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「私は私の”これ”にノーネームを希望します。」

カテゴライズは可視化に優れる一方、アイデンティティを限定的にする。

***

ややこしいものはグラフにでもまとめちゃおう。
そのほうが誰にでもわかりやすく伝わるし。

カテゴライズ、つまり仕分け。
設定条件のもとでの仕分け。
果物の中から品種ごとにカテゴライズ。
りんごはこの赤い箱、みかんはその黄色の箱、ブドウは青い箱。

最初は3種類ごちゃごちゃだった大きな箱は空に、その代わりに一回り小さい箱に品種ごとに分類された。これで果物の素人でも一目でりんごを確実に買うことができる。

これがカテゴライズ。
カテゴライズされた果物は一目でどれがどれかわかる。
ラベリングともいう。

君はりんご、ね。
あなたはみかん、ね。
あなたはブドウだね、ね。

ラベリングは対象物にアイデンティティーを付与する。

あなたは同性の男性が好きなのね、はい、ゲイ。
君は両性が対象なのね、はい、バイセクシャル。

いささか乱暴ではあるがこういうことは現実で起こっている。
是非は問わない。

***

私をカテゴライズするなら「リスセクシャル」だそうだ。

他者からの愛を拒絶する。
病的に拒絶する。身体症状が悪くなる。
これはなんのきっかけもない。

先天的なものだと推測している。
小学校に上がった頃から親戚の集まりで僕は嘔吐するようになった。他人の存在、さらに他人が自分と同じ感情を持つ生き物だと認識し始めてからまだ数年の頃だ。

僕は決まってホームビデオを親族一同で見るときにはいてしまった。
感極まるシーン、つまり愛が溢れるシーンで僕はもれつな吐き気寒気を覚える。親は病院に連れて行ったが異常はもちろんなし。

僕が”それ”を強く実感したのは中学二年で初めて彼女ができた時。

あれだけ焦がれて、好きで好きで仕方がなかったのに両思いになった瞬間、一気に血の気が引いた。彼女が私の口に口を近づける。キスをする。キスの直後に「好きだよ」と愛らしい顔で囁いた。僕は血の気が引いて、一刻も早くその場から逃げ出さねばならないと本能がそう叫んだ。

そして同じことを相手が変わっても何度もやった。

僕は悩んだ。
僕はおかしいのだろうか。
なぜあんなにも好きで好きで仕方がなかったのに、こうなってしまうのか。

病気なのだろうか。

僕はネットで調べることにした。

「両思い 気持ち悪い」
「愛情 嫌悪」
「付き合った瞬間 冷める」

どこにも似たようなことが書いてあった。
過去にトラウマがあるのだとか、自分に自信がないのだとか、まとめるとその2つがぶっちぎりだった。

同じようなサイトや回答を30個くらいみたところでやめた。

どうやら僕は「リスロマンティック」「リスセクシャル」というやつに分類されるらしい。

僕は名前があることに安堵と同時に心の奥底にしこりのようなものを確認した。何かが引っ掛かる。

僕=リスセクシャル

これは僕のアイデンティティに追加される。
追加されるが、逆に窮屈にも感じた。

僕はリスセクシャルだから・・・なんだ?
そうラベリングする自分にモヤモヤとした。

名前があることによる安心感は、確実にある。
これはいいことであると思う。心の拠り所になるだろう。

その一方でどこか苦しさもある。
表裏一体なのかもしれない。

なんというか、ラベリングやカテゴライズは内的に留めておかないといけない。他者からのラベリング・カテゴライズは自分のアイデンティティを限定的にする危険性があると思うのだ。

だから、名付け、に躍起になったり大々的に出すよりも内面に留めておくのがいいのかもしれない。

外にはノーネームがいいのかもしれない。

ジェンダーやセクシャリティというのはとても繊細な一方でとても曖昧なものだから、無理に型枠に押し込まずに野放しにする方がかえって楽なのかもしれない。

fin

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