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優れたフィクションの力 / 20240717wed(1619字)

下記のエッセイは批判しない。
読んで、思ったことを書く。
つまりこれもエッセイだ。

二十五年前。先輩が主宰する劇団公演の打ち上げで。
「古代ギリシャ悲劇やシェイクスピアとかでドラマや名台詞って語られちゃっているんじゃないですか? もしそうだとしたら、いまのぼくらになにか語れることってあるんですか? 」
ぼくは、日頃思っていた微かな疑問を言ってみた。
飲みの場はシーンとなった。
主宰で演出家Aが、ぼくを嗜(たしな)める。
「蒼井。それをどこで知ったんだ」
「最近ぼくが頭でつねづね思っていたことです」
「それは1980年代の日本の文芸雑誌の世界で大流行した言葉だ。物語は語り尽くされた
「はい」
ぼくは、ぽかん。とした顔をしていた。
「いまの現代には新たな語るべきテーマはない。だから物語はなにを語るかじゃない。物語はどのように語られるかってことだ」
なるほど。つまりこれは簡単に言えば、「勧善懲悪」で「水戸黄門」「大岡越前」「銭形平次」で原作と脚本と役者を変えることだ。
これが今回のマクラ。


で、上のエッセイ「記憶は曖昧だ」を読んだ。

注意書きだが、上記の記事の筆者は悪くはない。
彼女は、彼女流に「どう語るか」で記事をかいている。だからなにも問題はない。問題はぼくにある。

これはカズオイシグロの十八番だ。
「記憶はつねに美しく捏造される」
かれはこのテーマで作品を書き続けてノーベル文学賞を取った。

ここでぼくの個人的な意見だ。
ぼくは、先人の金言などをエッセイなどで「いまわたしがこれを思いついたんですよ」みたいに、軽々しくは書けない。ぼくがこう思う。このテーマをぼくがどう書いたところで「そのテーマはすでに語られ尽くされているんだよ」となる。
「ああ、それね」
と。

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エッセイはわかりやすい。
テーマがスイカなら割って見せたらそれで終わりだ。
思うことを丸出しにしてそれを読者に見せればいい。

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小説の話をする。

だから小説家(に限らず、戯曲家・音楽家・彫刻家・画家・映画・マンガなどその他の表現者)は「じぶんなりの、どのようなシチュエーション(文体・手法)を創りだせばいいのか? 」に心を砕く。

「記憶はつねに美しく捏造される」

この言葉は物語ではそのままの形では使うと野暮だ。ぼく自身、エンタメを書いているが、下記のシーンでよく使われるのを見る。

その表現(観念)を戦士のキャラに回想させる。王女の独白にする。黒幕の手下のセリフにいれる。牢獄のなかの盗賊の妄想で入れる。市民の暴動のなかで登場する教団の教祖が放つ一言。謁見の間で将軍が陛下(あるいは陛下が将軍)に向かって言う。小説(ハードボイルド、サスペンス、探偵、SF、恋愛、 BL、転生もの)自体のテーマにする。あるいは、小説のワンシーンで読者を一瞬、立ち止まらせるために異化効果で入れる。などなど。

だが、フィクションは曲者だ。秀逸なフィクションは読者の魂とからだが無意識に湧き立たせる、その核心の部分は物語の地下深くに隠されている。

優れたフィクションは決して顕れない宮殿(テーマの核心)を、地下に隠しながら地上には読者が見たこともない巨大都市が建設されていることにある。読者はその迷宮のような巨大都市を実際にじぶんの足で歩いてみて「この街の正体っていったいどうなっているんだろう? 」と読者それぞれが勝手に思う(解釈する)ところだ。

優れた小説のなかに、地下宮殿「記憶はつねに美しく捏造される」なる言葉は存在しない。地下宮殿は、脳の言語で感じる「言の葉」ではなく、魂とからだで触れあう「感覚」だからだ。恋愛やセックス(あるいは麻薬)に夢中になっているあいだは時間と記憶が失われてしまっている現象とおなじように。

優れた小説家は、ただの言葉を使って、ガラス玉をこれはまるで世界を救う光りの玉であるかのように読者に提示する。詐欺師のごとく。

短歌:
ニンゲンは
記憶で生きる
オナニ猿
過去は過去だぜ
明日みて生きろ


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