貝多羅葉(ばいたらよう)

タイ仏教の法話翻訳や瞑想会、気が付いたことメモです。よろしくお願いします。

貝多羅葉(ばいたらよう)

タイ仏教の法話翻訳や瞑想会、気が付いたことメモです。よろしくお願いします。

マガジン

最近の記事

アチャン•チャー師 真実で無いものの裏側に真実がある

ただ座り呼吸の出入りを観ていることでさえ その中にも心が騒がしく落ち着きが無いのです なぜそのようになってしまうのか観察したことはありますか? このようなことは私達が抱える問題なのです なぜならば それがダンマというものは その様な真実の状態の下にあるからです 真実ではないものの裏側に 本当の姿が隠れているからです ”「変わらないこと」という偽りは「変わり続ける」ということの上に有る”のです しかし 私たちは 「全ての事は変わっていく」ということを解っ

    • 呼吸を無駄に捨ててはいけません ルアンプー・プラモート師

      私たちは 自分自身がそれに慣れるまで訓練しなければいけません 時間が出来た時はいつでも 修習(バワナー)するのです 呼吸を無駄に捨ててはいけません 気づきを持つのです 自分に合ったカマターン(瞑想方法) をするのです 気が散って 心に力が無い時 心を全く観れないとき その時は 身体を感じるのです 「身体が座っている」 「身体が呼吸をしている」と 「身体が動いている」 「身体が止まっている」と ただ居るのはいけません 時間が無駄になってしまい

      • なぜ修習(バワナー)がなかなか成功しないのか ルアンプー・プラモート師

        私達が修習(バワナー)する時 なぜなかなか成功しないのでしょうか 私達は死ぬほどに修習(バワナー)しているのに ある人は一生懸命実践したにも関わらず結果が出ないのです それはなぜならば 渇愛(タンハー)を伴って修習(バワナー)するから なのです 「やりたい」という気持ちが生じて 「実践をしたい」 「解脱し涅槃に到達したい」 こういったことをシッダッタ王子は見抜いていたのです その働きを追いかけて追いかけていくと 「渇愛があること」 それは 「執着」

        • なぜ私たちは対象に集中してくっ付きすぎてしまうのか? ルアンプー・プラモート師

          なぜ私たちは対象にぴったりとくっついて集中してしまうのでしょうか それは まだ自分自身を観れていないからです しかし 修習(バワナー)を続けていくと 解るようになるのです 身体に集中してくっついてしまうのは それは渇愛(タンハー)が私達を駆り立てるからです 「修行したい」と思う事だけで 「修行したい」という思いに浸り込むことになるのです 「欲しい・したい」という欲が湧くことは 「心がそれに浸り込む」状態が生じます 意志(ジェータナー)が生じます そし

        アチャン•チャー師 真実で無いものの裏側に真実がある

        マガジン

        • タイ仏教のお経のページです
          12本
        • 八正道 ルアンポー・プラモート師
          14本
        • 個人的な話の入れ物です
          11本
        • 仏教用語
          6本
        • 業(カルマ)
          2本
        • Freedom from suffering 苦からの自由
          5本

        記事

          苦(ドゥッカ)を解決する偈(げい) ルアンプー・プラモート師

          人生でどうしようもない苦(ドゥッカ)に出会った時 ルアンポーは一つの偈(げい)を捧げたいと思います 人生で非常に重い苦に出会った時 どうしても解決できなくて ストレスでどうしようもない時 この偈を念じるのです この偈はとても短いのです その偈とは 「それはいずれ過ぎ去っていくのです」 過ぎ去らなかった苦は今まであったでしょうか? 無いのです 私たちの人生でどれだけの苦が過ぎ去っていったでしょうか 全ての事が過ぎ去っていったことがわかるでしょう 幸せが

          苦(ドゥッカ)を解決する偈(げい) ルアンプー・プラモート師

          「知る心」を使ってヴィパサナーする ルアンプー・プラモート師

          「知るという心」を使ってヴィパッサナーをするにはどうすればよいでしょうか それには 「対(ペア)になっており比較すること」が出来なければなりません 仏陀の教えを注意深く観察してください 仏陀は「対(ペア)になるもの」として教えました 身体であれば 「身体が息を吸う」 「身体が息を吐き」ます この二つは対(ペア)になっています。 身体が「立つ・歩く・座る・寝る」 これらは身体の状態を比較することが出来ます これらはペアになった関係性の事なのです 身体が「

          「知る心」を使ってヴィパサナーする ルアンプー・プラモート師

          サティは問題につける薬 メーチー・ジュン師

          「お寺に行く機会があったらいいのに」 この言葉を何度も耳にすることがあります 「お寺に行ければいいのに」 ほとんど毎回この言葉を耳にします しかし 「本気でお寺に行こうとしている人」に会ったことはありません つまり 「お寺に行こうと機会を作る努力する」という言葉は 明日と来世どちらが先にくるか分からない ということなのです もしも死、その時が来たのならば 準備は整っていますか 私たちはその時になってから 願を掛けても仕方が無いのです 私たちがそこか

          サティは問題につける薬 メーチー・ジュン師

          布施は易しい修業、しかし最も好きなものをあげる事は最も難しい メーチー・ジュン師

          布施は最もやり易い心の訓練です しかし 最も難しい修習は 私たちが最も好んだり愛するものを人にあげる事です わかりますか 感情というものが 少しづつ詳しく解ってくるのです 物を手放すつもりが無く それに執着している感情をどうして手放すことが出来るでしょうか? 同じことなのです そしてより詳しく明らかになってくるのです そして最後には 自分の命を手放そうとおもいますか? 自分の命をあげようと思いますか? 自分の命を捨ててしまうことが出来ますか? (

          布施は易しい修業、しかし最も好きなものをあげる事は最も難しい メーチー・ジュン師

          八正道14 ルアンポー・プラモート師

          (⑬続き)「善いことと・悪いことはどちらの方が行いやすいですか?」と質問した人が以前いました。ほとんどの人は「善いことの方行うのが難しい、悪いことの方が行いやすい」と答えるでしょう。そうでしょう?しかし 仏陀はそのように答えていません。仏陀は「善い人は善い行いをしやすい、悪い人は悪行為を行いやすい」と答えたのです。これは自分次第なのです。私たちが集めてきた業が法則によってその様になるのです。  ですから私たちはサティを高めていくのですよ、頻繁に何度も行うのですよ。それは心が身

          八正道14 ルアンポー・プラモート師

          八正道13 ルアンポー・プラモート師

           (⑫続き)ですから私たちはサティをもって身体と心を感じるように努力するのですよ。ルアンポーが何度も言うように法の実践の始まりは感覚を感じる事です。自分自身の身体と心を感じることから始まるのです  サンマーサティ(正念)とは四念処の事です。法の実践をある型で行う時、それは心で行う仕事です。カマターン(修習)とは心で行う仕事のことなのです。サティ(感覚を感じる事)からはじめます。身体の感覚、心の感覚を感じるサティを持つのです。サティが生じる時、生じていたアクソン(不善)は滅しま

          八正道13 ルアンポー・プラモート師

          徳(ブン)と職業 アチャーン・キティチェート師

          もしも私たちに徳(ブン)があるのならば どのような職業に就いていたといても 成功するのです これは 真実なのです 徳(ブン)とは幸せと成功です 容易な徳(ブン)とは 心を善く保つことです オーワタ・パティモーク(戒律)は 悪を洗い流し 善を促します そして 心を清らかにしてくれるのです

          徳(ブン)と職業 アチャーン・キティチェート師

          在家の修行者 ルアンポー・チャン師

          家族のいる在家者は 多くを求める必要はありません お経を毎晩寝る前に詠み 朝起きた時に詠み 朝夕に座り瞑想をするのです 一日20分行うのです これだけでも行うのです ルアンポー・チャン師

          在家の修行者 ルアンポー・チャン師

          八正道12 ルアンプー・プラモート師 

          (⑪続き)もしもブッダが独り涅槃は良いと言い、涅槃に行く方法が無いのであれば、涅槃はただのユートピア(桃源郷)であり理想郷に過ぎないのです。本当のそれを掴むことは出来ないのです。しかし、仏陀の涅槃は本当に到達することが出来るのです、本当に触れることが出来るのです。なぜならば仏陀はそこへの到達のやり方を示してくれているからです。  そのやり方とは八正道です。ルアンポーが説明してきた八正道です。正しく観ること、正しく考える事、正しく話すこと、正しく振舞うこと、正しく生活の糧を得る

          八正道12 ルアンプー・プラモート師 

          八聖道 11 ルアンポー•プラモート師

          (⑩続き)七覚支には何があるでしょうか、サティ、タンマ・ウィチャイ、タンマ・ウィチャイとは知恵を高めることです、つまりウィパッサナーを行うことです。ウィリヤ、精進努力すること。ピーティ、喜悦です。パッサッティ、とは心が停止する事。サマーディ(集中)そして、ウぺッカー(捨)です。最後はウベッカーに行き着くのです。ウペッカー(捨)とはルアンポーが言ったように心が定まり中間になることです。心が定まり中間にあることは七覚支が完璧になったということです。七覚支が完璧になったのならばすべ

          八聖道 11 ルアンポー•プラモート師

          法話を聞き続ける理由

          こんにちは今日はタイトルにもあります様に法話を聞き続ける理由について思ったことを書き綴ってみたいと思います これは法話に限ったことでは無いのですが 一度聞いただけではピンとこない事、経験があるのではないでしょうか。一方で随分と長い話であっても、一度聞いただけで要点を掴みしっかり頭に入っているということも経験したことがあるのではないでしょうか  理解できた時、私は長いトイレットペーパーの様な紙がうまく重り一枚の薄っぺらい紙になった様な感覚を覚えます、理解する、記憶するとい

          法話を聞き続ける理由

          本当は誰も自分の事を解ってくれない メーチー・ジュン師

          誰が自分のことを本当に解ってくれていますか? 友人や家族や愛する人など自分の周りに沢山の関係する人達がいると思いますが 彼ら彼女らは本当に自分のことを理解してくれているのでしょうか? しかし実際は その様なことはあり得ないことなのです 心の奥深くは孤独なのです 誰もが同じなのです 誰も自分の事を本当に理解しくれる事は無いのです 仏陀はメッター(慈悲)と共にありましたが メッター(慈悲)も愛も 見返りを求める為にするのでは無いのです ”あげる”だけなのです

          本当は誰も自分の事を解ってくれない メーチー・ジュン師