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家族と高校について

ここに、私の家族の事について
話したいと思う。

当時私が、高校生だった頃。

家族構成は、父、母、私、弟の4人。
地方住まい。
父は会社員。
母は保育士。
弟は私より年齢が2つ下。

父という人間は、あまり話したりしないが
感情的に怒ったりすることもなく
暴力的になることもない。
よく、私に言っていたのが
自分の好きな事をして、
一生懸命にやりなさい。
途中で辞めるくらいなら、
後悔しないようにしなさい。

そういう父だった。

父は勤め先が遠く、早朝に家を出て
公共機関を利用し、会社の最寄り駅から
車で職場まで行くという
地方にしては、少し意外な感じだ。

都心部ならば、片道1時間なんて
多くの人が該当する。

だが、地方は多くの人が車通勤が普通である。

父は、冬場、日の出より早く家を出て
帰宅は日付を超えるか、
超えないかくらいに帰宅。
そんな父だが、早めに帰宅する時もあった。
そんな時は、
皿洗い、洗濯物片付け等をやっていた。
休日になれば、よく遊んでくれたし
掃除や洗濯もやっていた。
長期休暇には、どこかに連れて行ったり
色んな事を、経験させてくれた。
家族サービスは、本当に多かった。

母という人間は、気分の落差が激しく
感情的で、勉強をしなかったり、
成績が悪いと、よく物を外に投げ捨てたり
暴力的になっていた。
そして、更年期障害も相まってか、
ヒステリーに拍車がかかっていた。
そういう母だった。

そんな母が私は大嫌いだった。

母は、パートタイムで
自宅から割と近い所で働いていた。
保育士と言っても、母の場合
重度の障害児が対象である。
勤務時間は5時間程度だったと思う。
高校生の私にお弁当を作ったりしてくれたし
ご飯も用意してくれていた。
そう、普段はとても良い母だった。

弟という人間は
家族に対して、あまり色々関わらず
母に怒られないように、勉強して
部活に専念していた時期だった。
弟は、私と違って成績も良かったし
よく母に褒められていた記憶がある。
また、部活でも良い成績を取ることで
母の機嫌を維持していた。
弟は、本当に世渡り上手だった。

最後に、私という人間は、
当時は、内向的な所もあったが
基本的には、明るく割と社交的な性格で
物事をハッキリ言う傾向があった。
毒舌と言われる事も多かった。
協調性には少し欠ける所もあったと思うが
友人にも恵まれて、
友人とワイワイするのが好きだった。

少しここで、
進学した高校について話しておきたい。

高校が、当時少し珍しい学校で
自由な校風を謳い文句とした
[総合学科]という普通科から学科が変わって
まだ、2年目の新しい学科だった。

自由な校風というくらいなので
制服が一応あったが、
私服でも通学ができ、
ローファーじゃなくても、
スニーカーでオッケー。
通学バックなんて、何でも良い。
髪型も自由。
ケータイ(ガラケー)だって
普通に使って良かった。
ケータイが普及し始めた頃で
ケータイにデコレーションをしたり
やたらストラップがジャラジャラついていた。

制服は、始業式や、卒業、入学といった
式典に着用すれば良かった。

また、時間割も特徴的だった。
通常、5教科7科目と言われるが
最低限必要な、必修科目を履修すれば、
バイオリン、声楽、音響、画像制作、
ガーデニング、簿記、被服、
スペイン語、フランス語…等々
学校側が用意した、幅広い科目を、
決められた枠の中で
自由に選び、学ぶ事が出来た。

しかし、大学進学を試験で挑む学生には
全く無縁のカリキュラムだ。
そう、大学進学を考えて、
センター試験や一般試験を考えている生徒には
普通科と同じだった。

この学校は、進学をしたいなら、
受験に必要な科目を自ら選び履修しなさい。
そういうメッセージが込められていた。

そんな生徒が1学年あたり、
おおよそ1割程度該当してたと思う。
大学進学を考えている生徒が、
そのくらいの割合だったという事だ。

この自由な校風を謳い文句とした学校に在学し
高校3年になる時に、
私は母親と激しくぶつかり合う事になる…。
今後の私の人生に大きなキズを
残すことになるなんて思ってもいなかった…。


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