私にとって留学とは
タイ留学94日目
タイでの生活、留学も100日に迫ろうとしている。
来たばかりのころのnoteを自分で読み返して、書いておいてよかったなと思う。
数日前に、ミラノに留学しているともだちのゆいちゃんと話していたことがずっと気になっている。
「留学とは何か」
わたしもゆいちゃんも考えていたことで、ゆいちゃんなりの留学中に出した答えを共有してくれた。その中には福岡 伸一先生のお話しからの引用があって「私たち人間とは何か」をまず考えさせてくれる。
1秒たりとも同じ人間ではいられない
2週間で筋肉細胞は生まれ変わるし、私を私であると証明する記憶ですら、細胞同士の関係の中に保存されていて、思い出さなければどんどん忘れられてしまう。私を私たらしめる物質的な基盤は何もないそうです。
つまりは、この自分の留学にこの話を重ねたりするならば、来たばかりのころの私と今この文章を書いている私は全く別物の物体で、その時のことを今思い出して書くとしたら、今の私によるもの、つまり全く別の物体が違う物体のことを考えて書くことになる。
それは確かに違う解釈や全く違う価値観で描かれそうだ。(断片的な記憶のつながりはあるにせよ)(久しぶりに今、思考が言語化に追い付かなくてうれしい気持ちと言語化されなかった思考たちへのさびしさでいっぱいになっている)
つまり私たちはずっとどこにもいない。私は一秒ごとに違う私になっている。そんな感覚をゆいちゃんの文章を読んだ後から感じている。
だから自分の中に「本当になりたいもの、なるべきもの」があるような気がして、自分の中に探し続けていても答えは出ない。あまり深く考えすぎずに職につき、新たな人と出会いそこに生じた関係から、役割が見えてくる。それが違うと思ったら、その時に修正すればいい。
留学とはすごく壮大で、可能性に満ち溢れていて、キラキラしたかっこいいもののように思っていた。
身近にいる留学経験者の先輩は、現地で団体を立ち上げたり、アイデンティティを全面に押し出していて、異国の地でも存在感がある。私にはそれが「100点満点の留学」に見えた。どこか潜在的にそういった「100点満点」を目指したい気持ちがあった。行くからには目指さなくてはいけないという義務感も今でもある。
現実では、私は弱くて、臆病で、楽な方に流されるし、一緒に来ている青学生に頼り切ってしまうことも多々ある。自分の描いていた理想とはかけ離れていて、物足りなさをずっと感じていた。
日本以外の環境に来て、私は今まで1つの尺度にこだわっていたことに気が付いた。つまりそれは同じ道の上で、同じ評価軸の中で戦う必要はないこと。留学とは私にとって、ものさしがたくさんあることに気が付くことができた場だった。
それから、私のラーニングエッジが顕著になった場でもあった。日々すれすれで余裕のない環境で生きていると、すぐにいらいらする。自分はなにが生活に必要なのかも、よくわかる。私自身がこだわっていたいこと、どうでもいいことも明らかになった。これらの情報は今後の私をぐっと生きやすくさせる。留学は自分のことを見つめる場というのはよく巷で聞いていたけど、それは私にとっては本当だった。
かといって、この暫定的な留学の定義に私は腹落ちしているわけでない。正直言うと、留学は「箱」とか「袋」とかそういった「空っぽ」なものだと思う。何を詰め込むかはそれぞれという、よくある結論になってしまう。
それでも、住み慣れた環境を離れ、違った価値観の中で生きることは、言語化してもし尽せない価値があると思う。それだけは言える。
私にとっての留学はもっとシンプルでもいいのかもしれない。
いただいたサポートで私はもっと私に優しく生きていきます。銭湯に行ったり、甘酒を作るなど、