見出し画像

ミッフィーの顔みたく後ろのない正直な心でいたい


画像1


 朝から小山清の『風の便り』を読了した。11編の随筆。優しい言葉使いで滑らかに綴られている文章に心がゆったりと落ち着いてゆき、そのまますっと心に染み込んでいって、気がつけば読了した。作中、彼は自身のことを素直に綴っている。時には賭け事にハマってしまいそのままずるずるとお金に困る生活を送るようになってしまった時もあったらしい。文体からはそんな風には感じ取れないのだけど、そのギャップがなんだかいいなあと思う。『落穂拾ひ』や『犬の生活』も、柔らかな印象を抱いていた。

 世間には、羊頭を掲げて狗肉を売るということがあるが、私の文章なども、その類のものではなかろうか。若しも、識者のお咎めを蒙ったら、どうしよう。どうしようといって、私には私のやることがわかっている。せいぜい赤面をして頭を掻くぐらいが落ちであろう。そして出来れば、「文壇八分」などというひどい目には逢いたくないものだと思うぐらいのところだろう。私のこれまでに発表した二、三の小説だって、甚だいい加減のものである。インチキだといわれて、そうでないと口返答をしたなら、私は後ろめたい気がするだろう。みんな、どこかで読者をごまかしているような気がしてならない。なにか書くたびに、それだけ私の内部に疚しさが積み重なっていくような気さえする。 (『風の便り』私についてより抜粋)

 と、引用が長くなったけど、こんなにも正直に書いてらっしゃる人っているかな。そして私は、この正直さがなんともすきだ。どんな素敵な物語を書く人でも葛藤があることを知ってちょっと安心した。心に正直でいたいと思った。


画像2


 そしてとうとう『カラマーゾフの兄弟』を読了した。面白かったよ〜〜〜。とはいえ、今は物語を読んだことで得た色々な感情や新たな知見を熟成させているという感じ。うまく言葉にならない。ミーチャの展開には恐れ入った。衝撃に衝撃といった感じ。でもねえ、業が深い物語だけども、まるっきり純粋な絶望には陥らないのは、この物語には「救い」という言葉が必ずついてくるからだよなあと思う。悪いことは悪いんだ!で終わらせないんだよね。悪事を働いた人にも救いがあるってなってる。まだそこらへんについての個人的な見解は述べられない。学んでから出直したい。

 読んでてだんだんと情緒の昂りが感じられる時ってドストも多、分筆がのってたんちゃうかなって思うのだけど、どうなんだろう。第5編にあるイワンとアリョーシャのところ、『大審問官』はその昂りのまま読んだことで個人的にすごく考えさせられたし、イワンにはドストがのりうつってたと思う。(ん、逆か…?)ある意味気づきたくなかったこと、無意識に目を逸らしていたことに焦点がぎゅっと寄せられてったなあ。もう何回か読み直そうと思っている。あとはイリューシャとコーリャのところは泣いた。いやもうなんなんだ、エピローグも合わせて5巻もあるから大変だ〜と思っていたのにやっと読了したかと思ったらなんだこの喪失感は…これがカラマロスか…。アリョーシャ天使だったな〜。またそのうち再読する予感がある。と、その前に旧約聖書・新約聖書について学んでおき、万全の状態で挑みたい。


 そんなこんなの今。次はどれを読もうかなと考えて、こんな時間。西加奈子さんの『夜が明ける』か堀江敏幸さんの『定形外郵便』かサリー・ルーニーの『カンバセーションズ・ウィズ・フレンズ』か。あ〜〜どれにしよ〜〜〜。


 布団に入って暗がりで読む。お月様のライトを灯して。


 (ね、子どものころは叱られていたことだけど、大人になったらやっちゃうことってあるよね。暗いところで読むと目が悪くなるよ!って、今でもそれはわかってるんだけど、一応灯りあるからいいよね?ってことにしてるの。もう月光では読めないからさ。視力落ちちゃって。大人になると失うことも自己責任だから、そこらへんは自分しかわからない匙加減で。ね。)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?