見出し画像

自分の世界を創るのは自分の決断

知りたいことがある。でも、それを知るための努力をしていなかった。
誰かが自分の窮状に気が付いて、求める知識を運んでくれるのを待っていた。それがこれまでの自分の在り方だったと、今更ながら気が付き、恥ずかしい思いをしながら反省をしています。

先日、修士論文に相当する「中間報告」を提出しました。
自分が在籍する大学は5年一貫制博士課程なので、2年間の成果を報告する書類は「修士論文」ではなく「中間報告」なのです。自分の2年間の成果をまとめる中で、色々なことが自分に不足していることを痛感しましたが、研究対象についての知識が不足しすぎていたことには恐怖すら覚えました。
付け焼刃でもこれからの糧になると思い調査を始めると、何故過去の自分はそれを知らないままで放置できたのか全く分からなくなりました…。

研究とは、これまでに先人たちが明らかにした知識を土台としつつ、これまで明らかにされていない事実をつかみ取る営み。つまりは、これまでに何がわかっているのかをきちんと押さえていないと何をするべきかがわからない。

それなのに自分は、「この物質Aは生物の中でXという働きをしている」ぐらいの浅い理解でとどまっていたのです。
その物質AがXという働きをするのなら、何故その働きができるのか、どうやってその物質Aは合成されるのか、他に同じような働きをする物質はあるのか…。知らなければならないことは山のようにあります。先行研究の論文で引用されている言葉だけをうのみにして、より知ろうとする努力ができていなかった。

それは、無知の無知、つまり知らないことに気が付けていなかったことが原因だと思います。本来であれば自分で「何を知らず、何を知るべきなのか」を見極めて、知る努力をする。

自分の中の知識の欠落に気が付き、どうやったらそれを埋められるのかを考え、調査を行う。大げさに言えば、そのすべてが自分の決断の連続。自分で自分をつくる。また、調査した結果、それが明らかになっていないことが分かれば、自分の研究の対象ともなるでしょう。これまでに読んだ論文の様々な記述を「まだわからない」と放置するべきではなかった。今ものすごく反省しています。

そのように自分の「知りたい」に気が付いて知る過程で自分の内側に蓄積されるものが、自分を形作り他の人にない専門性となるのでしょう。

深く反省しているものの、今だから気づけたのだと思う自分もいます。
自分にとって、一番合っていると思う方法で、知るべきことを自分の中に落とし込み、春から始まる3年目以降の大学院生活での研究成果につなげることを誓います。

これまでが口を開けてエサを待っているだけだったとするのなら、これからは自分で空腹に気が付き狩りに出る。そのような転換をするためには研究の時だけでなく日ごろから、「知りたい」という欲求や「これは知らない」という感覚に敏感になり、調べることを習慣づける必要があるでしょう。
漫画や小説を読んでいる時、テレビを見ている時などに、気になったことがあったら調べるようにしていきます。もちろん時間や気力などは有限なので、すべてを同じ深度まで掘り下げることはないと思いますが、知りたいことは知るようにしていきます。

早速、さっき読んでいた漫画にでてきた高そうなウィスキーの値段が気になったので検索しました 笑

この記事が参加している募集

習慣にしていること

頂いたサポートは、南極の植物を研究するために進学する大学院の学費や生活費に使わせていただきます。