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グシの頭痛のタネ / 20240709tue(2674字)


一 グシの頭痛のタネ 

 重油の匂いに溢れかえった浜に黒い波が寄せては返す。カモメの代わりにカラスが群れている。陽光が虚無を放っている。風が踊り狂っている。辺りには人っ子ひとりいない。いや、誰かがいる。娘だ。そうではない、少女だ。穢れた砂の上に横たわっている。全裸だ。おれはひざをつく。まじまじと顔をのぞき込む。知らず知らずくちびるに迫っている自分に気づく。気配を察した少女は肩を小刻みに震わせる。「寒いか」と訊く。相手は黙って頷く。上着を掛けてやる。しばしの沈黙が重苦しい。目のやり場に困る。水面の黒光りがなぜか胸に迫る。おれと少女は光に包まれて消える。
 いや、消えてなどいなかった。あれは、うばわれたおれの記憶なのだ。少女は、そこに、ぶるぶると立っていた……そのはずだ。おれは絶対目撃した。風にしてやられた。ちがう。おれはいったいなにを言っている? 記憶から少女が消える前までのおれは正常だった。いや、それもちがう! なんてことだ! おれは二本しかない腕で、たったひとつの頭をかかえ込む。寄せ来る重油の波に圧倒されつつ、髪の毛を異臭に髪の毛を馴染ませるように掻きむしった。吐瀉が始まる。昨日食べた胃袋の中身がどっとまき散らされる。荒ぶる声がカラスを怯えさせる。海上に激しく渦巻く風が、いま現在をかき混ぜる。大気の乱れが、おれの脳みそを混乱させる。火かき棒で地獄の釜を混ぜる鬼の姿が目に浮かぶ。見えない何かがおれの何かをねこそぎ略奪していった。少女にまつわる記憶を、ヤツが丸ごと奪い取ったのだ。不吉な炎が、ぼっと燃え上がる。なにかが、静かに湧きあがる。あの風だけは許せない。少女を忘れることができない。おれは風をはったと睨(にら)みつけ、深々ととうなずく。浜を埋めた重油の黒い膜に、ずぶり、足をそっとふみいれた。
 油膜にひびが入った。黒く燃える海に、心の半分は奪われた…… そんな気がする。得体の知れない何者かに背中を押されたような感覚に包まれる。ふりむく。途端に海を威嚇する鴉が目に飛び込む。同時に海面が燃え上がる。黒雲が総毛立ち、波はさかまき、雷鳴は断末魔をあげる。ほどなくして辺りはしんと静まりかえり、涼風に包み込まれる。されど、広がった焱はケタケタと嗤っている。おれはまるで狐に取り憑かれたよう。戦慄と恐怖の板挟み。炎の旋風がそこかしこに発生する。その勢いに巻き込まれた精神性が空高く舞い上がり、肉体までもが持って行かれそうになった。海面に、虚無を放つ太陽の光が反射するのが見える。あの弓なりは現実に絶望する己のシルエットだ。暴風は獰猛(どうもう)な雄叫びをあげて海上を恫喝し、驚いた水面に腰を強かに打つ。それでもおれは立ち上がる。慄き笑う足に、激を飛ばす。急駛(きゅうし)する。
視界の片隅に少女が飛び込んでくる。口メガホンで冀求(ききゅう)を試みる。
「そこはだめ。いまは行くべきじゃない」
「なんだって? 」
「ふりむかないで! 」
 瑞風が背後から忍び寄ってきて少女をのみこんだ。少女は瑞風にうっとりと憑かれ、触ると灰になって崩れた。
 ざざっ。
 目の前に晴れた海が広がる。いまなにを見ていたのだ? 躯のなかで《何か》が叫んでいる。滾(たぎ)る脈動。血が沸騰している。水平線を見据える。
 いた。ヤツだ。風だ。

風 風
 風  風
  風  風 
    風  風                    風
      風  風
        風 風風                風
         風 風               風
            風風風          風風
           風風 風風風      風風風
            風 風 風風   風風風風
             風風風風 風風風 風風風風
              風風風風風風風風 風風風
             風 風風 風風風 風風風
           風風 風 風風風 風風風風
         風風風 風 風 風風 風風風
       風風風 風風風風   風風風
     風風風風 風風風    風風風
  風風 風 風風風風風     風風風
風風風 風 風風            風
風風 風風 風
風風風

「おい、手はやすめるな。グシ。さっきからなにを考えてんだ? 」
 辰はヘッドフォンを外して言った。グシは辰の耳をみて、息をのんだ。知っていたことだが辰の両耳は削がれていて耳たぶはなかった。音が漏れ聞こえる。
「へい、すみません」
 大男のグシは二畳ほどの風呂場で辰と死体を解体していた。
 グシは血まみれの手で額の汗を拭う。風呂場は蒸していて、息苦しい。辰は解体作業にもどった。
電鋸を使う予定だったが、上の応接間で銀次さんが客を迎えるという話だったので糸鋸で解体していた。
「今日は変だぞ。ぼんやりしすぎだぞ。手を動かすんだ」
「へい」
「グシ。顔色がわるいぞ」
「へい」
「記憶が薄れてきたのか」
「どうやらそのようで」
 辰は手を止めずに首を傾げた。ああ、そういえばおれにも、そんな時期があった。辰は独りごちた。
「まかないを食い始めてどれくらいになる? 」
「もう、二、三年ですかい」
「じぶんの名は忘れちまったか」
「へい。じぶんの名前は、すっかり。もうわからないです」
「みんなそうだ。おれも生まれた名前は知らない。おれはタツヨシだ」
「へい。知ってます。タツさんはタツさんです」
「女の死体の解体はいやか? 」
「いえ。大丈夫です」
「その女はおれがやる。この男にかわれ」
「へい」
 グシは鮮血のついた手で額をぬぐって、女のふくらはぎを掴んだ。それをポリバケツに入れた。
 辰は、ヘッドフォンを被り直して口ずさんむ。
「インダ、ヒイイイト、オブダ、ナアアアアアア〜イト! 」
 グシに笑みが溢れる。辰はグシの肩を叩いた。
「早く片付けちまおうぜ」
 戸が開く。
 浴室の湯気のなかに侏儒のように小さい小男が現れた。
「おう。タケ。どうしたい? 」
 辰は顔をあげた。
「第三にもどってください」
「なんでだ? ヒトは足りてるはずだ。シフトはおれが作ってんだ」
「チンコロがいるそうなんです」
 辰は首を鳴らした。
 グシは黙って胸部から頭と腕を切り離してポリバケツに放った。また眉間に皺を寄せて目を瞑った。
「グシ。すこし働きすぎだ。今日は休んでいいぞ」
「大丈夫です」
 男たちは風呂場を片付けて車に乗り込んで作業所に向かった。


短歌:

先生に
叱られ、怒り
書きあげて
これこれなりに
本稿に足そ

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