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忘れてもいいけれど覚えておきたい


 今日の日記は、覚書のようなものになってしまうかもしれないのだけれど、日記だから、どんなことを書いていてもいいように思えてきたので、素直に書いておくことにします。

 今日は山に行ってきた。登山目的ではなく、昨日で退職した職場の資料の一部がまだ残っていたので、それらを処分するためだった。
 
 山に上がっていく間、車体がずっと斜めになっているのに重みを感じつつ、ずんずん登っていく道中で見かけた桜はとても綺麗で、誰にも見られないとしても明々と光っていた。
 そのうちの一本の桜がすっごく綺麗で思わず車のスピードを緩めた。神様が棲んでいそうな桜だと直感で思ったけれど、それは人家に寄り添って咲き誇っていたので、この家に住む家族のために咲いている桜なんだと思うと写真を撮るのは躊躇われた。今まで見たどの桜より神々しく、そして大きかった。他と比べて幹は細かったように思う。その細さといい、陽光を浴びて自ら発光しているような花びらたちといい、人里を少し離れているところの人家に寄り添っているところといい、儚さそのものであるように思えた。毎年あの桜を見ながら春を過ごしている人たちはどんな人たちなのだろうと考えながら、再びやや深くアクセルを踏んだ。

 到着したのはもう誰も住んでいない身内の空き家だった。そこには昔ながらの石でできた囲炉裏がある。そこで持ってきた書類を燃やすことにしたのだった。

 個人情報の入ったものはほとんど職場に渡して処分してもらったのだけど、職場へ持っていくほどではない手書きのノートやプリント、でももう家に置いていたって仕方のない書類など。ユニクロのLサイズの紙袋に収まっていただけのものを、順に炎にくべていった。

 燃えて行く間風が何度も強く吹き、火力を強めた。危ないからもう少し風よ収まってくれ、と文句を言いつつ、どうにかこうにか順調に書類をくべる。そのあいだ、職場であったいろんなことを思い出していた。 
 
 無邪気で可愛かった子どもたち、毎日何が起こるかわからない、学びの多い保育現場。保護者との他愛無い会話で盛り上がったこと、大変だったけど無事にやり遂げた行事。職員とのやりとり。楽しかったことややりがいのあったこともいくつかあったんだと今になって思い出す。だけど今日までの私の心に巣食っていたのは嫌な思い出ばかりだった。人間関係。本当に人間関係がダメだった。
 わたし自身が未熟だったから、受け流すスキルであったり、考え方であったり、ものの捉え方であったり、とにかくあげるとキリがないくらいに自分にも非があったのだけれど、それでもあの頃の自分には人間関係を潤滑にしてゆくスキルを持っていなかったので、ありとあらゆる言葉が刺さり、刺さったまま抜けず、完璧に仕事をこなすことで何も文句も言われないだろうと思い込み、何をやっても評価が怖く、陰口が怖く、うち勝つことはできなかったのだから仕方ない。
 病と向き合う時間は自分と向き合う時間でもあった。苦しかった。完治はしていないけれど、向き合い方を知った今は、あの頃の自分が身に纏っていた心の鎧の脆さと重さがいかに負担だったかと思うと自分自身を気の毒に思う。
 現在はもう、カウンセリングに通ってトレーニングや治療を受けたので、自分の着ていた無駄な鎧を下ろすことができている。それでも弱い自分はいて、それはもう性格であるから仕方のない部分でもあるけれど、弱ったときにどういう対処をしていくかを考えることができるし、自分のドツボにハマるパターンを理解できたから、事前に考え方や捉え方を改めることもできるようになった。少しずつ成長はしている。だからこうして、過去を手放そうと思えたのだ。
  
 書類とともに過去も火にくべた。弱かった自分ごと火にくべた。手書きの文字で綴ったことのほとんどは思い出せないことだけど、その頃のわたしが頑張っていた証拠でもある。でも、今のわたしにはもう必要の無いものだ。容赦なく炎はわたしの書いた文字を黒焦げにしていく。しまいには黒を通り越して灰になった。なんとなく、ごめんね、という言葉がよぎった。謝りたい理由は定かじゃ無いけれど、謝っておかなくちゃいけないような気がした。ごめんね。ともう一度呟いた。

 そうして書類だったものをすべて焼き終えて、残されたのは灰だけで、それはわたしの念のこもった遺灰になっているような気がした。突風が吹いて灰を少しさらってしまい、どこかへ飛んでいった。綺麗とは思わなくて、だけど、飛んでったことでスッキリはした。

 終わったんだ、もういいんだ、よく頑張ったよわたし。

 そんな言葉が頭に浮かんで、それは反面、心のどこかでは少しの後悔であったり、ほの昏い感情が残っているのかもしれないのだけど、あまりそちらには目を向けず、明るい方に気をやった。全て終わったこと。過ぎ去ったこと。進んだこと。今のわたしがいること。それが全てだと思った。

 灰を処分して掃除を終えて、山を降りた。行きで見かけた神々しい桜を見納めてきた。あれは忘れられない桜だから、ずっと覚えておきたいけれど、しばらくしたら忘れてしまうのだろうと思った。そしてまたいつか、何かの拍子で思い出すのかもしれないし、思い出さないかもしれない。だけどあの桜が本当に美しいということは変わらないのだから、そこの家族のためにいつまでも、毎年咲いていてほしいと思う。
 桜以外にも、菜の花畑もいくつかあって、黄色は桜以上に目について、意外とどこにでも咲いているものなのだろうかと思ったけれど、以前フォロワーさんと通話している時に、菜の花畑は都会ではあまり見かけないといった話をしたようなしなかったような、と思い出す。

 桜、菜の花、名前はわからないけれど人家の庭で咲いている紫の花、チューリップの歌そのもののように並んだ赤白黄色のチューリップの花壇。花々が嬉々として咲いているのを見て春だ春だと思う。こんなにも穏やかに揺れているのに、忙しいのは人間だけだと思う。桜の木の下で寝そべっている、リードで繋がれた白い犬の気持ちよさそうな寝顔。川の青さ。桜のおかげで明るくなっている桜の並木道。
 そして4月1日でもあり、エイプリルフールであったことを12時を過ぎて思い出す。エイプリルフールは午前中に嘘をつき午後にバラすのが道理らしい。今までエイプリルフールにエイプリルフールらしいことをしたことがないので、いや、やったことはあるけど嘘をついてすぐ反応をもらったその返事で嘘でーすとバラすようなことしかやったことがない。しかも結構しょうもない嘘だったと思う。そして結局嘘つくのは面倒だなと思ってそれ以来は暦上の出来事として過ぎてゆくイベントととなっている今日、午後に思い出しただけで声にも出さないままに終わった。わたしには声にも出さないで終わることがたくさんある。それが文字になっているのかもしれない。

 そうして帰ってきたら疲れてしまって少し眠った。昼間の暖かな陽光と部屋を通り過ぎていくまだ少し冷たい風を感じながら、ブランケットにくるまっていた。

 眠る手前に読んでいた、妹がわたしへの誕生日プレゼント企画でやってくれた『本屋さん五分間チャレンジ』にて選んだ岡本真帆さんの『水上バス浅草行き』という歌集がよくって、それはもう本当によくって、ああ、こんな短歌が詠めれば世界のもっと深いところを見つめることができるのだろうなと思いながら、そのまま、眠ってしまっていた。

 本を読んでいると、大好きだと思える作品がどんどん増えていく。それがどれだけ幸せなことか。生きていれば嫌いなことも苦手なこともきっとたくさんあるけれど、好きなものをたくさん増やして、それらに囲まれているから大丈夫だと思える人生にしたいなあと、ぼんやり思う。その中にわたしの作る作品があり、それが誰かの大好きになってくれればもっと嬉しいなと思う。なんでも前向きにやっていきたい。今のわたしは昨日のわたしより身軽だ。昼に食べたこってりした味噌ラーメンの分だけ胃は重いけれど、心は軽いのだからこれでいい。

 今日は新月。新月に願い事をすると叶うとされているらしいので、今月から新月ノートを書くことにした。4月1日の新月は牡羊座。アクティブな自分になれる願い事をするといい。何かでNo.1になりたい、成功させたい、弱い自分を前向きな自分へと解放したい、良い環境を作りたい、新しいことを始めたい、そんな夢を前向きに書くと、勝負事に強くて誰より先に前へと進んで切り開いていこうとする牡羊座のパワーが助けてくれる。願い事の数は2個から10個。今日の15:25〜8時間以内ならばもっとも効果が高いので、さっき書き終えた。もちろんそれ以降も効果はあるので、読者の方も紙(ノート)とペンを用意して、願い事を書いてみるのもいいかもしれない。書くだけでいい。そして、後は叶えようとする自分がいればいい。


 今日はとても良い日だった。明日は晴れているようなので花見に行こうかな。

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