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巣を張るのは、閉じられた世界だからか

『聖地には蜘蛛が巣を張る』(2022/ デンマーク/ドイツ/スウェーデン/フランス)監督アリ・アッバシ 出演メフディ・バジェスタニザーラ・アミール・エブラヒミ

解説/あらすじ
2001年、イラン。女性ジャーナリストのラヒミは、聖地マシュハドを震撼させている売春婦連続殺人事件を追うために現地に赴く。犠牲者が増え続けるなか、なぜか警察は捜査に消極的だった。性差別がまかり通る社会で、ラヒミは不条理な圧力と身の危険を感じながら、真相の追求にのめり込んでいく。そして遂に犯人にたどり着くが、意外にもその男は敬虔で家庭的な男だった。「社会の浄化」と信じて犯行を重ねていたその男・サイードは、熱狂的な一部の市民から英雄視されていく…。

coco映画レビュアー

イラン出身の監督のイスラム世界の男尊女卑を描いた映画。題名が秀逸である。原題は「スパイダー・キラー」なのだが「スパイダー」に「蜘蛛女」の意味を含ませているのか。その娼婦たちを次々に襲っては絞殺していく殺人鬼の話。

前半はその殺人鬼と彼の犯行を追いかける女性ジャーナリストの緊迫感あるストーリーなのだが、後半が裁判で大衆は殺人者を支持しているのだ。その影響で裁判がどうなるのかも興味深い内容。

なによりもタイトルである。邦題の『聖地には蜘蛛が巣を張る』は意味深だった。この蜘蛛は娼婦を指しているのだが、それは殺人者もそうであり、ジャーナリストを囮捜査をやるのだからそうなのである。そういうイスラム(この映画ではイラン)社会の構造。女性ジャーナリストは西欧の倫理観の持ち主だが、イスラム世界は違う。イランでは勿論公開されないだろう。監督も西側の映画だから撮れたのだと思う。

絶対的に西側の倫理観だけで見せる映画でもなく、裁判のシーンで男尊女卑の実体を暴いてみせる。殺人犯は、それは神の意志だというのだ。そういう神に代わって成敗するのがどうなのか?という問題。それが一般大衆の支持を得ているという状況。さらに息子が父の意志を継いでしまうという構造の再生産。そういう問題をえぐり出した映画でもある。

これはイスラム社会のことだけど、暴力で支配するという構造はナショナリズムの社会で見られる現象だ。イスラムだけの問題でもない。白人が黒人に暴力を振るうのが称賛されるとか。日本でもその傾向がある。それは、言葉の暴力でもそうだ。構造として正義の問題だった。

例えば交通として開かれた場所では蜘蛛の巣は張らないだろう。閉じられて閉鎖空間の薄暗い場所に蜘蛛の巣が張るのである。


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