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言霊信仰=文学というグノーシス

『犠牲の森で: 大江健三郎の死生観』菊間晴子

【第12回東京大学南原繁記念出版賞受賞作】
「死生観」という切り口から、作家の全体像に迫る
大江健三郎という作家の全体を、「犠牲」のテーマから一貫して解釈しえた画期的研究。イメージ分析を主軸として、様々な領域のテクストからの影響、同時代的な社会状況、故郷の歴史・空間性などを踏まえて、大江作品における死生観を詳細に描き出す。

【阿部公彦(東京大学教授)東京大学南原繁記念出版賞授賞時講評より】
「おもしろいのは、菊間さんのアプローチが大江作品に内在する具体性と抽象性の独特な拮抗を半ば模倣するようにして展開することである。[…]言葉やイメージに徹底的に接近し寄り添うことで、犠牲となった獣の血なまぐささに追い立てられた人物たちの空間感覚を論考中にいわば写し取るのである。そうやって土台のところで論の具体性を確保した上で、より大きな総論へと進む。そこではちょうど大江の人物たちが「総体」との一体化を目指すのと同じように、大江健三郎という作家の全体を視野におさめた議論が展開する。」
【目次】
序論 「死生観」から大江を読む
第I部 「壊す人」の多面性――『同時代ゲーム』
第一章 『同時代ゲーム』の背景
第二章 「犬ほどの大きさのもの」
第三章 「暗い巨人」への帰依
第四章 「森」という神秘のトポス

第II部 犠牲獣の亡霊
第一章 皮を剥がれた獣たち
第二章 「御霊」を生むまなざし
第三章 隠された「生首」
第四章 「後期の仕事(レイト・ワーク)」における亡霊との対話

第III部 「総体」をめぐる想像力
第一章 自己犠牲と救済
第二章 救済を担う大樹
第三章 聖なる窪地と亡霊たち
補論 テン窪を探して
第四章 「神」なき「祈り」の場
結論 「犠牲の森」の変容

図書館本なのでそろそろまとめて返却しないと。犠牲というのは大江健三郎が時代の犠牲となったものを作品に取り上げながら(動物の犠牲というメタファー)生きた戦後世代の学生運動とか三島由紀夫の自決とかそういう歴史を動物をメタファーとして、ナショナリズムの中心の物語には回収されない辺境の物語として四国の森の鎮魂としての物語が描かれたのだと思う。

それは大きな物語に回収されてはならない個人的体験であり、そして「晩年の仕事」での文学の読み直し語り直し繋がっていくのだ。工藤庸子『大江健三郎と「晩年の仕事」』、尾崎真理子『大江健三郎の「義」』の中間ぐらいの批評かな。

大江健三郎の批評本としては、工藤庸子『大江健三郎と「晩年の仕事」』、尾崎真理子『大江健三郎の「義」』の中間ぐらいの批評。工藤庸子は純然たる文学論で、尾崎真理子は現代思想(右よりに感じる)という感じだが、尾崎真理子は宗教に入れ込みすぎるような気がするが、菊間晴子は大江健三郎が無神論者であることを明確にしている。そこから新プラトン主義というような、思想を引き出していた。グノーシス的なエリアーデの本が参考になるのかな?

「犠牲の森」というのは大江健三郎の小説の舞台になっている四国の森(村=国家=小宇宙)という構図を彼が生まれ育った大瀬村を取材して、大江健三郎の背景にあるものを読み取ろうとする批評。そこから樹木信仰みたいなものを導きだしていく。カバラの「生命の樹」だ。そこはエヴァンゲリオンだった。世紀末の終末思想かな(そこにオウム真理教との繋がりを感じてしまう『燃え上がる緑の木』だった)。

大江健三郎は、祈りの森(四国)で鎮魂をしたのだということだと思う。その中で全学連運動で死んだ者や三島由紀夫がいるのだが、そういう敗者として残った者として、生まれ変わりの物語を書かねばならなかった。

その物語は大きな物語(ナショナリズム)に回収されてはならない個人的な体験であるべきなのだ。その中で無神論である大江が神というものを見出していくには言葉しかなかった。それがグノーシス的な幻影(希望=絶望)としての物語だみたいなことだと思うが、一つの言霊信仰になっているのかもしれない。言霊信仰=文学ということだ。それが中心に依存しない辺境の四国の森の物語と重なっていく。


参考図書

工藤庸子『大江健三郎と「晩年の仕事」』

『大江健三郎の「義」』尾崎真理子


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