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掌編小説 | 出獄

 はじめて夫に触れたのは、彼の心臓が動きを止めて、およそ、三時間ほどが経ったころだ。
 いつでもガラス越しに、眺め、言葉を交わしていた夫の口もとは緩み、やさしく微笑んでいる。顔に触れてみれば、思いのほか柔らかかった。細い腕は、その印象よりもずっと逞しく、手首から肩にかけて何度か擦っていると、やはり、このひとに抱かれてみたかったという切ない思いが溢れて、涙がこぼれた。
 このひとは長い間洗脳されていた。この世とは別の世界で、本当の幸せを手にするために、この世での幸福のすべてを捨てたひと。いや、この世で苦しみを背負うことこそ、幸せと感じていたのかもしれないし、そもそも幸せについてなど、考えたこともないのかもしれない。わたしは永遠に知らない。頭を開いて脳汁を吸い尽くしたら、このひとの気持ちがわかるだろうか。
 手を握り、まだ温かい夫の腿に触れ、柔らかい股間にも触れた。からだの隅々、細部まで力を失って、彼はとても穏やかに見えた。
 まだ人間の姿を残した夫を目で追いながら、わたしのこころは暗闇の中にあって、なんの欲も湧かない。いまにもどこかへ飛んでいきそうなほど、わたしという容れ物は空っぽになった。簡単に自分を消すことができれば、いつでも彼と同じ世界にいくことができるのに。だけどこのひとがいる世界とはいったい、どこなのだろう。

 目覚めても
    いまだ
    薄暗い
    部屋の中だった。

    体を起こした。夫がまだここにいることを確認しようと、棺を覗き込む。昨日とは少し印象が変わっていた。なにが違うのだろう。顔色が悪い。微笑みも消えていて、こころも失っているようだ。生きたからだを失い、こころさえないのか。
 わたしは昨日と同じように夫の頰に触れた。冷たかった。腕に触れた。持ち上げると、重く、冷たい。まるで死人だ。このひとは死んだのか。
 わたしのこころの暗闇から、黒い汁が溢れでた。夫の腿をつねり、股間を叩いた。

 起きてよ。起きて。
 どこへいったの。一人。








[完]


#掌編小説
#itioshi

三羽さんの企画に参加します。
自薦の「物語」(イチオシ)を、ということでしたが、過去作から探すより新作を書きたい気持ちになりました。久々に小説を投稿します。

三羽さん、よろしくおねがいします。

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