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「傾聴=問題解決アプローチ」かな

わたしは仕事として問題解決に携わっているが、その過程ではいつも悩み、試行錯誤を重ねてきた。様々なアプローチを試みる中で、先日気づいたのは、傾聴こそが問題解決の核心なのではないか、ということだった。しかし、その本質を理解し実践することは、想像以上に難しいものだった。

傾聴というと、単に相手の話を黙って聞くことだと思われがちである。確かに、話を遮らずに聞くことは大切だが、それだけでは真の傾聴とは言えない。わたし自身、当初はそう考えていた。相手の話を最後まで聞き、適切なタイミングで相槌を打つ。ちゃんと聞いているよ、という姿勢を見せる。それで十分だと思っていた。

しかし、そのような表面的な傾聴では、本当の問題解決には至らなかった。相手は話せたという満足感は得られるかもしれない。でも、その先に進展はない。なぜなら、話し手の内面にある本当の想いや、問題の根本原因にまで到達できていないからだ。

真の傾聴とは、相手の言葉の奥にある感情や価値観、そして相手自身も気づいていない本質的な欲求を理解することだとわたしは考える。それは単に耳で聞くのではなく、心で感じ取ることだとわたしは確信している。

もっとも、このことに気づいてからも、実践は容易ではなかった。相手の内面に寄り添おうとすればするほど、自分自身の立場、価値観や先入観が邪魔をする。「こうあるべきだ」「そんなことはおかしい」といった判断が、無意識のうちに頭をもたげてくる。

そこでわたしは、まず自分自身を見つめ直すことから始めた。自分の価値観や思い込みを認識し、それらを一旦脇に置く練習をしたのである。水面をイメージした。これは想像以上に難しく、何度も挫折しそうになった。しかし、粘り強く続けるうちに、少しずつだが相手の内面(水面)に触れられるようになってきた。

真の傾聴ができるようになると、驚くべき変化が起こった(驚くべき変化があったから、真の傾聴ができたと考えたのかもしれない)。相手が自ら問題の本質に気づき始めたのだ。わたしが何も言わなくても、相手が話しているうちに相手自身が「あ、そうか。本当の問題はここにあったんだ」と気づくようになったのだ。

これこそが、傾聴の真髄だとわたしは考えている(少なくとも、現時点では)。問題を抱えている人・組織は、多くの場合、自分で答えを持っていると思う。ただ、それに気づいていないだけなのである。傾聴は、その気づきを促す触媒の役割を果たすといえる。

ここで注意しなければならないのは、傾聴は決して受動的な行為ではないということだ。むしろ、非常に能動的で、相手の言葉に耳を傾けながら、同時に相手の感情や価値観、そして言葉にならない想いを感じ取る。そして、それらを理解しようと全身全霊で努力する。相手目線で長期的に何が決定的に重要なのかについて、ひたすら考え抜く(コスト度外視)。これは並大抵のことではない。

この意味において、傾聴は単なるテクニックではない。相手を一人の人間として尊重し、真摯に向き合う姿勢が不可欠である。相手の存在を丸ごと受け入れる。それは時に、自分の価値観や信念を揺るがすような体験になることもあると思う。

わたし自身、傾聴を通じて多くの気づきを得、自分自身も成長することができた。相手の内面に寄り添おうとすればするほど、自分自身の内面と向き合うことになるからだ。それは苦しく、自分の未熟さや偏見に直面して落ち込むこともあるし、焦りもあった。しかし、そのプロセスを経ることで、より深い自己理解と他者理解が得られた。

傾聴の本質を理解し、実践できるようになるまでには長い時間がかかった。今でも完璧にできているとは思わない。むしろ、傾聴に完璧はないのかもしれない。相手も自分も常に変化し、成長しているからである。だからこそ、傾聴は終わりのないプロセスなのかな、と感じている。

相手の内面に寄り添い、真摯に向き合うことで、わたしたちは互いの理解を深め、より強い関係性を築くことができるのだと思う。そして、その過程で自分自身も成長し、より豊かな人生を送ることができると思うに至った。



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