますように。


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