見出し画像

両親の面倒を見ながら修行する ルアンポー・プラモート師


父・母の面倒を見る人もいます

両親が年老いて

物事をはっきりわからなかったり

考えに浸り込んだり

よく忘れたりします

一日中汚したり

何を言っても

話をきかないのです

なぜ話を聞かないのか

なぜならば

聞いてもよくわからないからです

そしてごちゃごちゃにして

汚してしまうのです

その為に私たちの心が怒ってしまうのならば

功徳が無いばかりでなく

悪行為になってしまうのです

私たちは

自分の心を

両親に対してこのように置いてみるのです。

私たちが小さかった時

うんちをしておしっこをして

沢山汚し、汚くしてきたのです

それでも両親は文句を言わなかったのです

しかし両親が年老いて

汚くしたとき

私たちはそのことに怒っているのです

両親がかつて私たちに

そのように接してくれたことを

思い出すのです。

ですから

両親から与えてもらったことを

返してあげるのです

すると心はクソン(善)になるのです

あるいは

もう一つ高い段階に行くのならば

心がイライラするときに

父の事がうっとうしく思ったり

母の事を気に障ったり

私たちには

イライラが生じ

それが留まり

そして滅することを

観察するのです

これはさらにクソン(善)の高い行為なのです

ヴィパッサナー修習で高めることが出来るのです

子供を育てる時も

同じですよ

両親の面倒を見る時も子供の面倒を見る時も

同じです

子供の面倒を見る時には

人生にまだ期待があります

しかし

両親の面倒を見る時には

期待はありません

なぜならば

毎日が大変であることが

続いていくからです

子供を育てる時には

ある日、重荷から解放されます

成長していくのです

ですから

子供の面倒を見ることは

大人のそれよりも易しいのです

心を置きやすいのです

子育てはある時は

とても幸せを感じます

両親の面倒を見る時には

あまり幸せを感じないのです

大変だと思い

将来良くなるという風には

観えないのです

大変になってくことばかりなのです

しかしもしも

与えてもらった恩を忘れない

というところに心を置くのならば

功徳になるのです

してもらったことのお返しに

やるべきことを行うのです

そして

もう一つ高い段階にいくのならば

ヴィパッサナー修習を行うのです

自分自身の心を観察してくのです

両親のうんちを拭き

おしっこを拭き

私たちは

身体が動いていて

心はそれを観ているのです

このように訓練しても良いのです

ですから

修習の基礎となることを

知っているのならば

何を行っても善行為になるのです

何を行っても良いのです

修行する時間がありません

ということは無いのです

仏暦2566年1月29日


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?