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輪廻の危険を観る人② ルアンプー・プラモート師

(続き)私たちが修習(バワナー)を続けていったのならば

「わたし」が老いていくとは感じなくなるのです

「身体が老いていく」と観えるのです

「わたし老いていく」 のでは無いのです

病気になったとき

「私が病気になった」のではなく

「身体が病気になった」と観えるのです

死ぬ時には

「私が死んでいく」のではなく

「身体が死んでいく」と観えるのです

「わたし」というものが

歳を取る

病気になる

死ぬことに入っていかないのです

そして

歳を取ること・病気になること・死ぬことから外れていくのです

阿羅漢は死ぬときに死なないのです

そうでは無く五蘊が壊れるのです

身体が壊れて滅するのです

肉体は身体の苦なのです

心は関係無いのです

しかし私たちは身体に何かが起こると

いつも心も関係してしまうのです

老いるならば「わたしが老いた」

病気になったら「わたしが病気になった」

死ぬ時には「私が死ぬ」のです

愛するものと離れなければならないとき

離れるという感覚が生じるだけではなく

「わたしから離れていく」と感じてしまうのです

好まないことに出会った時

「好まないことに出会った」という感覚だけが生じるだけでなく

「わたしが好まないことに出会った」と感じてしまうのです

いつも「わたしが」と感じてしまうのです

「わたし」という感覚が無くなるまで修習(バワナー)するならば

身体はあるが わたしのものでは無い

老い・病気・死も心まで到達しないのです

身体までにしか到達しないのです

好きなもの愛する人と別れる事に出会ったならば

心は浸り込んでしまうのです

好まないこと好きでない人に出会う時にも

心は浸り込んでしまうのです

心が浸り込まなくなった時

愛したり憎んだりしなくなるのです

そして

好きな事愛する人と別れても

問題無くなるのです

好まない人に出会っても

問題無くなるのです

ですから

十分に訓練するならば

解脱する為に死ぬことを待つ必要は無いのです

ルアンポーも修習を始めた頃このように思っていたのです

生老病死は苦であると

もしも私たちが苦の原因を洗い流したならば(滅諦)

苦からの解脱になると

ブッダはこのように教えていますが

「身体はまだあるでは無いか」

「それはまだ苦になるのではないか」と

思っていたのです

しかし

これは理解が間違っていたのでした

修習(バワナー)を続けていくと

身体は「わたしのもの」では無いのです

身体が老いることは「わたしが老いること」では無いのです

病気になることは「わたしが病気になる」ことでは無いのです

死ぬことは「わたしが死ぬ」ことでは無いのです

心に満足する事がぶつかって触れる

心に不満足なことがぶつかって触れる

これも「わたしのもの」では無いのです

このような満足不満足が触れることを私たちは選ぶことは出来ないのです

これは私たちの業(カルマ)に依るのです (続く)

仏歴2562年5月11日



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