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柳田民俗学の繋がりは面白いが国家神道の世界になるとオカルトだ


『大江健三郎の「義」』尾崎真理子

謎だらけのポストモダン小説の先駆『同時代ゲーム』はなぜ書かれたのか。自伝的要素の強い『懐かしい年への手紙』に登場するギー兄さん、『燃えあがる緑の木』の新しいギー兄さんは、なぜ「ギー」なのか。大江健三郎の全小説を精読し、柳田国男の影響を確信した著者は、大江と柳田の深い関係を探っていく。しかし、大江の謎は柳田のみならず、『万延元年のフットボール』と島崎藤村『夜明け前』との類似点へと行き着き、いつしか不思議な親和性を持つ文学者のつながりは平田篤胤へと辿りつく。これまで海外文学の影響下において読み解かれてきた大江健三郎文学に、深く根を下ろした日本文学の伝統とは一体何か。大江研究の第一人者が読み解く、知的好奇心に満ちた快著!
目次
第1部 柳田国男の「美しき村」(「ギー兄さん」とは誰か;『同時代ゲーム』から『懐かしい年への手紙』へ;「生まれ替わり」への祈り)
第2部 『万延元年のフットボール』のなかの『夜明け前』(時代に殉じた「父」;平田国学と「村=国家=小宇宙」)

出版社情報

文芸誌の追悼特集号で尾崎真理子『大江健三郎の「義」』を知って、面白そうだと図書館で借りる。簡単に言ってしまうと「ギー兄さん」の「ギー」とは柳田国男のことだという。「ギー」は「義」ということで実際には血縁ではないが外部からやってきた「義」の人という「義兄弟」のような関係の兄貴分的な存在。

大江健三郎の地縁の村を主題にしながらそこに伝承される神話的世界(魂の問題)は柳田の民俗学と繋がっていく。「村=国家=小宇宙」という『同時代ゲーム』で繰り返されるテーマは柳田国男の『先祖の話』の「魂の行方」に繋がっていく物語であり、それはすでに我々から喪失した世界であるというのが大江健三郎の四国の森を巡る話になっていくのだ。その離脱者として大江健三郎の主人公はけっして森には帰れないのだ。しかし文学でもってそれは再現できるとする。

柳田国男の民俗学を知るには、柳田国男の晩年の聞き語りの『故郷七十年』を読めば分かると思う。

後半は島崎藤村の影響で書かれた『万延元年のフットボール』。ここまでは面白いと思ったがその先(より根源的な探究)で平田国学と「村=国家=小宇宙」という神道の保守思想が根本にある展開になっていくのだが、そこまで行くとオカルト的な感じがする。

確かに大江健三郎は少年時は軍国少年で教育を受けて兵隊になって魂を捧げるという願望があったとは思うが(『遅れてきた青年』という作品もある)それは少年期のことであり大江健三郎も経験によって変化しているのである。そして大江健三郎の変化は根源性に向かっていくよりは多様な世界と開いていく樹木の世界だ。

それは閉じられた森の話ではなくリゾームで繋がっていく外部の世界だと思う。その先に英詩の世界があり、エリオットは新古典主義だったがだから大江健三郎が新古典主義なのかというと違うと思う。それはそういう古典に接続した言葉の世界があるだけで、大江自身がネオプラトニズムを否定していて、魂とか祈りは個人的な問題としての興味はあるが、それが世界であるとは思っていないという。無神論であり合理主義者なのだ。

大江健三郎の小説に現れた言葉から平田篤胤の影響を見るのは勝手な解釈と思わざる得ない。なによりも主義主張が違っているのだから。あくまでも大江健三郎の文学はフィクションであり個人的問題であり、哲学や宗教にはならない文学なのだということを大江健三郎自身が明確に示している。


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