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過去を振り返れば遠く、でも未来はもっと遠いこと、常にその真ん中にいるのが今の私であること


 長い期間何も書かなかったので、「そろそろ書きたいなあ」と思うようになり、それもこれもなんとか休みの日や平日の隙間時間に記録するとか書くとかに対しての余裕が生まれ出したというわけなのだけれど、それじゃあ書こうかと思って過去を振り返るとその距離は長く、先月先々月にあったことはもう詳しくは思い出せないし、でも思い出してみればあんなことこんなことあったなあみたいな(本当に11月ごろから今にかけていろんなことがあったのだけれど)、それでもなんとか乗り越えて今も生きていますと言えば大袈裟だけれど本当にそんな感じです。皆様いかがお過ごしでしょう。時系列があっちこっちに飛んでいくような書き方をしてしまうと思いますけれども、ありのままに書かせていただきますので、現状の私は「こんな感じ」なんだと思っていただければよろしいかと思います。

 心に余裕がなかったといえばちょっと大袈裟だし、かといって超余裕であったかというとそうでもなく、体も心もその日その日を懸命に生きていたような気がする。忙しかった方かもしれない。「ストレスは体に悪いから、できるだけ心穏やかにあろうぞ」と頭の中では思っているものの、そうはいかないのが現実、に直面することが多くて、まあそんななんでも上手くいかないもんだわな!と諦め、できないもんはできないし、やりたくないもんはやりたくない、そして嫌いなものは嫌いだとはっきり意思表示し、そしてできることはちゃんとやろう、思ったことは伝えよう、と思い直して色々と頑張れた期間だった。
 流行病に家族みんなで罹り寝込んだ新年であったり、「とくしま文学賞」にて現代詩と短歌が佳作入選したり、それにやっと母体としての安定期を迎えたりとイベントみたいなものがポツポツとあった。あとは5月末ごろまで働いたら出産に向けていきましょうという流れになっているところ。なんてざっくり。でも色々と端折ったらそんな感じ。

 「とくしま文学賞」で入選した結果、自分のペンネームが人様から見られる場にどん、と出ているのはなんとも不思議な気持ちになった。しかも初めて出した文学賞だったので嬉しかったな。喜んでくれた人もいれば、「佳作ってすごいこと?」と真顔で言ってきた人もいたし、人それぞれだよなあと思ったのだった。現代詩を公募に出すことは生まれて初めての挑戦だったのだけれど、入選しただけで十分だし、なんなら出せただけも十分偉いでよ私、と思っていたので、思わぬサプライズだった。現代詩には興味はあったものの自分が作って出すにはあまりにも未熟で、諦めていたジャンルだったんだけれども(いや、小説も短歌ももちろん未熟なのだけれど)こうして結果になってよかったし、短歌も入ったし十分、感謝の気持ちでいっぱいなのだった。表現する楽しみ方に幅ができてよかった。これからも機会があれば出していきたい。いまだに詩の書き方は小学生の頃とか中学生の頃の国語や現代語の時間に習った程度のスキルしか持ち合わせていないのだけれど、とりあえず好きなようにやっていこうぜ、と思っている。
 
 いろんなことが急に始まり、そのまま走り出したまんまでいるなあという体感があるのだけれど、大きな変化としてはやはり今の私の体は「母体」として存在しているということだろうか。8月に入籍して11月には妊娠が発覚し、そしてその体で予定していた新婚旅行先の沖縄に飛び、超初期でも悪阻がひどかったし(どのシーンを思い出しても頭痛と吐き気がセットになっている。でもいい旅行だった)、仕事をしている時でも家にいる時でも、この腹痛はなんなのか、とか、重いもの持ったら良くないと聞くが持っちまったけどこの痛みはなんなのだい、とか、妊婦であるという自覚だとか、妊婦についてどのような捉え方をする人がいるのかとか、日々吐き気と頭痛と共に脳内で自問自答するとかネットで調べるとか家族に聞くとかで、ええ、授かったことに文句は何一つないけれど、なんだか落ち着かない日々だったわけでした。悪阻は長く、そしてその間に病気にもなり、なんだか踏んだり蹴ったりではないか〜と参っていたけれども、家族や身内の支えもあり完全回復には半月はかかったけれどもなんとか回復した。
 そして、病院に行くたびに見せてもらう豆みたいだったものが、だんだん人の形をおび始めるのには驚くってか今でも不思議でならないし、人のお腹の中で元気に手足を動かしクルクルしているのをみると、あんまりにも回るもんだから大爆笑してしまい、もうなんか、母親になるってこんなひゅいんと、なるようにしてなっていくもんなんだなあというか、そういう流れに世間がなっていて、病院でもお母さんと呼ばれるし、なんて表せばいいんだろうね、「そうなるようになっている」としかいえないような。
 いまの私は私という一人の人間として、このお腹の中にいる子をなるべく安全に、無事に産むために存在しているのだけれど、胎児からしてみれば宿っちまったんだからあとは頼むよじゃないけれど、そんなことも考えてないだろうけれど、「絶対的安心」の中で存在しているんではなかろうかと思えてきて、だから私は守るために存在するほかなく、これを責任と呼ぶならばそうで、そしてそうこうやってるうちに十月十日ごろになれば、何事もなければこの世に出てくるわけで、もう何もかもがノンストップなのだ。
 だから、もう、これを楽しまないで生きるのは勿体無いというか、全部受け入れて楽しんでやろうと思う。気持ち穏やかに、ものすごく責任を感じるような思い込みはせず、健康的で文化的に暮らし、そして好きなことは今まで通り好き勝手やって、子が生まれてきたら子育てに白目剥きながら楽しんでやりたいのである。
 私は自分の母に育てられてきたようにしか育っていないから、自分が子供を産み、親になることはできないというか、ならないほうが良いのではないかと思っていた。本当に私にはその資格がないというか、いい親になることはできないと思っていたのだけれど、そうでもないというか、違うのだった。なろうと思えばなれることを諦めてしまっていただけだったし、私は私の母ではなく、私は私なのだ。だから大丈夫に違いなく、大丈夫であれるように色々と考えを巡らせたり、行動したり、誰かに頼ったりできるのだから、私が私の頭を働かせて、自分の意思で選んでいけるのだし、お腹の子の親は私と夫なのだから、何も困ることも、怖がることも、逃げる必要もないのだった。
 でも、そんな風に思ってはいるものの、ほんっとに不思議なくらい、どう言えばいいのかわからないくらい、理不尽というか身勝手というか失礼というか余裕がないというか、なんか、そういう言葉をかけてくる人もいて。なんでそんな考えになるのかわからないし、なんでそんなことが平気で言えるのかもわからないし、いや、わかるんだけど、そんな大人で大丈夫なのかい、と思うような人たちがいて、世の中そんな優しい人たちばかりではないな〜と思ったこともあったけれど、私ができるのは物理的に距離を置くなりブロックするなり話し合うなりしてやり過ごすくらいだけどそれでとりあえずは十分で、そんなこんなでいるうちにSNSへの投稿が減り、書くことも減り、関わる人の変化もあり、体調と仕事のバランスもあって読むこともまたままならない日々だったのだけれど、今はやっとなんか、余裕出てきたわ〜って感じです。いろんな人がいるからね、私もまたいろんな人の一部だし。間違っていることもあるし。いい人間ではないだろうけれど、いい人間でありたいという気持ちがあるだけいいんかな、と思う。

 これからもnoteとか、諸々の更新は今まで通りゆっくりかもしれないけれど、記録することはできるだけやっていけたらいいなってことでアナログにノートを使って手書きしているのよね。ほんと単語だけど。読みたい本リスト作ったりね。やりたいこととか、勉強したりだとか、本当にざっくりだけど、記録することをもう少し頑張る方向でいたい。落ち着いてきたからこそ。
 読んだ本について書くことも気分があがればやりたくなるだろうし、短歌や小説を書きたくなるかと思いきや絵を描きたくなるだとか、全部が自分の本能にお任せ状態だけれど、創作に重きをおいて生きていくことにぶれはないようです。生み出すことをやめてしまわないようにしたい。辞めようと思えばやめられることかもしれない、けれど、辞める理由がない以上は長く付き合っていきたい。
 誰に対しても優しい人にはなれないけれど、誰かにとっての優しい人より、自分にとっての優しい人はこんな人だ、を大事にしたい。
これからも生きような。できるだけ長く。



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