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シン・短歌レッス45

今日の一句

虫好きである。アゲハチョウも飛んでいたけど蝶を撮るのは難しい。バッタが飛んできて木に止まったところをパチリ。大きすぎて収まらなかったな。全体写真はこれ。



飛蝗跳ぶ鬱から躁へ虫の息

ちょっと最近ネガティブ俳句が続いているな。無理に明るくするのもなんなんで。花の季節から虫の季節という感じだね。

『源氏物語』和歌

『源氏物語 行幸』

唐衣また唐衣唐衣かへすがへすも唐衣なる 光源氏

光源氏が末摘花の「唐衣」好きに辟易している歌だった。こういう人は今もいるよな。たぶん、こんな歌。

GucciGucciとうるさいなGucciばかりとグッチ裕三に愚痴をゆうぞう

最後はダジャレでまとめてみた。日常会話をそのまま歌にしたものだという。そういう和歌もありということだ。ライラック杯の短歌これでいいかな?『源氏物語』で短歌詠むということでこれをやっているのだが。

話を戻すと、末摘花から送られた唐衣が古くて、おまけに凶事用と言ってもいいものだったらしい。末摘花から送られた和歌は。

わが身こそ恨みられけれ唐衣君が袂になれずと思へば  末摘花

『源氏物語 行幸』

この帖は末摘花には取り巻きの女房がいないので、こういう手紙は女房たちの代作で詠ませるそうなのだが、肩身の狭い末摘花は自分で詠まざる得なかった。祝いの手紙をネガティブ思考のまま相手に手紙を出してしまったということらしい。

でもそれにしても光源氏が気配りの人というのは嘘だな。こんな和歌を貰ったらますますネガティブになるだろう。


『源氏物語』和歌十首

朝日さす光を見ても玉笹の葉分けの霜を消たずもあらなむ  蛍宮

『源氏物語 藤袴』

玉鬘争奪戦の和歌です。尚侍として冷泉帝に出仕することになり(下の世話もする侍女)、忘れないでくれというような歌。霜の笹と共に贈ってきたという。『源氏物語・蛍』の帖で蛍宮と玉鬘の和歌のやり取りがあり、まあ脈アリという感じだったのだろう。光源氏のお膳立てもあったのだが、むしろ光源氏がモーションかけて玉鬘の気持ちが揺れているのだった。

心もて光に向かう葵(あふひ)だけに朝おく霜をおのれやは消つ  玉鬘

蛍宮の「朝日」に「葵」の「逢う日」を掛けているというテクニシャンの和歌だった。葵は光にむけて咲くが、朝の霜は忘れないという和歌だという。この光は冷泉帝ということだけど、光源氏じゃないのかな?玉鬘争奪戦の敗北宣言になってしまった蛍宮だった。

三瀬川わたらぬ先にいかでなほ涙の水脈(みお)の泡と消えなん  玉鬘

『源氏物語 真木柱』

玉鬘は尚侍と出仕する前に髭黒大将と結婚を決めてしまう。そのときの和歌を光源氏に送ったのだ。玉鬘は一筋縄でいかない女性に描かれているのは宮廷育ちでなく、野性味溢れる黒髭大将に惹かれたということか?黒髭大将の歌が全然なかったというのがポイントですね。光源氏にしてみれば腹立たしいことに違いない。

下り立ちて汲みはみねども渡川(わたりがわ)人の背とはた契らざりしを  光源氏

「渡川(わたりがわ)」は「三途の川」ということで、見知らぬ人(男)の背に乗っていくんかい!と怒りを露わにした歌だという。光源氏の和歌の方が先で玉鬘はその返歌だった。そのへんも玉鬘の和歌の上手さも感じられる。

ただこの帖は髭黒大将の家庭崩壊という地獄絵図が待っていた。涙を流させたのは髭黒大将の娘の「真木柱」だったのだ。

花の香は散りにし枝にとまらねど移らむ袖に浅く染まあめや  朝顔姫君(前斎院)

『源氏物語 梅枝』

玉鬘の一件は終わり、今度は明石の姫君の裳着の義での薫物競争で光源氏は朝顔姫君から梅の香を調合した薫物が光源氏の元に届く。そのときに添えられていた和歌。それほど深い意味はなく、梅の花が散っても香りだけは残るだろうという歌なのだが、光源氏の方が和歌以上の意味を汲み取ってしまった。それはこの歌も引歌があり『十遺集・雑春』の高光の歌を踏まえたもの。

春過ぎて散り果てにける梅の花ただ香ばかりぞ枝に残れる  高光

高野晴代『源氏物語の和歌』

さらに光源氏の返歌は

花の枝にいとど心を染むるかな人の咎めん香をば包めど  光源氏

散った梅と朝顔は詠んだのだが、まだまだ花ですよと称えた光源氏だった。朝顔とは大人の関係であり、だから明石の姫君の薫物を依頼したということなのだが、匂いというのは絶えず危険な香りを残すもの。

秋を経て時雨降りぬる里人もかかる紅葉の折をこど見ね  朱雀院

『源氏物語 藤裏葉』

第一部の終わりは光源氏が准太上天皇となって実質上の権力を握り六条院も完成して、そこに冷泉帝と朱雀院が揃って御幸(ごこう、訪問か?)するという最大の栄誉の中で朱雀院が六条院の秋の庭に寄せて光源氏に詠んだ歌で紅葉を絶賛した。

しかし、朱雀院は女三宮という厄介な存在を光源氏に託すことになり、この絶頂の時期を持って転落していく。光源氏の場合転落と言ってもそれまでのイケイケじゃない状態にしか過ぎないのだが、もう与えられているものはすべて手にしているから望みようがない。ただ季節でいうところの秋だということなのである。

そんな光源氏に宛てた冷泉帝の歌は、

世の常の紅葉とや見る古への例(ためし)に引ける庭の錦を  冷泉帝

若葉さす野辺の小松をひきつれてもとの岩根を祈る今日かな  玉鬘

『源氏物語 若菜上』

黒髭大将の元に去った玉鬘が子供を連れての里帰り、光源氏四十の正月の祝いである。光源氏はその姿を見て欲情すら起こらなかったというのは玉鬘の成熟した女性としての堂々ぶりだという(二児の母であり、尚侍として勤めているキャリアウーマン)。

小松原末の齢に引かれてや野辺の若菜も年をつむべき  光源氏

光源氏の返歌も孫たちに手を引かれていくというような歌で、これが玉鬘の最後の和歌の交換となり、その後は波乱の女三宮を迎えることになるのだった。

いつもだったら五帖十首で終わらせるのだが、「若菜上」の続き「若菜下」もあるのでそこまでにする。

消えとまる程やは経(ふ)べきたまさかに蓮(はちす)の露のかかるばかりを  紫上

『源氏物語 若菜下』

女三宮の降嫁によって六条院もみだれ始める。その前兆として紫上の病があるのだが、蓮の上の露のようだという歌。病になった紫上は二条院に移されるのだがその時の歌だという。光源氏の返歌は、

契り置かむこの世ならでも蓮葉に玉ゐる露の心へだつな  光源氏

蓮葉は仏教の極楽浄土だが、光源氏の歌とは裏腹に外界(六条院)ではとんでもないことが起きようとしていたのだ。それが女三宮を垣間見た柏木が、光源氏の留守中に関係を持ってしまったのだ。今まではやる方だったのがやられた光源氏が柏木を許せるはずもなく、柏木は病になってしまう。

『源氏物語 若菜』から一首短歌を作りたいのだが。難しいかな。いきなりは難しいと思うので塚本邦雄『源氏五十四帖題詠』を見て参考にしよう。まず『若菜上』は、

七十の賀に召せ若菜はるかなるよろこびはつゆじもに濡れつつ  塚本邦雄

塚本邦雄『源氏五十四帖題詠』

光源氏の四十の賀を七十にしたのは塚本自身のことなのかな。この若菜は孫娘のことで、明石の姫は十二歳だったと。女三宮も十四歳だから、まだ中学生じゃないか。先日『十四歳の栞』という映画を見たが、女子は成長が早いけど思春期真っ只中という感じだった。それで光源氏が四十だもんな。反抗するのは自然だな。

光源氏も十二歳で葵と結婚して、二十八年間のセックスライフだったのだ。四十で老け込んでしまうのも納得ということか?それが塚原の七十歳ということなのだろう。でも今の自分は六十で老け込んでしまっている。なんだこの差はイケイケの時代ではないんだよな。

還暦にさまよふ青い
鳥のごと
若菜ついばみ蓮葉の夢に

そういう幻想世界を夢見ているという歌だった。

「若菜下」は

十二月(しわす)には雪をかがりふりつ朱雀のみかど宝寶(ほうさん)五十  塚本邦雄

塚本邦雄『源氏五十四帖題詠』

これは『源氏物語』の世界の短歌だった「宝寶(宝算)」は天皇の年齢。あまり工夫なくそのままの歌だな。十二月の雪のような白髪の朱雀院の五十歳ということだろう。詰まらん!ちょっと次回に見送り。二首出来た。

GucciGucciとうるさいな Gucciばかりとグッチ裕三に愚痴をゆうぞう  やどかり
還暦に彷徨う青い鳥のごと 若菜ついばみ蓮葉の夢に やどかり

川柳レッスン

川柳レッスンも俳句レッスンに戻してもいいのだが、一応、杉山昌善,渡辺 美輪『時実新子(ときざね しんこ)川柳の学校』を終わらせよう。

この旅を思うだろうな死ぬときに
こんないい月夜に救急車が走る
さやさやと男の髪をくぐるかな
さみしいと言わせるまでは酌(つ)ぎこぼす
十七の花嫁なりし有夫恋(ゆうふれん)
荒(すさ)ぶ荒ぶ一花(いっか)も入れぬ壷の口
スイスイと空の燕も無職かな
戦争だからね 男と女とは
世紀末 夏 青蛙葉に移る
ぞんぶんに人を泣かしめ粥うまし

杉山昌善,渡辺 美輪『時実新子(ときざね しんこ)川柳の学校』

「川柳」は自分史ということだった。でもそこがどういう自分史なのかによって違ってくるよな。自分の場合脳内自分史だから、ちょっと違うのかもしれない。ただここで書かれているのは日記のように毎日作るだけでは意味がないと言っているのだった。心情発露ということらしい。その点は同感かもしれない。
救急車なんか毎日走っているよな。うちは救急病院の近くだから得に。ただ夜起きているときはそう感じられるのかもしれない。入院していて眠れない夜なんぞはサイレンの音ばかり気になってしまう。ここでは危機感(緊張感)を持てということらしい。
「さやさやと」のオノマトペ。そういえばオノマトペと言う言葉の方が使いたいのかもと思ってしまう。実際にオノマトペは難しいのだ。

オノマトペぺッと唾吐くペッペッペッ!

「酌(つ)ぎこぼす」という動作を入れると引き立つという。「酌(つ)ぎこぼす」なんて言葉はなかなか出て来ないと思うが。
「有夫恋」は不倫ということ。不倫も有夫恋と言えばなん浪漫的になる(これは造語だそうだ)?男だったら有妻恋(ゆうさいれん)とでも言うのだろうか?サイレンが鳴り響く危険な関係だな。造語の薦め。ただ普遍性を持たせること。自分だけがわかっているのはドグマ(独断)という。いいじゃないか、ドグマでも。造語の例、もう一句

忘れたや絵画の中の花童  曽我六郎

曽我六郎は時実新子の夫。
「荒ぶ」の句はルビのふり方。「荒ぶ」の場合は「あらぶる」もあるから「すさぶ」とルビを入れる。一花も「ひとはな」と読んでしまうから「いっか」とする。俳句だと読みは自由だからというのがある。俳句のルビは漢語だけど大和言葉にするというのがあった。あと特定の読ませ方をする場合とか。
オノマトペで「スイスイと」は平凡だな。それに燕はもっとビュンビュンと早い感じで。「スイスイ」だとかもめの水兵さんみたいじゃないか。ただこの句は「無職」がポイントだろうな。最初は「せわしげに燕飛び交う日の無職」だったのだが音韻的に流れが良くなく「スイスイと」にしたそうだ。一気に読ませるのがいいという。川柳は、一呼吸。
「戦争だからね」は「男と女」の後の「とは」が効いているのだ。あと一時空け。通常の俳句では禁止されている。

せんそうだからね おとことおんなとは

八音九音の定形から外れた破調の句。ただ一七音だからいいのか?
「世紀末」の句になるとよくわからんな。一時空けは誤読を防ぐためだという。

せいきまつ なつ あおがえる はにうつる

切れを入れるとこんな感じか。五二五五

でも五七五にする方がいいような。

世紀末なつ青がえる葉に移る

カタカナにするとか。

世紀末 夏アオガエル葉に移る

アオガエルと呼ばれた東急5000系電車があった。無難なのはやっぱ一字空けか。俳句だとこんな感じか。夏が余計なんだよな。

世紀末来たアオガエル葉に移る

「ぞんぶんに」の句は意地悪精神の句。こういうのは良くないんじゃないかな。それは批評なのかな?「め粥」というのがよくわからん。分かった。「お粥」は男で「め粥」は女ということか。ということは男を読んだ句であり、批評句になるのだな。

映画短歌

今日は『聖地には蜘蛛が巣を張る』。放題がかっこよかった。

待ち伏せに嫌な奴来た
からかいの
苦労は空に空き巣のままに

ちょっと苦しいか。巣を離れたということなのだが、苦労は水に流すということわざから空に置き去りにみたいな

今日も長かった。

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