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(長編童話)ダンボールの野良猫(三・二)

 (三・二)響子の挫折
 それから話はトントン拍子。約束通り一週間後黒のベンツで迎えに来たダダに連れられ、プロダクションの寮に移動。といっても賃貸の安いワンルームアパート。それでも響子にはお城。そこから毎日スタジオに通い、歌と踊りのレッスンは流石に厳しい。でも持ち前のど根性で何とか乗り切った。ダダがそのままマネージャーを務め、芸名も『亜辺マリア』と決まればって、ちょっとふざけ過ぎた芸名だけど、気にしない、気にしない。後はいよいよ秋十月一日デビューというところまでこぎ着けた。ちなみに芸名は不幸のどん底から這い上がった奇蹟の歌姫ということで、社長のMr口谷が祈りを込めて命名してくれたらしい。がこの時点で響子はまだ、Mr口谷とは一度も顔を合わせていない。
 しかしながら肝心のデビュー曲。これが何と『夏の思い出』のカバーで行くと言う。
「オリジナルじゃないんですかあ」
「なんや不満そうやな、文句あんのか」
 不服そうな響子を、ダダは不機嫌そうに諭す。
「悪いけどな、今回の評判見て、次も出すか決めるから。そん時は文句なしオリジナルで行こ。華々しく見えても、売れて何ぼが芸能界の掟や」
 ふう、そっか。言われてみれば、確かにそうかもね。何処の世界だって決して甘くなんかない、まして無名のわたしなぞ。改めてふんどしを締め直す響子だった。
 そして遂に念願のデビュー。シングルレコードを発売し、手始めに月曜日夜十時の人気TV歌謡番組『マンデーヒットパレード』に出演。そこで『夏の思い出』をアカペラで熱唱し、衝撃的というよりはどちらかと言うと地味なデビューを飾る。しかもオリジナルの『夏の思い出』ファンからTV局に苦情が殺到するという、前途多難な船出となった。
 しかしレッスンの甲斐あって確かに歌はプロと呼べるレベルに達していたし、何よりもTVカメラを通してお茶の間に届けられた響子の顔は、以前の彼女を知る者からしたら、整形したのではと疑いたくなる程のいい女に見事変貌を遂げていた。無論整形などしてはいない。生まれて此の方まともに化粧もしたことのない女が、行き成りプロのスタイリストの魔法にかかり、あれよあれよという間にだいへんしーんと相成っただけのことである。
 当の本人が鏡の中の自分に先ず目を疑い、それからうっとり、うっふんわたし綺麗、の世界にどっぷりと浸かる有様。その造られた美貌と生来引き摺って来た辛酸による翳りの表情とが相乗効果を成して、おっ、ええ女やな。と男共の劣情を煽ること煽ること。忽ちおやじキラーの異名を頂戴する。合わせてレコードの売り上げも伸びてゆく。

 順調なのも、しかしここまで。今やちょっとした話題の新人歌手亜辺マリアに、魔の手が忍び寄るのである。
 灯台下暗し、我がプロダクションにあんなええ女じゃない有望な新人がいたとは迂闊だった。そう嘆くのは誰あろう、我らがMr口谷、その人に他ならない。こいつと来たら、女癖の悪さは天下一品。気に入った女はどんな手を使ってでも、てめえのものにしなければ気が収まらないという曲者。相手が自分とこの新人と来れば、尚更のこと。
 早速ダダに指示して、Mr口谷は亜辺マリアこと響子を社長室に呼び付ける。Mr口谷の素行を知るダダにしてみれば、折角ここまで手塩に掛けたタレントを手込めにされるのは忍びない。しかし上司の命令とあっては、黙認するしかなかった。
 響子を連れて来たダダが社長室からさっさと姿を消すや、Mr口谷は何も知らない響子に行き成り襲い掛かる。こいつ、もはや野獣。
「いいから大人しく俺の女になれ」
 吃驚した響子は、しかし激しく抵抗する。
「止めて下さい、社長さん」
 Mr口谷は激怒。
「こら、てめ、新人の分際でこの俺様に盾突くつもりか。だったら次のシングル出してやんねえぞ、いいのか」
 それでもやっぱり拒絶する響子。
「絶対、いやです」
 響子は小鳥のように怯えながら、懸命に部屋中を逃げ回る。しかし相手は巨漢のMr口谷。響子の肩をつかまえ、無理矢理響子の唇を奪わんとする。
「悪いこた言わね。大人しくしてりゃ、幾らでも売れっ子にしてやるから」
「止めて。いやだったら、この下衆野郎」
 ピシャーーッ。響子の平手が思いっ切り、Mr口谷の顔面を引っ叩く。今迄どんな大女優も売れっ子アイドルもものにして来た、Mr口谷のプライドはズタズタ。
「いってなあ。この尼、いい気んなりやがって。俺に逆らったらどうなるか、覚悟は出来てんだろうな」
 覚悟。さーっと血の気が引く響子。
「どういう意味ですか」
 怯えた小鳥、悲しいかなその声は震えていた。
「てめなんざ、この芸能界で生きていけなくしてやるってことだよ。あーあ勿体ねえ、亜辺マリアも一巻の終わりだな」
 嘘っ、折角ここまで来たのに。響子の脳裏にさーっと稲藤会の奥さんの顔が浮かぶ。ごめんなさい、奥さん。期待を裏切っちゃって。続けて生まれ故郷の田園風景が、浮かんで消えた。あーあ、もうお仕舞いね。やっぱりわたしは一生、不幸のどん底から脱け出すことは出来ないんだわ。
「やれるもんなら、やってみなさいよ」
 強がりで捨て台詞を吐くと、泣く泣く響子は社長室を飛び出した。
 Mr口谷の言葉通り、これにて、あなたを歌で泣かせます、実力派アイドル、亜辺マリアの、短過ぎる芸能界生活はピリオドが打たれた。響子の夢は、あえ無く終焉を告げた。詰まり突然の引退、お茶の間のみなさん、さよーなら。

 こうしてプロダクションの寮からとっとと追い出された響子がひとり路頭に佇めば、東京の街はまだ肌寒い三月の初め。ふーっ、寒い。娑婆の空気は相変わらず冷えるわね。あーあ、ばからしい、人生なんて、世の中なんて。これでわたしの人生もおっしまい。何処行く宛てもなし、いっそこのまま飢えるか凍えるかして、死んでしまえばいいんだわ、どうせこんなわたしなんか、わたしなんか、どうせ……。そんな響子の肩にひとひらの雪。されどそんな響子の肩に、雪は舞い落ちる。あれ、雪じゃない。名残り雪ってやつかしら、何の名残りなのかしらねえ。その雪の白さ、目映さ、掌に乗せた冷たさにはっとして、我に返る響子だった。
 しかし今更稲藤会のお屋敷には戻れない。気を取り直した響子が先ずしたことは、今迄こつこつと貯めて来た僅かなお金で、安アパートを借りることだった。見付けた物件が、そして若葉荘だったという訳。
 仕事の方も何とかなるもので、何しろ戦後の復興に燃える日本の、ましてや花の首都東京のこと。何処も働き手は喉から手が出る程欲しい。ふと電柱を見れば、そこには求人広告の貼り紙が。何かと見れば、お菓子工場の求人。Mr口谷ショックの為まだとても働く気にはなれなかったが、働かざる者食うべからず、背に腹は変えられない。わたしに出来るかしらと不安を覚えながらも、試しに応募してみた。すると、仕事は慣れれば簡単だよ、真面目に働いてくれるんなら、過去は問わない、是非おいで。となった。亜辺マリアだとばれないか心配だったけど、ノーメイクで工場に通ったら、誰にも気付かれずに済んだ。ふーっ、良かった。案外娑婆も捨てたもんじゃないわね。
 これで何とか最低限、生きてく手立ては得た響子。しかし心はまだ、アイドル時代を引き摺ったまま。亜辺マリア、『夏の思い出』、眩しいスポットライト、拍手喝采、そして襲い掛かるMr口谷の幻影……。
 とまあ、これが今日までの響子の半生である。

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