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固有のファンタジーを生きる ―「わたし」と「わたしを超えるもの」とのつながり― / 河合隼雄さん 語録②

前回の記事に続き、ファンタジーについて書いていきたいと思います。

人は、自分の人生の物語をつくりながら生きていますね。
現実の生活で起こる大小の出来事を、これまで構築してきた認知・信念体系と整合性を取りながら組み込んでいき、意識的にも無意識的にも、取捨選択と、何らかの意味付けを行っています。日々、人生脚本をつくり続けている。

河合隼雄さんは著書や講演で「ファンタジーをもつこと」「ファンタジーを生きる」など、現代における「ファンタジー」の重要性をいわれています。

なぜ「ファンタジー」に着目されたのでしょうか?

ファンタジーと心理療法

河合さんのいう「ファンタジー」とは、空想、妄想、作り話とは異なります。「ファンタジー」は、現実の逃避ではなく、現実への挑戦として意味づけできるものとし、(逃避場所を与えてくれる)生やさしいもの、とは捉えていません。

すぐれたファンタジー文学は、読者のファンタジーを喚起し、常に何らかの課題をもって読者に挑戦してくる
物語が完結していてもなお、読者に問いかけ、心を動かし続ける力をもっているものです。

ファンタジーとは、それ自身に自律的な力と、リアリティを持っています
それは、その個人が考え出すものではなく、突如として、心の内に自律性をもって湧き出してくる、迫ってくるもの
この時、意識は避けることも圧倒されることもなく無意識と対峙し、その対峙の中で、葛藤し、苦闘する――そこから本人の個性と深いかかわりを持ちつつ、かつ普遍性を持った物語が生み出されてくる。それをファンタジーという、ということ。

河合さんがファンタジーのもつ可能性に着目されたのは、
そのようなファンタジーの働きが、まさに、心理療法の治療におけるクライアントの内に生じる変容のプロセスに非常に似ているからだ、といいます。

自我でコントロールできない無意識からの自律的な働きかけに対して、逃げずに意識的に向き合う努力をし、その葛藤の中で統合し、成長していく過程――それは、クライアントが自身のファンタジーを生み出す場、再構成していく場でもある、といえます。

現実は多層性を持っています。同様に、人の心も多層性を持ち、各層も多様、多面的です。
人がその現実の多層性に目を向ける時、それは「物語る」ことでしか、他者に伝えることはできない、ということ。
つまり、科学の普遍性のような形に還元できないその人の独自の語りとなって表現される、ということでしょう。

この場合、社会規範・基準に合わせた単一の見方から外れた、非合理的で、ありえない物語として表現されるかもしれません。
しかし、その物語が子どもの「透徹した目」を通じて語られるとしたら、大人は何か喚起される、呼び起こされるものを感じ取れるはず。

例えば、「愛する」という行為を、子どもの目では、どう捉えていくのか
現実は多層性をもつ、そして、人の心も、その「愛する」行為にもまた多様な相と次元がある。
その多層性に気づいた時、大人も、自身のファンタジーを喚起されるのではないでしょうか。

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「たましい」とは―「いのち」をもつ人間存在の全体性を捉える

心の専門家とは、「人の心がいかにわからないか」を確信をもって知っている人である、といわれています。
これは、その対象を「よく知っているもの」として既存の枠内に固定してしまうことへの警告でもあるでしょう。

心理的苦悩を抱えた人に対して援助をする。その時、心の働きや仕組みを充分に勉強し理解し、その知識を応用して対処療法的な援助をすることは可能です。
しかし、人間とは、心や身体を含む「いのち」をもった有機的な総合体として存在しています。

心の側面、身体の側面、と割り切って分析しアプローチしても、この「いのち」ある全体的な存在に迫り、的確に把握していくことは非常に難しい。
そこで、心(Mind)と身体(Body)の両者を繋げて、一つの「いのち」ある存在として成立させているものを「たましい(Soul)」として、「たましい」によって人間存在の全体性を把握しよう、としました。

心が病む状態といっても、心(Mind)の領域だけでは捉えきれない、説明できない、ということでしょう。

クライアントが妄想と受け取れる話をして、周囲から見放されている状態でも、河合さんは、この「たましい」の存在に対する確信が支えとなり、クライアントの話に耳を傾け、真摯に向き合い続ける。
すると、「思いがけない展開」が生じてくる。それは、本人の「たましい」の働きによるものとしか考えられない、という。
心理療法家は、クライアント自身の「たましい」の働きを最大限にするような場を提供する者である、ともいわれています。

意識は、「たましい」そのものを捉えることはできないが、常に「たましい」は働いている。意識がその働きを把握して表現するには、ファンタジーという形が最も適した手段と考える。
また、「たましい」は、その人固有のファンタジーをつくりだすことが重要な働きであり、常にファンタジーを心の中に送り込んできている、ということです。
そう、心が揺れるところ、それは「たましい」の呼びかけが働いている証拠でもあります。

妄想なのか、ファンタジーなのか――
クライアントの話の中に「たましい」の働きを直観できるかは、心理療法家の器量にかかっているのでしょう。

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死生観―「わたし」と「わたしを超えるもの」

河合さんが「たましい」や「ファンタジー」を用いられたのは、自分なりの「死生観」「宗教観」を持つことの大切さも伝えたかったのではないか、と思います。

生と死は表裏一体。自分の「死」について考えることは、結局、自分の「生」について考えることです。
また、愛する人たちとの「死別」という、深い喪失体験に直面した時に、
わたしたちは、死者たちとのつながりを求め、いずれ自分も死を体験して、死者たちの世界でめぐり逢えるのではないのか、というファンタジーが湧き出ても、すぐに非科学的と否定することができるでしょうか。

人が自分の人生を生きる上では、科学的知識だけでは不十分です。
例えば、人生で遭遇した不慮の出来事に対する「なぜ、わたしなのか」というきわめて個別的な問いに、科学の普遍性では納得できず、意味づけできなません。このような個別的な問いに対しては、宗教の領域自分にとって意味ある知恵を含んでいるものを示唆してくれる、といいます。

宗教は「個人」のものであり、「自分とのかかわり」において、自分の存在の起源、死生観、人生観を示し、人に精神の安定をもたらします。
ただ、現代では、特定の宗教を信仰しないとしても、あくまでも個人の「宗教性」を深めることが重要だ、といわれています。

わたしは特定の宗教には所属していませんが、ここが一番重要と感じました。
「わたし」と「わたしを超えるもの」とのつながり。
「個人」とその「個人を超えるもの」――死者、先祖、宇宙・森羅万象のシステムとの関係について、思索し、体験し、深めていくこと
非科学的な領域ですが、矛盾を内包する「いのち」を持つ人間が生きる上では重要ではないでしょうか。

ファンタジーをつくるにしても、このような「死生観」が含まれたものであることがとても大切だと思います。

そして、「わたしを超えるもの」とつながるには、まず「わたし」という基盤が必要ではないでしょうか。
この「わたし」を強く意識する契機となるのは、この「個別的な問い」が生起する時ではないかと思います。

こうした問いの生起については、わたしは自分の思春期危機の経験から、とてもよくわかりますね。
高校時代は烈しい内的苦闘の時期で、体重は35㎏未満に激減。家族問題という絶望的な障壁に、未来の道が見えずに、頭の中は悶々とした問いのみ。

この先、わたしがどれほど必死で努力しても、決して手に入れられないものを、(同級生の)友人はもっている――それも生まれながらにして、努力なしに!
なぜ、わたしは生まれてきたのか。なぜ、この苦痛を背負うのか。
いったい、わたしが何をしたというのだろう――そして、わたしは何をすればいいのか!

確かに、このような多感期のきわめて個別で自己中心的な問いは、科学の普遍性や、一般的な訓戒や格言はあまり慰めにはならないでしょうねー

自分の経験を通じて感じたことは、個人の宿命的、先天的資質や環境的要因に対して、その心の内で葛藤・苦闘する中から生まれ出てくるもの、それがファンタジーということになるのでしょう。自分独自の物語。

ファンタジーの生成が、無意識と対峙しようとする「意識的な努力」が必要であるのは納得です。そう生やさしいものではない。

個人の本来の資質というのは原石であり、人生で遭遇する出来事によって、さまざまに磨かれる(=葛藤・苦闘する)ことによって輝きを放つことができる、「人は人によって磨かれる」ということですね。
本来の資質・本質も大切、それを磨くことも大切。

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これまでの人生で特に問題なく過ごされた方には、宗教性と言われてもピンとこないかもしれませんね。
河合さんは、既成の宗教と区別するため「宗教性」と呼ぶ、としています。
宗教性とは、あくまでも「個人」の発心が根本ですので、自分なりの思想、哲学を深めていくと捉えてもいいと思います。

河合さんは、宗教性を深める助けとなるものとして「神話」を勧められています。
おそらく、現代思想や哲学だとそのままコピーしてしまうからでしょう。
神話なら、さすがに自分が生きている現代と自分自身を顧みながら、自分で思索していくプロセスを踏みますよね。

これからの時代は、「女性性の時代」といわれます。受容、調和、共存共栄などのキーワードが多くみられるようになりました。
そうした時代の変化は、まずは「個」の変化からと思います。

平和を望むなら、まずは、自分自身の内なる平和を実現すること、ですね。はい。。

ファンタジーを読むこと

河合さん著書「子どもの本を読む」「ファンタジーを読む」「子どもの目からの発想」を読んでみてもわかるように、心理療法家の立場から、ファンタジー文学作品に対する想いを熱く語っておられますね。

そして、著書について、
『この本は作品の書評ではない、きわめて主観的に書いている
わたしの読むとは、ひたすら今読んでいる「この一冊」に全力を入れて読み込む、そこで心に生じたことを書いているのである。

これは、心理療法で、一人のクライアントと向き合う時と全く同じである
相手の主観の世界にできる限り入り込もうとしつつ、そこに溺れてしまわないように、訓練されている。
訓練されているから、相手の主観の世界にギリギリまで入り込む、という危険な仕事ができる』、といわれています。

これも、さすがですね。
わたし自身も憑依体質かといわれるぐらい、本の世界に入り込めるタイプですが、かなり危険です(笑)。自我(意識)の強靭さは必要です。

児童文学のジャンルで、個人的に思い入れの強い作品―というより作家といいますと、ミヒャエル・エンデ、ル=グウィン、梨木香歩さん、です。

作品もすばらしいのですが、この3名の作家のエッセイがとても印象的で、作家自身の生き方が、固有の思想、哲学を生きている、(河合さんのいう)固有のファンタジーを生きている方だ、という印象を受けるのです。

また、別の記事で取り上げていきたいと思います。
ありがとうございました。

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参考資料(河合隼雄)
・「わたしが語り伝えたかったこと」(2014)
・「子どもの本を読む」(1996)
・「<子どもとファンタジー>コレクションⅡ>ファンタジーを読む」(2013)
・「子どもの目からの発想」(2000)
(oracle card)
・「The spirit messages」 John Holland




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