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ふわふわな視界

僕には生の実感がない。毎日の生活が夢の中の出来事のようにふわふわしているように感じる。この感覚がどのようにして生まれたのか、具体的なきっかけなど思い当たることは無いのだが。この感覚は僕の中で切実な問題として存在している。もちろん、僕だって腹が減れば食うし、眠ければ寝る、カッターで指を切れば血も出るし痛みもある。でも、そういう生理的なところとは別のところで、自分が生きているという実感が欠落しているのだ。自我が肉体に収まりきっていなくて、少し自分を観察しているような感じがする。

自分の中で色々原因を考えてみると、思い当たることがいくつかある。一つは、僕がまだ大人として社会参加をしていないということ。僕は大学を卒業してからすぐ今の大学院に入学したので、いわゆる社会人として仕事などをしたことがない。それはつまり、僕自身の社会的な身分が具体的な役割を獲得したことが無いということだ。「何をしているの?」と聞かれれば「学生です。」と答えるだろうが、それはつまり社会的には何者でもないということ。自分の食い扶持を自分で確保していないというのが、僕の生の実感を欠落させている可能性の一つとして挙げられる。

もう一つは、自分の日々の暮らしを支えてくれている社会、経済、文化、国家などが大きすぎて、自分の生が何に支えられているのか皆目見当がつかないということだ。スーパーマーケットで買い物をしても、その豚肉がもともとはどんな豚で、どこの誰がどんな思いで育てたかななんて全く無視して今晩のカレーの具材としてドボドボと鍋に加えられる。それって、何かおかしくないか?しかも、僕たちの暮らしを支えているシステムが案外盤石なものではないということは、この二十数年の人生で何度も見てきた(リーマンショック、親族の死、東日本大震災、パンデミック、ウクライナ戦争)。だったら、今ここに居る私は何によって生かされているのか?私が主体的に生きているという根拠はなに?そんなことを感覚的に感じ取っている可能性もある。

まだハッキリとしたことは言えないが、これらが今思い当たる生の実感の欠落の原因だ。そして、この二つに共通して言えることは、私という個人や社会を内包する全体としてのシステムがどのような「確かさ」の上に成り立っているのかが見えないという状況だ。そういう意味で、これから自分が自立した人間として生きていくのなら「確からしさ」そのことを抜きにしては、しっかりと生きていけないような気がしている。





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