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文章講座⑴ 会話とト書きの順序



2556文字・30min

《三歳の、捏造されるトラウマ編》

 下記は、ぼくの人生のトラウマであり、原風景だ。

 砂利が敷かれた家の庭の中央で、祖父が祖母を折檻している。五月か六月だった。なぜなら鯉のぼりの柱を立てる石柱が家の庭の中央に祖父は立っていたからだ。その石柱にうすい襦袢のような白い着物を着た祖母は縄で縛られていた。衣服の上半身は開(はだ)けて白い肌に赤い血の筋がみみず腫(ば)れになって見える。

「ぎゃー! 」
「まだわがんねぇが! 」
「ぎゃー! 」

 ぼくと曽祖父は家の柱の影からそれを目撃している。玄関から土間に入った左手のゴザがしかれた八畳間に、ぼくと曽祖父は立って祖父の折檻をみていた。三歳のぼくの真後ろに背の高い曽祖父は猫背気味になって屈(かが)んで立つ。曽祖父の骨ばった十本の指は、おさないぼくの頭部を鳥籠のようにかこむ。ぼくは曽祖父のふるえる十指のすきまから、祖父の折檻を目撃していた。土間をはさんだ壁に、梯子をかけて登る二階があってそこは養蚕棚になっている。実家の地方は古くは養蚕業がさかんだった。二階から蚕の青臭いにおいが階下に降りてくる。ぼくは蚕がきらいだった。養蚕棚にしかれた桑(くわ)の葉に、うじゃうじゃと蚕が這(は)っている状態は見ていて気持ち悪かった。繭(まゆ)になったのを釜で茶色の煮汁のように煮る作業とかは実際に見たことはなかったが、想像するだけで、背筋に鳥肌がたった。実家にはなかったが、祖父が「おれの弟よ」と仲良くする裏の家の利雄さんの家の居間には小渕恵三の直筆の「豊繭」の色紙がかざってあった。

「ぎゃー! 」
 祖父は竹刀をにぎって、空にふりあげる。
「まだわがんねぇが! この! 」
 祖父は竹刀を祖母の肩口に向かって容赦なくふりさげる。
「ぎゃー! 」

 ぼくの家の庭に敷かれた石は尖(とが)った小石ばかりだった。前の家とへだてる塀(へい)の内側には昔は豚舎があった気がする。だが、ぼくには実家で豚を飼育していた記憶はない。バラックになって祖父はオート三輪に乗って家に入ってきた記憶があるが、それもぼくの記憶の捏造かもしれない。あらためてネットで調べてみると、オート三輪は1960年代には終焉期を迎えている。田舎では耕運機として見かける程度だったようだ。

 小さい頃は尖(とが)った砂利が敷かれた家の庭をよく駆けてまわった。ころぶと、柔らかな肉で包まれた膝頭はやぶれて、真っ赤な血があふれでる。幼いころのぼくは血を見るのがこわかった。鼻を近づけると血は鉄の臭いがした。舐めると甘い鉄の味がした。

 いつしかぼくは家の庭に敷かれた尖った砂利のうえを走らなくなった。その頃になると、妹は母の車でエレクトーンに通いはじめた。だが妹はエレクトーン教室には通わなくなった。ぼくは母の車のなかで妹がエレクトーン教室を終えるのを待った。エレクトーン教室はぼくの家からすぐ近くの場所にあった。だが母は路地に車を止めてその中で妹がエレクトーン教室を終えるのを待った。いま思い返せば、ぼくひとりで家に歩いて帰ろうと思えば帰れたとおもう。だが幼いぼくは自分の足で家に帰ることは思いつかなかった。与えられた環境の外に、自分の足でとびでる想像力はその時のぼくにはなかった。

 それから家の庭では、ぼくはひとりで青色のトタン屋根の上にむけてゴムボールを抛(ほう)って、あそんだ。庭で遊んでいると、祖母のさけび声が聴こえてくる。
「ぎゃー、ぎゃー」
 と祖母はさけぶ。
「見るでねぇど」
 ぼくの真後ろで曽祖父がぼくの目に指をかぶせる。
「まだわがんねぇが! 」
 祖父は祖母に竹刀をふりおろす。
「ぎゃー」
 祖母はまた大きな声で泣きさけぶ。
 いまでもぼくの記憶のなかで祖父は竹刀をにぎって、祖母の肩口に向けてそれを容赦なくふりおろす。その悪夢のような記憶は、いくどもぼくの頭のなかでリフレインされた。折檻、いまでいう虐待行為は、ぼくの記憶でくりかえされるうちに、ふとぼくはあることに気づく。
「ぎゃー! 」
「まだわがんねぇが! 」
「ぎゃー! 」
「まだわがんねぇが! この! 」
「ぎゃー! 」
 祖母は「ぎゃー! 」とさけぶそのさけびによって祖父から竹刀でなぐられる身体の構え(準備)をしているのではないか。祖父は「まだわがんねぇが! 」となぐる前にいうことによって祖母に『いいか、これからおまえをなぐるんだぞ、だから身体を構えるんだ』と言っているように聴こえる。
「まだわがんねぇが! この! 」
 祖母は、ぐっと身体を硬くして折檻をこらえようと身を固くする。それから、
「ぎゃー!」
 と祖母はさけぶ。あのときの折檻は、祖父と祖母は、たがいに、ある種の演技をしていたのでは? と最近になってぼくは思うようになった。文章を書き始めて、物事の起こる順序がわかるようになったからだ。
動物は痛めつけられたあとに、うめき声がでる。たとえば、人間は暗闇などで特殊部隊や暗殺者におそわれた場合「ぎゃー」などという大きなうめき声は「先には」でない。野生動物の狩りもおなじだ。それと、話が関係ないようで今回と深く結びついている、文芸の会話の順序だ。

 花子は隆史の肩をたたいた。
「タカシ、おはよう」
 隆史はふりむいた。花子だった。

現実の世界で、この文章(の順序での現象)はありえない。(もちろんこのようなスタイルで小説やエッセイを書く作家はたしかに大勢いるが)文章の基本は「タカシ、おはよう」のセリフ(事象)があってト書き(行為の結果)書かれるべきだ。この文章では、読者は隆史がだれかに肩をたたかれる前に「隆史は花子に肩をたたかれるのをすでに知っている」ことになる。花子が主人公でも隆史が主人公でも別のだれかが主人公でも、矛盾が生じる文章だ。

「タカシおはよう」
 と花子は隆史にあいさつをした。
 隆史はふりむいた。花子だった。

 どの小説(とくにエンタメ、大衆文学)も基本はこのようにな順番で書かれている。純文学は別だ。純文学は、絵画でいう印象主義やゴッホやムンクの表現主義、ピカソなどのキュビズムなどのように、いままで書かれてきた既存の日本語を破壊する役割をもつ。


 43年前の記憶。いまでは怪しい。まるで刑事も探偵も犯人もいない解決もないサスペンス小説のように曖昧になっている。




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