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求めすぎてはいけない。

文通をしている。PFC(日本ペンフレンドクラブ)だ。

先日、ようやく寒中見舞いをまとめてだした。二十年ぶりの万年筆再デビューだし字は汚いし。でも、パソコンの印字よりはいいと思っている。

ペンパルには小学6の女の子もいる。

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めちゃかわいいのである。

ぼくがやってみた文通の流れである。それで、後でも述べるが、文通ではぼくなりに「掟」をつくって相手に接することにしている。

⑴相手のことは自分から訊ねない(相手が自分のことを語るまで相手の話題には触れない)

⑵自分のこと、とくに悩みはかかない。散歩やアパートのベランダから見た風景、海や川での季節や天気の移り変わり程度にとどめる。

⑶相手が訊けば答える。

これを基本スタンスにしている。

すると、大体最初、

❶互いの「自己紹介」の手紙があって、そうした一連の流れのなか、に当然のように次で、

❷「相手のことを尋ねる」手紙があって

❸、❷で気に入れば、返信する。文通開始。

❸-❶いきなり音信不通(とくに自分から掲示板にノリノリで応募してきた人に多い)というひともいる(なにをイメージしていたのか大きな期待していたのか、こういうひとが割とおおかった)

❸-❷マイペースに長続きするひと。

ぼくは返信100%である。

応募広告は50文字で確かこう書いた気がする。

「トトロのメイが迷子になるような海の見える田舎に一匹の猫と住んでいます。季節の移り変わりなどを徒然に」

「トトロのメイ」「海の見える田舎」「猫」がのキーワードがかなりヒットしたらしく、女性(なぜかぼくと同じ年かそれより上の方)からの応募が殺到して、初期は、返信にまいった。

慣れると、「断りの返信もアリ」なのだと気づいたのだが、ぼくは返事はすべてだした。

文通相手はどんどんと減っていった。

「あなたの字が汚く、わたしには判別できないので、すみませんが」というのもあった。中学生のときは書道二段だったのだが。

すごい、博学で、万年筆の知識を開陳した女性も来なくなった。最初の頃は、空きスペースに絵を描いたり、掌編を封書に入れたりしたら来なくなった。自尊心を崩したか。

結局、淘汰されるように、いまは八名ほどの小六から55歳まで幅広く(みんな女性だけど)文通をしている。

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上記は、以前に、なんだか借りた言葉でぼくの心に響かない。という方からの年賀状。乳がんの手術を三度しているという。

「そんなあなたに私もなりたい」あな「た」と「に」間に「、」を打ったら、レトリックにもなりそうだが。わからないでもない。

文通の関係(お友達)で、こういうこと言われてもなぁ、と思うのである。

さて、マクラが長くなったが、

日本郵便局のペンパルの会員だから、安心だと最初は思ったのだが、やはりどこでもヒヤリとする。

その女性は山梨のかた。それでぼくが上記の「50文字のペンパル掲示板」に載せたら、一番最初に自分の写真をおくってきた。最初の手紙にいきなり「できれば、そちらの顔写真を送ってくれ」という。出会い系と勘違いをしているのか、文通が初めてで勝手がわからないのか(ぼくだってまったくの初心者であったのだが)ぼくは文通とはいったいどんなものなのか? と首を傾げた。

次は、「あなたはいまなにをやっているのか?」「職業は?」

こういうのは彼女だけでなく、よく訊かれる。のだが「文通で、相手の職業は必要だろうか?」とぼくは思ってしまう。ちなみに文通をいまだにつづけている8名(最初は30名くらいいたかもしれない)は、向こうから聞いてこない。逆にいえば、向こうから脱落していった女性らのほとんどが相手の職業を聞いてきた。なぜだろう?

ぼくは仕方なく、いまの状況は(オブラートに包みながら)これこれこうだ。すなわち、ぼくはいまお金にならない文章を書いているのです。と手紙を認めると、その女性は「郵便局に働かないか?ゆうメイトがあるのだが」と仕事の斡旋のようなことを書いてきた。ぼくはちょっと激おこぷんぷん丸になって「まず、写真は返します。気持ち悪いです。ちょと、怖いです。あなた、すでにぼくの現住所抑えてますよね。文通ですよね。これ」というような手紙を出した。年内はすこし、なりを潜めていたようだったが、年始に入って、小包のゆうパックが届く。見ると「帽子、お菓子」と書いてある。受け取り拒否をした。困るのである。

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さらにこれを枕としてタイトル「求めすぎてはいけない」本題だ。

例えば、「オリンピックで金メダルをとる!」「音楽(ダンスでもなんでも)コンクールで優勝をとる!」「小説文藝賞の新人賞をとる!」なんていうのはベクトル(結果)がまったくおなじ方向で「他者を蹴おとしてでも」みたいな熾烈な(ある意味ライバル)関係も成り立つ。むしろ自分の求めている(結果)に貪欲に走りつづけるべき、かもしれない。

だが、相手がいる場合「恋人」「友人」「結婚」「親子」「家族」「サークル」「同僚」「仕事相手」「取引先」「文通」それらの関係って、相手(じぶんが求めている結果)は「じぶん」じゃない。じぶんの埒外にある。

じぶんだってじぶんのことががわからないのに、もっと言えば、じぶんは他者の脳みその扉をコンコン、とノックして開けて「お〜い、いまキミはなに考えてんの?」なんて訊けない。極論をいえば、じぶんだってじぶんに嘘をついていることだってあるのだ。それが人間だ。

以前、ぼくは、ぼくはぼく。だからぼく以外のものは無視しよう。関係ないのだ。ってかいた。ついさっきの記事だ。

これは際どい行為なのだがぼくがいう「じぶんを守るための」「無視」だって、相手へのひとつの無言の「警告」や「戒め」や「圧力」にだってなりうるのだ。「無言」だって一種の「言葉のナイフ」だ。中学のいじめが典型だろう。

人間が他者になにかを要求する。むずかしい行為だ。

かといって、アクションを起こさなければ、ぼくの(あなたの)人生にドラマは生まれない。物語はなにも進まない。二律背反か。笑。


卵が先か、鶏が先か、いや、アクションがなければ卵は生まれない。

(いま、思いついた、ぼくの迷言)

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