見出し画像

小説を書くこと ―創作行為と毒素ー / 村上春樹さん×河合隼雄さん 対談

わたしは村上春樹さんのファンではない(好きな作家として挙げることはない)にもかかわらず、「羊をめぐる冒険」以降の作品(エッセイは除く)は、大体読んできています。
ファン層以外でも継続して読ませてくれる。これは、すごいこと。

ファンとは違って、彼の作品だから読むという強い思い入れや期待もなく、基本的には、友人か図書館で借りれたら読む、読みたいものがなくなれば読む、程度の関心しか持っていないのですが――

こんな読者にも、他では味わったことのない、不思議な感覚(テイスト)を覚える読書体験をさせてくれるということ。それが単発で終わらず、彼の生み出す作品の持ち味として持続していること。
それは、彼の非凡のユニークな才能――天賦の才能に加えて、独自のオリジナリティを追究し、開拓してきた着実な歩みの結実なのでしょう。

以下の2冊『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』、『職業としての小説家』は、村上春樹さんの小説や小説を書く作業過程に対する考え方、姿勢を窺い知ることができる、また、人にとって「物語」とは何かという掘り下げた内省を促す契機を与える、貴重な本ではないかと感じました。

特に、河合隼雄さんとの対談で、小説家と心理療法家との類似性を語られているところは、非常に心に響くものがありました。

人は生きていく過程で、いろいろな「病い」を経験する。その「病い」の一番根本にあるのは、「生」と対立する「死」である、という。
そうした相対立するものを結びつける力を持ち、「病い」を癒すものとしての「物語」の力を、再認識すると同時に、自分が生きている人生物語について意識的に捉え直す契機となりました。
2冊の内容を中心に、大まかにご紹介したいと思います。

゚*。,。*゚*。,。*゚*。,。*゚

小説家と心理療法家の類似性

わたしたちは、自分の人生を創出しながら生きている。意識的にも無意識的にも、人生脚本を書き、人生の物語を生きています

小説家と心理療法家どちらも、人の物語の創作にかかわるというコミットを持って臨み、こころの浄化作用、自己治癒作用に影響し、寄与しているということ。
そして、その関係性(作家―読者、心理療法家―クライアント)は、双方向に影響し合い、寄与し合っている、ということです。
こうした影響力の程度、その作用点の深さは、その関係性―コミットの強さ、深さによるもの、なのでしょう。

作品や療法を通じた出会い―「関係性」の始まりを契機として、どこまで、自分の内界とのつながりを掘り下げて、強めていくか。
自分の人生を生きる、その成長過程で、自分自身との関係性を問い直し、深化していくことは不可避です。

また、小説の意味とメリットについて言及されています。
情報過多の時代、メディアが発信する情報の総量は、圧倒的に小説を超えている。メディアが自身の機能の一部として、小説の機能をも貪欲に呑み込もうとするように感じられる。

そこで、小説のもつ役割、メリットは、「その対応性の遅さ、情報量の少なさ、手工業的しんどさ(つたない個人的営為)にある」、と言われています。しかし、その「希少性」を保っている限り、小説は力を失うことはない、一過性の情報ではなく、時間が経過しても、何か残っていくもの

そして、河合隼雄さんは、それは心理療法のメリットそのものと言われます。
心理療法家の仕事は、クライアントが「自分独自の物語を見出していくこと」を援助すること。そして、心理療法家としてクライアントの話を真剣に聴くというは、相手の意識下の暗い深層部まで一緒に降りていくことになります。
その未知の領域を、わずかな手がかりを基に一歩一歩と進んでいく探索過程は、まさに、手工業的しんどさであり、希少な体験といえます。

村上さんも、人は「同質性(グローバル・コンシャスネス)」を抱えていて、その同質さをずっと深いところまで注意深くたどっていくと、共通の場所―「物語」という場所にたどり着くことができる、そこから物語を汲みだしていく、と言われています。

画像1

小説を書くという自己治癒作用

村上さんは、「小説を書くことは、自分にとって治療行為、自己治癒作用の意味合いがあった」と述懐されています。

あらゆる創作行為には、自らを補正しようとする働きがある――生きる過程で生じる様々な葛藤や歪みを解消しようとする、昇華しようとする意図が含まれている。そういう浄化作用を本能的に求めていたのではないか。

そこで、自然と小説を書きたくなった。自分の内発的動機(Drive)にまかせて、自発的(Spontaneous)に湧き上がるものを、自由に書く――自分が自由である「自然体な感覚」こそ、ぼくの小説を書く根本、起動力であるという。

画像5

この自由さ、ナチュラルな感覚はとても大切にしたい。そのために、独自の文学スタイル、生活スタイルを築き上げていかれました。ここがすごい。
「長編小説」を書くことを主軸に、専業作家として思い切って生活を根っこから一変されています。
 ①自分が納得する、自身が好きと思える小説を書く
 ②長く作家活動(創作活動)を行う

この2つを上手く両立させるために、ご自身の性格を活かす形で、とても緻密に固有のシステムを設計して、長い歳月をかけてつくり、大切に維持されてきました。
地道な努力を惜しまなければ、創出される作品の質も自然に高められるはずだという、その信念の強さ。なんてストイックな方だろう。

画像2

メンタルとフィジカルのメンテナンス ―知的作業と肉体作業―

小説家にとって重要な資質、「才能」「集中力」「持続力」
まず、書くことが好きという「才能」を、素直に感謝してよろこび、大切にするということ。
この「才能」の質や量を長期的に維持するために、「集中力」「持続力」を向上させる――この2つは後天的にトレーニングで増強することができる。この徹底した管理として、村上さんのストイックなランニングは有名ですね。走る小説家。

長編小説を書く作業は、基本的に肉体労働であり、「物語」を身にまとって全身で思考する――その作業は身体能力を酷使するのだ、と言われているように、文章を書く作業において、フィジカルな面―身体能力・感覚を大切にされていますね。

実際に「走る」ことにより身体能力が向上していくと、自分の小説観や文体がどんどん変化していったのがわかった、という。
小説の中のリアリティの表現を追究する上で、「身体性」を取り込んだ文体を書くことを重視されています。確かに、村上作品が創出する独自のテイストは、こうした地道な努力の結晶なのでしょう。

また、小説を書く作業とは、人間の根本にある「毒素」的なものが、否応なく抽出されて表出してくる。作家はその「毒素」と向き合い、危険を承知で手際よく処理しなくてはならない
そして、そのような「毒素」の介在なしには、真の意味での創作行為を行うことはできない、という。

自分の扱っている「毒素」をうまく処理できなくなれば、主体的な創作エネルギーが減衰し、作品がやつれてしまう――自分は、自発的で、求心的で、自然な前向きの活力が感じられる作品を創出すること。そこに確固たる軸を置かれています。

村上さんにとって「走ること」は、書く作業で絡みついてくる「負の気配」、「毒素」をふるい落としていく「悪魔祓い」のようなものであり、河合隼雄さんはそれが「駄洒落」だったのではないか、とも書かれていますね。

画像4

また、とても素敵だと思ったのは、村上さんと読者との関係性です。
直接接触することはないが、自分の作品を読んでくれている観念上の読者を、最も重要な人間関係と位置づけている。
こうした読者とは、お互いに心の深奥部で共通の「物語」を持っている――「物語」というシステムを通して、お互いに見えない部分でつながっている、養分が行き来している、というフィジカルの実感、手応えがある。

読者に、少しでも質の高い作品を創出すること、少しでも楽しんで読み、何かを感じてもらうことを希望に、日々小説を書いている、という。

読書は共同作業であり、時空を超えてつながることができます。
村上作品が世界50ヵ国以上の言語に翻訳されていることは、こうした関係性の強さも秘訣のような気がします。
人々の心の深層部にある「物語」でつながる――それがより深く、人間のいのちの根源的なものにつながる「物語」であれば、その内界の深層部のつながりの広さは、外界の表層部の人々のつながりの広さにも関連していくのかもしれません。

画像6

社会の「病い」を引き受けて、表現すること。

河合さんは「芸術家とは、その社会や時代の「病い」を引き受けて、表現する力を持っている」と言われていますが、
村上さんの「ねじまき鳥クロニクル」は、まさにその「病い」を表現した作品と思います。わたしにとっては、村上作品の中で最も強い衝撃を受けた作品です。

何がそんなに心を動かしたのか――と問われても答えられない、通常の「感動しました」的な類のものではなく、まったく違った形、質感として受けた衝撃でした。
非常に重要な課題を提示されていると感じるが、この物語の意味を自分なりに掴む、見出すにはとても時間がかるだろうとも思いました。

この作品は夫婦の関係性がテーマであり、主人公僕が、失踪した妻クミコを探しコミットしていく、闇の世界へ取り戻していく流れです。このコミットの方法が、「井戸」の深い暗闇の底で、全くつながるはずのないところへ壁を越えてつながるという、不思議な話です。

村上作品は、人の心の「闇」を扱うテーマが多いですが、ここでは、僕が妻クミコにコミットしていく過程で、個人の闇から社会の闇へとつながっていく。それは、日本社会と歴史の「闇」「暴力性」――戦争の記憶、物語へとつながっていきます。
なので、この物語が展開していく中で、過去の戦争の虐殺場面を含めた多種多様の「暴力」が描かれています。正直、第二部でもう読むのを止めようかとも思いましたが。。

読み手によっては、こうした「闇」「暴力」が強すぎると感じるかもしれませんね。意味として掴みにくい。
ただ、「物語」として語ることでしか、伝わらないこともある――社会の「闇」「病い」の表現として。

河合さんとの対談でも、この作品の中の「闇」―日本社会と歴史的な「暴力性」について言及されています。結局、「自分とは何か」と個人を掘り下げると、日本社会や歴史を再認識せざるを得ない
そして、過去の戦争という圧倒的な暴力を相対化できずにいる問題が、今後新たな暴力として浮上してくるのではないかという懸念を語られていました。この「暴力性」をどう処理していくのか

この長編小説について、村上さんも、書いている作者自身も意味がよくわからない、書き上げるのに膨大なエネルギーを必要とした作品だったとのこと。本当にそうだと思います。

結局、その社会の「歴史的な暴力」をさらに掘り下げると、民族や国家を超えて、人類の集合意識に沈潜する「暴力性」に行き着くのではないでしょうか。集合的、普遍的な「暴力性」に。

芸術家は、こうした集合的な力―「闇」に呑まれないように、非常に注意深く、静かに慎重に観照しながら、その強力な負のエネルギーを別の形として表現していこう、昇華していこうと努力されるのでしょう。

人々に力や活力を与える形で表現するには、扱う「闇」「病い」の程度や深さによって、拮抗する「光」のプラスの方向性のエネルギーが必要になってくる。そうでなければ「闇」に呑まれてしまう。
そこに、「闇」「病い」を表現しようとする健全な精神作用が賦活していき、自己治癒、浄化作用が生じる、破壊から「再生」の方向性が生まれるということなのかもしれません。

こうした芸術家の方々を、心から感服し、尊敬します――やはりすごい。
その再生への転換エネルギー、いのちを吹き込むエネルギーが、じわじわと伝わってくる。勇気が芽生えてくる。

凡人なわたしができることは、こうした非凡な作品に励まされ、自分の「闇」と向き合い、浄化しながら、固有の人生物語を創作していくこと、コミットすることかなと思います。
個の意識の浄化が、やがて社会の集合意識の浄化につながっていくことを願いながら。
ありがとうございました。

画像6

<Tarot / Oracle cards>
・Light Seer's Tarot  / Chris-Anne
・Mystical Shaman Oracle Card / Colette Baron-Reid

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?