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遠いところにいると思っていた人が、思いのほか近くにいる ー 新ラグジュアリー考

服飾史研究家の中野香織さんとの共著『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』が上梓され、およそ2週間を経ました。発売前に書いたnoteは以下です。

読者からさまざまな感想をいただくと同時に、英訳をした「はじめに」(上記のnoteに冒頭を紹介しています)を読んだ方たちからも内容に同意・共感していただき、これからの活動の背を押してくれるコメントをもらっています。というのも、日本語の読めない欧州や米国の人に「はじめに」を送ってきたのです。

これまで何冊かの本を出してきましたが、今回の本の作り方はこれまでとは少々違う方法をとっています。

ある程度の量の原稿を書いた段階で、ぼく自身がインタビューや議論をした欧州や米国の研究者(大学でラクシュアリーマネジメントやファッション文化等を教えている人たちなど)や実践者(ラクシュアリーをコアに組織的に活動していたり、実際にその分野でビジネスをしている人たち)に、該当部分を自動翻訳で英語にして送り、その内容にフィードバックを受けてきました。ひとつひとつ自分で翻訳するのであれば、そういうプロセスを実施するのは時間的にハードルが高かったですが、現在のソフトウェアであれば1分以内に全ての作業が終わります。

その結果、相手が話したセリフの確認だけでなく、ぼく自身の解釈是非の確認をしながら、本の準備を進めることができました。しかしながら、「はじめに」の内容は扱いが違います。実は他の部分を書いた後、最後のタイミングに書きました。そして、この部分はインタビューや議論をもとにしておらず、翻訳して日本の方以外に意見をもらうことはありませんでした(日本の方々にはゲラ以前の段階での感想や意見をいただきました)。

そういうわけで、この本の趣旨を書いた「はじめに」が欧州の人たちにも賛同をもらえるかどうかは、気になっていました。欧州は従来のラグジュアリーの総本山の土地です。

そして今回の本のひとつの狙いは、ラグジュアリーの新しい姿をつくるに貢献する道筋を築いていくことです。「自分たちで新しい世界観を表現できる、こんな宝があったのだ」と気づき、読者の方々がその舞台に乗り込もうと思っていただければと願っています。

よって、総本山にある考え方の変化に感度の高い人たちと、同じ舟にのれるかどうかはぼくにとって大切な分岐点だったわけです。前述したように、同じ舟にのっていると思って良さそうです。

ところで、新しいラグジュアリーの考え方がどういうものか?と言えば、本をまだお読みになっていない方にお伝えすれば、今日掲載したサンケイビズのコラムで紹介した人の趣向に接してみてください。

ここにいるアンドレアの物事の選択の仕方が、新しいラグジュアリーのひとつの指針になります。量ではなく質を求める生き方があります。

翻って気になることがあります。かように同じ舟にのっている感を欧州の人たちと共有できているのですが、思いのほか距離感を抱くのが、日本にいる旧来のラグジュアリーにはまりこんできた人たちです。皆さんが、「いわゆるブランドが好きな人ね」と想像する人たちです。このような方たちが、ラグジュアリーの再定義や新しい動向に目を向けるのを億劫がっているように見えるのです。

それは何故なのか?を考えます。

ラグジュアリースタートアップのみならず、旧来ラグジュアリー領域にいる欧州の人たちも、新しい方向を探りはじめているのです。そうしないと生き残れない。

だが、日本でこれまでラクシュアリーを主要舞台にしてきた人は、旧来ラグジュアリーとおつきあいすること自体に自らの存在価値を感じている、旧来ラグジュアリーの分析をすることに喜びを感じているようなのです。言ってみれば、受け身なのですね。

国際的なコミュニティへの送信者としての発想に欠けているのではないかと思うのです。仮に受け身を役割として任じているのであれば、なおのこと、新しい鼓動に敏感であってよいはずですが、どうもそうでもない。これは既得権益を優先する「イノベーションのジレンマ」に似た現象が生じているとも言えます。

一方で、旧来ラグジュアリーとは縁がないと自覚していた人が、新しいラグジュアリーが自分の出番だと本を面白く読んでくれるのです。

即ち、近い場所にいると思っていた人が存外、遠いところにいて、遠いところにいると思っていた人が存外、近いところにいる。後者は期待以上のことなので嬉しいです。

ただし、欧州の人たちは、近いところにいる人が鋭敏に気づき変わろうとしている。この人たちは従来の「ラグジュアリー言語」を知っているから、新しいラグジュアリーを巧みに語る術をもっています。日本の意欲ある人も、その言語を知っていく必要があるので、やはり旧来ラグジュアリーの住人との協力的な関係が望ましいです。

「一人も取り残さない」をもじれば、「旧来ラグジュアリーの人を取り残さない」工夫を考えないといけない。そんなことを思う日々です。

また、しばらくしたら、このテーマ書きます。

写真©Ken Anzai







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