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通学路紅葉を拾ひ栞かな

昨日は雨が降ったりやんだり、映画まで時間があるのでパフェをたべようと店を探したが雨に降られて映画館に駆け込んだ。二時間以上読書しながら待ち時間。読書が出来たからいいんだけど。映画はいまいちだった。

読書。『シャギー・ベイン』500p.まで。この作品も映画化してもらいたいな。長いけど、人物描写は映像化で縮められるので、メインストーリーだけで泣ける。再びアル中に戻ってしまったそれ以降なのだが、自殺未遂を起こして、長男も家を出ていく。それでシャギーに俺みたいな大人になるなと言い残していく。そして、早く自分の人生を見つけろと。それがこの語り手の人生とだぶるような。ここはクライマックスと言ってもいい。
「うたの日」でプロメテウスとプロテウスを間違ってしまって。『ドイツ名詩選』にゲーテの『プロメテウス』という詩があるのだ。でもゲーテは神話とは逆にプロメテウスはゼウスの反逆者としてヒーロー的に描いていた。シューベルトの歌曲もあるようだ。

ゲーテの詩は『魔王』が有名でこれもシューベルトの歌曲になっていた。このあたりがロマン派なんだろうな。

藤田湘子『新版20週俳句入門』を読み終えた。読んだからと言って俳句が上手くなるわけでもない。毎日の作句が大切だと説く。もっともだ。

続けて坪内稔典編『短歌の私、日本の私』を読む。これは俳人の坪内稔典が短歌の「私性」について、歌人の意見を伺うような依頼のエッセイや対談。こういうテーマ性のある本は面白い。『万葉集』の成り立ちとか。近代短歌の格闘とか。

もう一つ言葉については、田中克彦『ことばと国家』が面白い。フランス語が国語のなったのにアカデミー・フランセーズが重要だったということ。フランスの哲学(教育)は地方の言語をフランス語にするために、フランス語が論理的だったとされる歴史があった(かつてはラテン語だったのだが市地方語のフランス語が取って代わる)。それは日本にも同じように(日本は漢文がラテン語のような位置)、例えば琉球語を日本語にするための教育が行われた。「方言追放令」は児童が琉球語を使うと罰札を掲げて、他の生徒を密告してようやく札が外されるという相互監視システムを取り入れたのだ。それはフランスから学んだという。中国の全体主義もそうなのだが、言語と国家は密接に関係してくる。言語での排除の構造は、ナチスのユダヤ人狩りもそうだが、究極までいくとホロコーストにも繋がって行く。民族間の争いが言語間の争いを引き起こすことも。


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