貝多羅葉(ばいたらよう)

タイ仏教の法話翻訳や瞑想会、気が付いたことメモです。よろしくお願いします。

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心は獰猛な牛のよう ルアンプー・プラモート師

修習(バワナー)は 心を無理やり静めようとすることではありませんよ 100人瞑想者がいればほとんど全員が 修行の事を考えない時は 心は何かに浸り込んでしまっているのです 世間の人々が浸り込むのと同じように 浸り込んでいるのです ただ違うのは 瞑想の時間になると座り 自分を無理やり思い通りにしようとするのです 身体と心を強制しようとするのです 「どうすれば心が静まるのか」と 思い通りにしようとするのです しかし これは正しくありませんよ 本当の修習

    • ナンティラカ ルアンプー・プラモート師

      私達はサティパターン(四念処)を行っています であるならば 自分自身の心をよく観察しなければなりません 私達が 身体・感受・心を観ていくことで 煩悩は減っていきましたか? 善(クソン)は高まっていますか? ただ呼吸を観続けていくならば 心は落ち着き 明るく広々した空っぽで 幸せしか生じないのです すると その状態が嬉しく 満足でボーッとし 座る瞑想に幸せを感じてしまうのです しかいそこには 煩悩があるのです これをナンティラーカと呼びます

      • 死ねば苦が終わると思うな ルアンプー・プラモート師

        何人もの人が苦(ドゥッカ)が生じ 心が非常に苦しみもがき 首を吊って自殺します 非常に鬱になるのです 首を吊って死ねば 自殺すれば この苦しみから逃れられると思っているのです なぜならば 心がその「飾り立てられたこと」にはまり込んでいるからでです しかし 死ねばそれから自由になると考えてはいけません 以前こういう人がいました その人の家はタウンハウスの中にありました ルアンポーは自分の家で寝ていました 早朝の朝4時か5時ころだったと思います 女の

        • 感覚を感じる メーチー・ジュン師

          サマーティ(定)という言葉 サティ パンニャー(智慧) シン(戒)などは これらは心の状態を表してる言葉です それぞれ連なっている関係なのです ある人はチャイ(心と言ったり)チッタ(Citta)と言ったりします ウィンヤーン(識蘊)と言ったり 地水火風を知る要素と言ったりします いろいろな言葉で表現されています どんな呼び方をしても構わないのですが 本質的なことは 「感覚を感じる」 ということなのです 身体の感覚を感じる これは言葉で表すと 「

        心は獰猛な牛のよう ルアンプー・プラモート師

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        • タイ仏教のお経のページです
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        • 八正道 ルアンポー・プラモート師
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        • Freedom from suffering 苦からの自由
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        記事

          チャンスを逃さない ルアンプー•プラモート師

          相当な長い年月を経てひとりの仏陀がこの世に誕生するのです 仏陀の教えのある時代に生まれた私たちは 心して修習(バワナー)に取り組むのですよ ある人はとても可哀そうです 善く修習をしており そして 結婚したいと思うのです 結婚したいと思うことは大したことではありません 他の宗教の人と結婚したいと思うのです その宗教では 改宗しなければその妻になる人は結婚できないのです それを見ると 本当に可哀そうに思います なぜならば 仏陀は長い歳月を経てひとり誕生

          チャンスを逃さない ルアンプー•プラモート師

          献花を修習(カマターン)に使う ルアンプー・プラモート師

          私達は仏陀に献花を捧げると 幸福を感じます 仏陀に手を合わせ 善き事、正しいことをしたと感じ 心が喜びを感じるのです 心を集中させる時は 喜びを感じることを 心に興味を持たせるのです その興味を持たせることを使い 対象の修習(アロム・カマターン)を行うのです 心が興味を持たせる対象と共に居るのならば それほど長い時間が掛からず 心は静まるのです わかりますか? もしもバワナー(修習)の原則を掴んだのならば 容易に実践することが出来るのです しか

          献花を修習(カマターン)に使う ルアンプー・プラモート師

          人それぞれの理解は違う ルアンプー・プラモート師

          私たちがダンマを聞いて理解する事 そして修習(バワナー)を続けていくと 私たちの理解というものが変わってきます 「わかった」「理解した」と思っていたものが 本当は理解していなかった ということに出会うのです 私たちが「理解した」と思っているダンマは本当に沢山有るのです 例えば四聖諦 ルアンポーが小さい時から 学校で仏教の時間に学びました 小学校の頃から勉強したのです しかしそれは子供なりの理解だったのです 涅槃とは死ぬことで ですから死ぬのは嫌だと思

          人それぞれの理解は違う ルアンプー・プラモート師

          内側の苦(ドゥッカ)メーチー・ジュン師

          誰かのことを責め立てる時 本当の実は自分自身を責め立てているのです なぜならば 業は自らに戻ってくる種類のものだからです サマーディの力は その瞬間に自分に戻ってくるのです ・・・ 修業をする人々にとって 苦(ドゥッカ)とは 大変であること たとえば貧しいことが苦と理解されがちです しかし これは外側の苦なのです しかし 本当の苦(ドゥッカ)とは内側の苦の事なのです 気分のせいで心に苦(ドゥッカ)が生じるのです 自分の中に生じる思考のせいで気分

          内側の苦(ドゥッカ)メーチー・ジュン師

          有は苦 ルアンプー・プラモート師

          なぜ心は有*に執着するのでしょうか それは 心は幸せに飢えているからです その続きを観るならば 心がそこから離れて一定ではない と観るだけではなく 別の観かたも出来るのです それは 心が有に入るならば その瞬間に心に苦が生じる ということです ではなぜ心は有に入る事を好むのでしょうか なぜならば こころは「幸せを探すことが出来る」と思っているからです 私たちを騙していることの一つ それは性行為です なぜこの世の人々は 性行為に浸り込んでいるの

          有は苦 ルアンプー・プラモート師

          意志の働き ルアンプー・プラモート師

          意志が生じた時 浸り込みが生じます そして 心が何かをしようと働き始めるのです それは悪いことを意図していなくても その様に働くのです 意図の働きです 意図が生じ それへ浸り込みの働きがあります すると 心を強制する圧力 身体を強制する圧力がかかるのです 身体が押し出され 心が押し出される働きが瞬間に起こるのです 心はアッター・キラマターニュヨー(苦行;無理やりしようとする)の道に 苦を感じながら落ちてしまうのです 座る瞑想をしている時でさえ

          意志の働き ルアンプー・プラモート師

          心が辛い時どうすればよいか? ルアンピー・セーン師

          在家のあなた あなたに問題が生じ 苦しく、ストレスで、不安な時 あなたはどうすればよいでしょうか 1つ目は「考える事を止める」 2つ目は「そのことを話すのを止める」 3つ目は「それを追うのを止める」 そして 自分自身に少し時間を与えてあげるのです 「忍耐」を少し使うのです そして状況が少しづつ良くなってくるのです 焦って結論づけなくて良いのです いつそれが起こるのか知る必要は無いのです それを自然の流れにまかせて手放すのです そして 自分の役割・

          心が辛い時どうすればよいか? ルアンピー・セーン師

          正しいサマーディの方法を学ぶ ルアンプー・プラモート師

          私たちの心というものは 目移りすることに慣れてしまっています ですから サマーディ(集中)の状態を訓練しなければなりません サマーディとは心が身体感覚と共にあるということです 自分を忘れた時 それは 身体を忘れ 心を忘れた時です 心が彷徨い サマーディ(集中)が無い状態なのです 身体感覚に浸り込む時 心の状態に浸り込む時 その時にはサマーディがあります しかしそれは普通のサマーディ(集中)なのです 仏陀の教えのサンマー・サマーディ(正定)では無い

          正しいサマーディの方法を学ぶ ルアンプー・プラモート師

          掴む勇気があるのなら手放す勇気を持つ ルアンプー・プラモート師

          修業に熱心でありますように 一生懸命に修業するのです 私たちの人生の時間は刻々と 過ぎていっています 残りの時間は少しづつ 短くなっているのです 意味の無いことは 捨ててしまってよいのです 掴む勇気があるのならば 手放してしまう勇気を持つのです 虚しさから逃れようといつまでもしていますが 虚しさをいつ手放せばよいのか それは 今すぐ手放すのです 世間に何を求めるのでしょうか 世間には何もないのです 世間は私たちの事をただ使っているだけなのです

          掴む勇気があるのなら手放す勇気を持つ ルアンプー・プラモート師

          アチャン•チャー師 真実で無いものの裏側に真実がある

          ただ座り呼吸の出入りを観ていることでさえ その中にも心が騒がしく落ち着きが無いのです なぜそのようになってしまうのか観察したことはありますか? このようなことは私達が抱える問題なのです なぜならば それがダンマというものは その様な真実の状態の下にあるからです 真実ではないものの裏側に 本当の姿が隠れているからです ”「変わらないこと」という偽りは「変わり続ける」ということの上に有る”のです しかし 私たちは 「全ての事は変わっていく」ということを解っ

          アチャン•チャー師 真実で無いものの裏側に真実がある

          呼吸を無駄に捨ててはいけません ルアンプー・プラモート師

          私たちは 自分自身がそれに慣れるまで訓練しなければいけません 時間が出来た時はいつでも 修習(バワナー)するのです 呼吸を無駄に捨ててはいけません 気づきを持つのです 自分に合ったカマターン(瞑想方法) をするのです 気が散って 心に力が無い時 心を全く観れないとき その時は 身体を感じるのです 「身体が座っている」 「身体が呼吸をしている」と 「身体が動いている」 「身体が止まっている」と ただ居るのはいけません 時間が無駄になってしまい

          呼吸を無駄に捨ててはいけません ルアンプー・プラモート師

          なぜ修習(バワナー)がなかなか成功しないのか ルアンプー・プラモート師

          私達が修習(バワナー)する時 なぜなかなか成功しないのでしょうか 私達は死ぬほどに修習(バワナー)しているのに ある人は一生懸命実践したにも関わらず結果が出ないのです それはなぜならば 渇愛(タンハー)を伴って修習(バワナー)するから なのです 「やりたい」という気持ちが生じて 「実践をしたい」 「解脱し涅槃に到達したい」 こういったことをシッダッタ王子は見抜いていたのです その働きを追いかけて追いかけていくと 「渇愛があること」 それは 「執着」

          なぜ修習(バワナー)がなかなか成功しないのか ルアンプー・プラモート師