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2020年GWに考える判断基準と態度

大人になるにつれて本当の意味で集中できなくなったと感じる。中高生のころ、徹夜で数学の問題考えて解いたりしていた。幼少期までさかのぼると落書きやパズルにレゴ、いや、言葉で説明できないような自分の世界に没頭してた。そんな風に他のことをすべて忘れて過ごすような時間がなくなってしまった。可処分時間はSNSやニュースに占められ、残された時間での費用対効果を重視した結果、いつしか時間がかかりそうなことは避けるようになってしまった。すごくやってみたい。でもこれ役に立つ?金になる?そんな計算をするせいでやらないという判断をする。それが大人になるということだろうか?確かに限られた時間の中で効率をよくしていくことは大事だ。でも効率を重視するあまり、なかなか手を出せなくなってしまったことがある。可能性の海に飛び込めない、獣になれない自分がいる。コスパってかしこいふりして不自由なのだ。

毎年恒例GWがやってきたが、今年は緊急事態宣言により、なんと在宅休暇である。遊びに行けなくて残念と思う人が多いかもしれないが、正直ぼくはうれしい。なんせ合法的に引き込もれるのだ。作ろうと思っているモノや考えようと思っているコトでモヤモヤまみれの日常なので、じっくり向き合えるときを待っていた。いつもと違うGWになってしまったことは、いつもと違う過ごし方ができるということ。今だからこそ普段の生活を見直せると思うのだ。

普段、特に忙しくない日でもなかなか生活を見直す余裕が持てないのは、様々な習慣が持てる時間を最密充填してしまっているし、日常を別の角度から眺めてみようという態度とか余白が足りないからだと思う。見直すというのを行動で言い換えると、「時間を使っちゃってる習慣や考え方をやめてみる」それによって「なかなかできてない本当にやりたいことをやってみる」というチャレンジであり、GWが終わるころには少しでも新しい判断基準と態度を持っていたいということだ。

やめてみたいことを思いつきで挙げてみると、Twitterを見る、ニュースを読む、勉強する、酒を飲む、noteを書く、オナニー、あたりが思い浮ぶ。なぜこれらが挙がったのか?これらによってリソースを奪われているか、もしくは誤った向き合い方をしており、本当にやりたいことができない原因だと感じているからだろう。要は、別のことにリソースをかたむけたい。

Twitterは、ぼくがもっとも時間を使っているSNSだ。iPhoneのスクリーンタイムでトップであり、デスクトップPCで作業していてもなにかと開いてしまっている。もっとも時間を使っているのだから、やめるだけでかなりの時間が解放されることになる。が、そうもいかないのはTwitterが好きだしTwitter自体のせいではないからだ。考え方がおもしろくてツイートを追っていた人もいたし、いい影響を受けたこともある。アイドル、コスプレイヤ、漫画家、イラストレータ、CGアーティストが投稿する画像や動画が好きで見ていて刺激になるし、動物やネタのツイートで癒やされ笑っている。

だからといって手放しに今のままTwitterを受け入れる気持ちにもなれないのは、開いてしまっている、見させられてしまっている、という自覚があるからに他ならない。見たいから見ている一方で、コントロールできていない部分が否めないのだ。Twitter社はビジネスとしてユーザの滞在時間を増やし、ツイ廃人口を増やすべく最適化を試みているはずで、その方策の中にはユーザや社会にとってマイナス面も隠れている。いい面や悪い面に無自覚なまま乗せられてしまうのは「酒に飲まれる」なんかと同じだ。だから自分なりの接し方を自分で選ぶ必要があるのだ。

例えば毎日のように政権批判や誰かの炎上騒動がトレンドに上がって、注意を引きつけられてしまう。実際のツイートを見ると怒りを表明している人やそれに反論している人がいるが、これらの多くは問題解決に一切寄与しない不毛なポジション取りツイートバトルである。というのも、1ツイートの文字数は十分な解像度でモノゴトを考えたり語るには少なすぎるし、本当になにか問題を解決しようと思うならツイートする前に別の行動を取っているだろう。そしてツイートにはいいね数、リツイート数やインプレッションという数値化された目に見える評価基準が存在するため、トレンドに乗っかって注目を集めるというインセンティブが働くせいで、くだらないツイートがあふれてしまう。流れが速く、次の日にはすっかり忘れて別の話題に飛びついているのだから、何も考えていないし問題を解決する気がないのは明らかだ。プロフィールを見ると政治家だったりして驚愕することもある。巻き込まれると本来考える必要のないことを考えさせられてエネルギーを奪われ、本当にやりたいことができなくなってしまう。

Twitterのアーキテクチャに責任を押し付けるよりは、それによって露呈する人間の弱さに目を向けたい。ぼくも弱い人間だ。だからこそ自分なりの判断基準と態度が必要だと思っている。炎上ネタは追わない。政治や社会の話はTwitterではなく、解像度が高く自分が信頼できる情報源を選ぶ。易きに流れず、かと言って完全に遮断せず、自分の距離感を探して身を守ろう。自分が弱い人間であることを認めて、あくまで正義感ではなく自分のためと考えればできそうだ。不毛なポジション取りツイートバトルも、みんな正義のつもりでやってるのだろうし。

ニュースをどれくらい読むかも見直したいところ。GoogleニュースやNewsPicksから記事を選んで読んでいたら1時間以上経っていたりするので、これをやめるインパクトは大きい。しかしニュースを全く読まないのは世の中のことがわからなくなりそうで不安だ。でも減らしたい。どうすればいいか?

読んだ記事がすべて役に立っていると感じているなら減らしたいとは思わないだろう。減らしたいと考えているのは、意味のない記事を読まされていると感じているからに他ならない。ここにヒントがありそうだ。1つ言えるのはニュース記事もPVを増やすため、クリックさせるためにあえて謎めいて気になったり不安になったりするタイトルを付けることがあるということだ。そしてなんとなくクリックして内容の無さにがっかりさせられる。

この無意識にやってしまっていたタイトルクリックは、意識すれば抵抗するタイミングとして機能するはずだ。タイトルだけで内容がわかるものはクリックしない。興味のない芸能人のネタはクリックしない。そして感覚で大体わかると思うが、煽りタイトルと感じたものは気になってもクリックしない。このような方針はどうだろうか。

時間があるから勉強しよう。というのは割と自然な発想だと思うが、無理してやらなくていいと思っている。以前は普段忙しいから時間がたっぷり取れるときに勉強せねばと、強迫観念のようなものすら感じていたのだが、先に勉強ありきの勉強は、何も生み出さないのに時間ばかり食いつぶすことに気づいた。勉強以外にもやりたいことがたくさんあるのに、勉強してたら時間がなくなったなんて本末転倒だ。

そもそもなんのために勉強するのだろう?なにかやりたいことがあって、そのために必要だから勉強をする。そして何を勉強しなければならないかは、動いてみて初めてわかることだ。勉強は動いてぶつかって自分で考えた先にあればいいと思う。

ぼくは帰宅後に缶ビールを1本飲むくらいの飲酒習慣がある。日本酒も好きだし、強い酒も好きだ。でも多く飲めばよりうれしいとは思わない。長期休暇に飲酒量は増えないしオンライン飲み会もしない。多量の飲酒が頭と体のリソースを奪うことをわかっているし、他にやりたいことがたくさんあるのだから。

noteを連続投稿すると「2週連続すごい!」みたいに褒めてくれる。最近投稿できてないなぁと感じると軽いプレッシャーを感じる。投稿することに対する意識は強いモチベーションになって良いけど、自分と向き合うという意味では外乱にもなりうるのではないだろうか?

というのも、伝えたいよりもスキされたい読まれたいが先立ってそこに最適化しようと努力してしまうと、自分が本当は何を考えていたのかすらわからなくなり、いつのまにか思い入れもなく伝えたくもないことを書いてしまう状況もありうるのではないだろうか。読まれたいのは自然な欲求だが、それに引きずられすぎると本末転倒になる。読まれるかどうかはいつも気にしているべきことではなく、ちょっと気にするくらいでいい。何を考え何を伝えたいかに意識を持っていかなければならない。投稿することが目的ではないのだから。

本当に自分と向き合いたいなら、投稿などせずただ孤独に、あえて自分だけのために書いてみるという姿勢も試す価値があるのではないだろうか。noteやSNSで書いている限り孤独ではない。投稿するにしても急がなくていい。自分の中により深くもぐりこんで孤独にこねくり回して熟成させなければ生み出せないものもあるのではないだろうか。そんな風に書いてみるのも、ありだと思った。

オナニー?オナニー不可避。オナ禁は不可能。

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