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「人生観とは枯れたもの」との見方から脱却した方が良い。

日本で「人生観とは枯れたもの」との印象が強いと以下のコラムで書いた。年齢のいった作家やお坊さんの人生に関する言葉を、ことさら有難く受け止める。その要因の一つとして、Lifeに呼応する一つの言葉がないからではないか?と提起した。そして、「生命」「人生」「日々の営み」を包括する概念=言葉の欠如が、人の日々の生き方からビジネスに至るまで、極めて多くの不都合を招いている、と。

これまでイタリア人に人生の過ごし方をインタビューしてきて文章にしてきた。現在、サンケイビズに連載中の「ミラノの創作系男子たち」では毎月1人ずつ紹介しており、これまで40人を超えている。ミラノに住んでいない、男子ではない人もいる。とにかく面白そうな人を常に探して話を聞いている。今日、アップしたのは、ヴェネト州の高校で哲学と歴史を教える先生だ。YouTubeやポドキャストでも人気がある。

先月はハイエンドファッションメーカーの役員である一方、自転車や子ども向けの本の出版社を経営している男性だ。

3月は大学の経営学の先生で、アートの市場のマーケティングを専門としている女性である。文化的な環境で育ち、そこからの脱出を図るが、結果として、経営学とアートが領域となった。

実は6-7年前、日経ビジネスのオンラインで「イタリアオヤジの趣味生活」との連載で30人、また他のオンラインでその女性版を5-6回書いている。したがって、およそ80人にプライベートな話を聞いて記事にしてきたことになる。この連載ではないところでも、同じようなジャンルの記事をたまに書いてきた。

もちろん、それ以上に、記事にしていない数多な人との出逢いと会話があるわけだが、記事を目的にしないとなかなか聞けないところも知ることになる。この連載をやっていて面白いところだ。当初の狙いは、次のようなところにあった。

日々の細かいことをこなしながら、ずっと先の何らかの目標なりを目指して、それらの細かいことを統合させていくのが人生だ。よって、子どもの時の活動や考えていたこと、学校時代のこと、20代のこと、30代のこと、これらが40代あたりでどう統合していくか?を探っていけば、若い人にも中高年の人にも何らかのマップを提示することになるのではないか。

このような思いがあった。だから最初はインタビュー相手として40代以上が多かった。しかし、人によっては「統合度」が早く出る。30代でも十分、人生観を語れる人がいると気づき、30代も増えてきた。20代でもいるだろうが、まだ書いたことはない。

質問項目は家庭環境、教育、育ち方、伴侶との出逢い、職業経験の経緯、趣味やスポーツの変化などを、その時に応じて尋ねていく。現在の仕事とどう連なっているかが、自ずと浮き上がってくるようなところを目指しているが、当然ながら、結びつかないこともある。しかしながら、結びつかない場合は、意図的にお互いの距離を遠ざけることに強い意思が働いていることも多い。

とにかく、こうして聞いていくと、「日々の糧」「日々の営み」「人生の喜び」という3つが、どのような大きな枠組みのなかに配置されているのかが分かる。必ずしも人生観が抽象的な言葉に集約しないのだ。このあたりが、冒頭で述べたように、ライフのような概念が礎を作っていることと関連しているのではないか?と思うところだ。

よく日本のライフスタイル雑誌などがイタリアの人にインタビューすると、やたらカッコいいセリフが大文字で記事になっていたりする。クラフトの職人なども「深い人生」を演じているような紹介の仕方をする。イタリア人は誰でも役者を演じているとか。確かに、言葉をそのまま訳せばその通りなのだが、そういうセリフのコンテクストがずれているために、「カッコよすぎる」のだ。

ある意味、日本の作家や坊さんの言葉を「カッコよく」捉えることと近いかもしれない。日本のそうした人生観がカッコよく見えるのは、人としてのギラギラした欲望をなくしたからとのケースが多い。その諦念の境地が肯定的に描かれる傾向にあると思う。だから、同時に「枯れる」のである。

言うまでもなく、ある程度、自分の希望や欲望を抑制しないことには、それなりの幸せは得にくい。上記で紹介した哲学を教える先生のレクチャーにもあるが、例えば、古代ギリシャの政治的地位の低下が、哲学者の議論アイテムとしての国家論を低下させた。もともと哲学は「人がいかに幸せに生きるか?」を考えるものであるが、国家論なきあとの哲学は、より私的空間での幸せを追究するようになった。

工房で自らの手を動かす職人の幸福論のあり方、イタリアをはじめとするヨーロッパの人の幸福論、これらにはある限定されたエリアを定める方針がみえる。必ずしも、消極的な態度ではない。自ら制限するのでもない。そこで獲得する人生観が悲観的であるわけでもない。少なくても、どの世代においても、我が人生観を語れる社会であった方がレジリエンスがある、と言えるだろう。

また、思いついたら、このテーマについて書こう。


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