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人に与えたことはなんでも三倍で返ってくる

 

 仕事に慣れたら日記を書こうと思っていたら、もう二週間以上が経っていて、少し離れたかもしれないけれどこれじゃあいつまで経っても書くことができないなと思い、やっとnoteを開いた。ここ最近は読書もまちまちだけどほとんどの時間を疲れを癒すために横になって本を読むか眠るか公募の作品の推敲に時間を使うかって感じだった。
 眠るということがあれだけ難しくて眠れなくて辛かったのに、まだ眠りが浅いとはいえどもまとまった時間(連続して3時間とか、できなかったんだよずっと!)眠れるようになってきていること、保険証がなかなか手元に来なかったので病院に行けなかった時期に薬が服用できなかった期間があったにも関わらず、それなりに人間らしく生活が送れたことで自分を褒めていた。

 創作は今の所順調です、と言いたいところだけれども、全くそうではなく、ああでも無いこうでもないと唸りえぐえぐしながらやっている。このえぐえぐって昔からある言葉だと思うけど、(え、ない?いやあったと思うんだけど)私みたいに毎日使うやつはいないと思う。でも私の周りにいる創作仲間は私が使うのでうつっててちょくちょくえぐえぐしてるってツイートしてくれている。程度は人それぞれだけれど、みんな何か生み出す時って苦しんでるものだよなあと思う。そこを比べちゃいけないのだけれど、私は私なりの必死さでどうにかやってくしか無いんだろうな。みんなそうだよね。きっとね。

 仕事と趣味で世界が回っている。トンネルを抜けた先を私は生きていて、今の所すべてが光って見える。辛いことも苦しいこともあるけれど、それでも、人に感謝する気持ちだとか、自己防衛だとか、誰かと話して面白かったこととか、好きな本を買うことやときには我慢すること、捨てること拾い集めること、見慣れた景色、その中にある新しい景色、その発見した時のピカッとした瞬間だとか、いいことも悪いことも折り重ねつつも、それらが内在する場所は愛とか優しさとか、優しい乳白色みたいな、赤子を包むおくるみみたいな柔らかなものでできていればいいなと思うし、そうでありたいと思う。
 『人に与えたものは3倍で返って来る』という言葉が忘れられなくて、私の療養生活数年間、一体どれだけのものが返ってきて来ていたのだろうと思う反面、あの頃の私は全てにおいて無自覚に、悲しみや苦しみ、抱えきれないものを放出していたのかもしれなくて、だからしんどかったのかもしれないな、とも思う。(もちろんどうしようもない環境要因はあったのだけれども)
 だからこそ今はできるだけ優しさを人に与えて、って言うと上からみたいだから嫌なんだけど、でも優しさにもいろいろあって、故意に悪意はなく与えようとする優しさと、無自覚に、自分の中に染み込んでいる性根の部分から出る優しさがあると思っていて、どっちにしても結局他者に与えると言うことに変わりはないから、やっぱり与えていける人でありたいと思う。医者や上司、とにかく、私を支えてくれた人たちからもらった優しさだったり気づきだったりを、私もまた誰かに繋いでいきたい。それが創作になっている気もする。何言ってんだろう。ちょっと恥ずかしくなってきた。素直に書くのって時々恥ずかしいね。

 何とか言っているうちに時間は過ぎていって、今日は休みだったのだけど、何だかあっという間に終わってしまった。読書をして(宇佐見りんさんの『くるまの娘』読んでうおおおってなり、ベルリンの『すべての月、すべての年』を読んでふおおとなりました)短歌を細々詠んだら終わりました。あとちょっとだけお昼寝しちゃった。夜ご飯は温かい素麺を啜りました。明日はお仕事。施設でマルシェもあって賑やかだろうな。頑張るし、楽しみでもある。お昼休みに出店を見よう。それを楽しみに生きる。いいことが起こりそうだから、動いたものがちのつもりで何でも頑張ってやる。

今月末までか六月上旬まで、SNS不在がちになるかもしれないけれど、生きていますので安心してください。短くなっちゃったけど、今日はここら辺で。おやすみ。



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