エッセイ | 書くことは効率が良い
「書くことが好き」って、あまり言ったことがない。
小説を書くのは大好き。日記は好きじゃない。エッセイも好きじゃない。手紙は好き。
こうしてみると、私は〝書く〟という行為が好き、と堂々と言うには少し弱い。
だけど、「書くこと」は私にとって効率がいい。たぶん、私の脳と手は直結している。脳と手は同じ意思をもって、同時に動いてる気がする。ところが、それが口に変わるとまったく機能しない。口と脳は別々のことを考えていて、同じ景色を見ていない。
だから、私が頭で思っている、あるいは見ている景色を、私の指は正確に表すことができるのに、口ではさっぱり、表現できない。
例えば、出先に家族から電話がかかってきて、「胃薬はどこにある?」と聞かれたら、口頭ではうまく伝えられない。
「あそこ、あれ、なんだっけ。えっと、あの、変な黒い棚の、えーっと」
みたいな感じになる。
だけど、この質問を文字のメッセージで訊かれれば高速でこう打ち返す。
「リビングにある焦げ茶色のキャビネット二段目のスライド棚を開けて、右側にある白い箱の一番奥に、瓶に入った錠剤の太◯胃散があるよ」
中学生の頃、妹と同じ部屋で寝起きしていた。
整理整頓を出来ない妹と同室なのはストレスだった。さらに、妹が嫌がらせに、私を眠らせないよう不快な音を出し続けることもかなり精神的にきた。
ある日、私はついにキレた。
妹にではなく、母親に。そして書いた。
抗議の手紙を書いて母親の顔面に投げつけてやった。
口で罵倒出来ず、文字で暴言を吐いた。溜まった鬱憤を紙の上に書きなぐった。
それから5日間だけ口をきかなかった。
後にも先にも、私の反抗期はその一度だけだ。
おそらく、母親はあの5日間が反抗期だとは思っていないだろうし、記憶にも残っていないだろう。何せ紙の上にいくら書き殴ろうとも、とても静かなのだ。読み飛ばすことだってできる。姉の反抗期の時のようにドッタンバッタンしないのだ。
だけど当然、私自身はよく覚えている。人を無視し続けることは体力がいるし、とにかく効率が悪い。飽きやすい私は、たった5日で反抗することに飽きたのだ。
高校生になると、私は仲の良い女友達と毎日手紙を交換した。
同じクラスで席が前後だったときも、朝学校へ着くと、その友人はカバンから巻物のような手紙を取り出し、渡してきた。
毛筆用の紙に、筆ペンで縦書きに書かれた手紙を受け取って読むのは恥ずかしかった。だけど楽しかった。
私たちは書いた。書いて書いて、書いた。
ある日その友人が、バイトの先輩に言い寄られて困っていると相談してきた。
友人は、直接会って話すのは嫌だから手紙で断りたいが、上手く書けないと言った。
毎日私に手紙を書いているのに、その人への気持ちは上手く書けないのだと言う。
そこで私は友人のために書いた。
友人の想いを自分の事のように感じとって書いた。
友人は私が書いた手紙を清書して提出した。
結果は合格だった。
友人はとても喜んだ。
その友人とは今でも繋がっていて、近々会うことになっている。
私はここのところ、少し書きすぎているかもしれない。そのせいで、積極的に人と話をしないせいか、最近では声帯の衰えが著しく、上手く声が出ない。元々通る声ではないのに、より一層自分の声に自信を無くして、ますます話すことに恐れを抱いている。
そんな悩みを、専門学校のボーカル科を卒業した友人に打ち明けると、友人は声の出し方についてアドバイスをくれた。
せっかくいただいたアドバイスなのでやってはみたものの、全然上手く出来ない。
演歌などほとんど歌ったことがない。
前歯の裏に息を当てながら話すと「す」としか音が出ない。
こんな方法で発声している人が世の中にいることが驚き、というか怖い。
これができる人はきっと脳と口が直結している。私とは違う。
「書くこと」について書いていたら、ますます話すことが怖くなってしまった。
そうかと言って、話すことを放棄しない。だから、ここにはどんな結論もない。ただつらつらと書いただけなのだ。
書くことはなにも特別なことではない。
その反対に、口で上手に気持ちを伝えられることだけがすごいわけでもない。
口で伝えず書いて伝えることは、責められるほど卑怯なことでもないし、賢くもない。
ただ、その人にとって手が優位か口が優位か、それだけのことかなという感じ。
だけど、面倒でなければ手も口も使った方が、より良いと思う。なんだか卑猥な締めとなった。
なんのはなしですか。
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