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読書記録:葉っぱはなぜこんな形なのか?

著者・林将之
ISBN978-4-06-515669-8

タイトルそのまま,葉っぱの形の意味を考える。
葉っぱを観察してみると,いろいろな葉っぱがあることに気づく。

葉っぱは光合成の場であり,太陽を存分に浴びて,養分を作り出す役割を担っている。それにしたって,さまざまな形,大きさの葉っぱがある。

どんな戦略をとっているのだろうか?

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葉っぱのギザギザ

葉っぱを描いてとい言われたら,どんな葉っぱを描くだろうか?

きっと卵型で,輪郭線はまっすぐで,真ん中に葉脈があって,その葉脈は左右に伸びていて・・・そんな感じかしら。

葉っぱのふちにあるギザギザを鋸歯という。
ギザギザと言っても,やや丸みのあるものだってあるけれど。「葉っぱを描いて」と言われて,鋸歯のある葉っぱを描く人は少数派なのではないかと思う。それくらい,私たちは葉っぱの形を意識していない。

さて,そんな鋸歯だが,どんな意味があるのか。
わざわざギザギザの形にするからには何かしら意味があるのでは?と考えてしまう。
(でもこれって,鋸歯がないのが「普通」って思っているから出てくる疑問,とも言える。事実に価値判断をのせずに表現するのは,案外難しいのかもしれない。別にどちらが普通だとか,どちらがいいとか,そういうことを言いたいわけではない。)

鋸歯の先には,水孔という穴が空いていて,そこから水が出てくるそうである(溢泌/溢液)。ということは,植物にとって余計な水分を排出するためにある、と言えそうである。

さらに,トゲとして動物から身を守る物理的防御の役割も果たしているそうだ。痛いもんね,トゲ。それでも,動物にとっても食べなければ生きていけない。ときとして,動物と植物の攻防が繰り広げられる。

他にもギザギザがあることで,空気の循環が生まれるという説も。

きっとどれかひとつというわけではないのだろう。
だからこそ,さまざまな植物を見ながら,ああでもないこうでもないと想像することはやめられないのである。


自然の中と自然の外

「自然保護」というように,人間は自然を保護しようとしている。

人間は自然の外にある存在なのか?
私たち人間も生き物,数ある動物のうちの一つではないのか?

日本の神道や仏教の自然観と,キリスト教の自然観触れながら,筆者は語る。
神道や仏教では,「自然を崇めたり,人間と自然は一体である」という価値観を持つ。一方で,キリスト教では「自然は神から人間に与えられたものであり,人間が支配するもの」といった旨が聖書に記されているという。

日本のオオカミは,明治末期である1905年の記録を最後に確実な記録は途絶えている。日本においては,オオカミは大神として崇められる対象であったという。それがなぜ絶滅したのか。

筆者は3つの点を指摘している。
①欧米文化の流入により,オオカミが駆除の対象となったこと
②オオカミのエサとなる生物が乱獲により減少したこと
③狂犬病が日本に入ってきて,オオカミにも感染し,駆除の対象となったこと

赤ずきんでもオオカミは悪として描かれるように,欧米文化にとってはオオカミは悪の存在である。その影響で,人間を襲う恐ろしいものとしての認識が広がったのではないかと指摘している。

自然も人間も,個別バラバラに存在するのではなく,相互に影響しあって存在している。その影響は人間が認識できているかもしれないし,できていないかもしれない。

自然と文化は密接に関係している。
楔形文字は粘土板に書きやすそうである。一方で,ひらがなは粘土板には書きにくそうである。自然が文化,文字を作ったとも言えるのではないだろうか。

日本ではオオカミが絶滅した。
それは私たちの文化が失われたことと同義であると,私は思う。

ところで,イヌはオオカミの一亜種に分類されている。
世界中のイヌ85品種を対象にオオカミ近い遺伝子を持つ品種を調べたところ,1位は日本の芝犬,3位は秋田犬だったという。
そう思うと,オオカミが急に身近であたたかな存在に感じる。
イメージが与える影響は大きい。

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筆者の葉っぱの見方をああでもないこうでもないと一緒に楽しめる意味では,楽しめる一冊であった。植生や生態を学ぶ入口になってくれる本である。

科学的知見を深めるためのステップとして,読むといいかもしれない。

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