見出し画像

「世界文学」から「現代文学」への『源氏物語』

『源氏物語―A.ウェイリー版〈3〉』毬矢まりえ+森山恵姉妹(日本語訳)

シャイニング・プリンス・ゲンジの四十を祝う盛大な儀式が開かれた頃、時代はゆっくりと移り変わりはじめる。 エンペラーは代替わりし、若き新人プリンセスが宮中に上がり、恋の物語は子や孫の世代に引きつがれる。 病に伏す者、世を去る者、残される者。絶頂から孤独へ、歓喜から悲嘆へ。やがてゲンジその人も旅立つときがくる──。
目次
梅枝
藤裏葉
若菜 上
若菜 下
柏木
横笛
鈴虫
夕霧
御法

(雲隠)
匂宮
紅梅
〈竹河〉
橋姫
椎本
総角

『雲隠』の帖が削除されていることについて、キリスト教文化と仏教文化の違いがあるのか?本編では『雲隠』は題名だけで中身がなく、仏教思想の「空」なる思想を表しているといると思うのだが、それを削除しても物語的には変わらないとする合理主義なのか、考えると興味深い問題のような気がする。

キリスト教の人は「容れ物」という概念は「福音(エヴァンゲリオン)」ということのようだ。それは光源氏は神の使者としての「福音」ということだろうか?しかし、谷崎潤一郎は「悪魔主義」として光源氏を描いたという(島内景二解説)。ウェイリーは「美しい悲しみ(クリムトの表紙絵に代表されるような耽美主義)」を抽出した詩歌の洗練された文化を翻訳したという。それは「福音」ということなのかな。それは『源氏物語』の「世界文学」ということらしい。サイードの言うオリエントの「世界文学」だろうか?という気がしないでもない。

紫式部の『源氏物語』も次の「匂宮」まで8年の空白があり、ウェイリーも4年の空白があったということなのだ。ということは『源氏物語』として最初に翻訳した時は光源氏の死を描かないでまだ作者の心に生きているとしたのかもしれない(喪の期間というのはそういうことなのか?)。実際にそこまで物語に深く入り込んでいるのかもしれなかった。翻訳家にしてみれば原作は母なる「物語」なのかもしれない。

面白いには宇治十帖が「匂宮」から始まるのではなく「橋姫」からだという。

それは以前は意識してなかった。「匂宮」から「紅梅」「竹河」を「匂宮三帖」とするという。「宇治十帖」は孫世代の話で「宇治源氏」として「匂宮」から捉えていたのかもしれない。

あと「女三の宮」が「ニョサン」と翻訳されているのは、妙にエロスが漂うなと思ったりした。女体に発音が似ているからか?「女三の宮」だと産番目の女の子という感じか?大君・中君も物語に複数出てくるので混乱するのでそれぞれ名前を付けるなどウェイリー版ならではの特徴もある。八の宮の娘はそれぞれ、アゲマキとコゼリと呼んでいた。紫式部の時代は無闇に名前をよぶものではないとし、ましては女はその存在は従属的な者として見られていたと思う。それがウェイリー版では個人として重要人物は名前(呼び名)を与えられていたのか。このことは結構重要なことのように思える。解説でも「男達の物語」から「女達の物語」を経てようやく「中性的な物語」になったと指摘していた。それはジェンダーを超えて現代的な世界文学ということなのかもしれない。紫式部の時代は、役職(役割か)で呼ぶことが多いので混乱すると言えば混乱する。まだ光源氏の時代はいいのだが、孫世代になると誰が誰と関係して出来たのかわからないのだ。

その中心にいるのが「カオル(薫)」だった。カオルは光源氏が父だが実質は柏木の子。母は出家した女三の宮(女三の宮も沢山いるので、ここではニニョサン)、兄が冷泉帝なのは、光源氏の息子だからであり、それで光源氏の死後面倒を頼まれる。冷泉帝の妻秋好中宮は姉ということでもある。さらに夕霧が面倒を見るのは柏木の依頼としてである。明石の姫君も姉として存在するので、そうした中心としての「カオル」の広がりは匂いそのもののようなのかもしれない。実質は光源氏の息子ではないのだが、その名目上の関わりというか表出がそうなのかもしれない。だからカオルは中身が不明ということで悩むのだった。そのカオルにライバル心を燃やす匂宮は、実質的に光源氏の血を引いているのだった(ただし第三皇子として、「第三の男」なのだ)。

そして「宇治十帖」が「橋姫」から始まりでのカオルの過去が弁の君から伝えられるところは弁の君が魔女のように描かれていて、シェイクスピアの老婆がマクベスの運命を語るシーンと重ね合わせてしまった。「若菜」を「スプリング・ハーブ」と訳しているのは、原作以上に孫世代の二人を暗示しているように思った。それで上(匂宮)と下(薫)に分かれているのかと。このへんになると現代文学と言っていいぐらいに錯綜していく。夕霧の不甲斐なさとかオチバの惨めさとか。

「竹河」の桜の六人の女性の唱和は須磨での雁の唱和(光源氏を囲んでの男達の和歌)と対になるような見事な和歌の共演だった。

(玉鬘の娘:大君「ヒメギミ」)
桜ゆゑ,風に心のさわぐかな.。思ひぐまなき花と見る見る

(ヒメギミのサイショウ)
咲くと見て、かつて 散りぬる花なれば、負くるを探きうらみも せず

(玉鬘の娘:妹の「ワカギミ」)
風に散ることは 世の常、枝ながら、うつろふ花をたゞにしも 見じ

(メイドのタイフ)
心ありて、池のみぎはに落つる花、あわとなりても 我方に寄れ

(ワカギミのお小性:子供の侍女か?)
大空の風に散れども、さくら花、おのがものとぞ かき集めて見る

(ヒメギミに仕える少女ナレキ)
桜花、におひあまたに散らさじと、覆ふばかりの袖は ありやは

玉鬘邸の中庭で碁の勝負にまけた姉から妹へ桜のうたが唱和されていく(和歌監修、藤井貞和)。

「竹河」のこの桜のシーンは「国宝源氏物語絵巻 竹河2」に描かれているという。このシーンは玉鬘に仕えていた老女房がその後の玉鬘の苦労話に交えて明るい日の一場面として描くのである。

ウェイリーはこれを書いた紫式部は手元に自分の原稿がなく、記憶違いがあるかもとする。大君と中君の混乱。前章の「紅梅」との混乱。

このへんの系図の複雑さはなんとも言えないが、それでも各帖を短編(中編)連作小説のように読めばきわめて現代文学なのである。


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?