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香取慎吾主演「テラヤマキャバレー」レビュー(ネタバレあり)

※このレビューはネタバレを含みます。

日生劇場にて、香取慎吾主演の舞台「テラヤマキャバレー」を鑑賞した。

日生劇場 2024.2.9〜2.29
脚本/池田亮、演出/デヴィッド・ルヴォー、出演/香取慎吾、成河、伊礼彼方、村川絵梨、平間壮一、花王おさむ、福田えり、横山賀三、凪七瑠海ほか

静寂のなかにチクタクと響く秒針。どこからか汽笛が聞こえる。1983年5月3日火曜日、死の淵を彷徨う寺山修司(香取慎吾)は、夢の中で劇団員と共に戯曲「手紙」のリハーサルを行っている。そこへやって来た〈死〉(凪七瑠海)は、寺山に死ぬまでの猶予と、過去から未来を自由に飛び回ることのできるマッチ棒3本を渡す。交換条件は、〈死〉を感動させる芝居を見せること。
寺山が一本目のマッチを擦ると、近世へ。近松門左衛門が「曽根崎心中」を稽古している。二本目のマッチを擦ると、2024年の新宿へ。そこでは東横キッズやエセ寺山修司がたむろし、スマホをいじっている。
いかにして〈死〉を感動させる芝居を作るか。過去から未来を横断し、三島由紀夫、近松門左衛門、唐十郎、(野田秀樹)らとの邂逅を経て、彼が辿り着いたのは〈質問〉だった。

「国民的アイドル」香取慎吾の身体性

寺山修司といえば、(それこそタモリのモノマネが典型的なように)青森訛でちょっと照れながら喋るイメージが流布しているが、「テラヤマキャバレー」における彼は、従来の〈寺山修司のイメージ〉を逸脱する。

▲「徹子の部屋」に出演する寺山。「テラヤマキャバレー」における父親のくだりは、おそらくこのあたりを参照したのだろう。

香取慎吾演じる寺山は、自らを「俺」と称し、比較的強めの口調で、男言葉(「〜なんだ」「〜だろ」「〜か」etc.)を用いる。端的にいえば、本作品における寺山は、男性性が強調されているのである。長身の恵まれた肢体に黒のトレンチコートを纏い、燦々とスポットライトを浴びる香取慎吾の姿は、この上なく魅力的だ。香取慎吾の「男としてのカッコよさ」を最大限に引き出した脚本・演出は、まさしく観客の欲望に応えるものである。子供から大人まで誰もが知っている国民的アイドル、香取慎吾。「テラヤマキャバレー」は、香取の身体性あってこそのショーであるといえよう。
男性性に関連していえば、劇の最後に寺山が「僕」と名乗る。「俺」と「僕」、人称の揺れ。「香取慎吾が舞台上で演じる寺山修司」もまた、「寺山修司」を演じている。〈演技性〉は幾重にも折り重なるのである。

 時をかけるテラヤマ

夢のなかで、寺山修司は過去から未来を飛び回る。一本目のマッチを擦って辿り着いたのは近世。近松門左衛門に出会った寺山は、〈虚実皮膜〉が何たるかを目の当たりにする。
最も興味深いと感じたのは、2024年新宿にタイムスリップした場面だ。帰る家もなく、東横前にたむろする少年少女と、寺山修司を名乗るホスト。彼らは「本当の」寺山修司など知る由もなく、眼の前に現れた謎の男にスマホのカメラを向ける。やがて乱闘が始まり、その喧騒はキャバレーにも伝播する。
東横キッズらに寺山の言葉は届かない。彼ら/彼女らが覗き込むのはスマホであり、周囲には目もくれない。不良少女のひとりは、「寺山修司」を名乗るホストの子を妊娠する。現代(寺山にとっては未来)においては、寺山でさえ〈テラヤマ〉という記号と化すのである。
「もしも」などという問いを立てるのは、あまりにも発展性がないかもしれない。だが、もしも寺山が生きていたら、現代の孤独な若者――どれだけSNSで繋がろうと、その心が満たされることはない――を目撃し、何を思い、どんな言葉をかけただろう、と思う。
寺山の主宰した劇団「演劇実験室◎天井棧敷」は、家出した少年少女も加わったことで知られている。家や学校に居場所のない若者たちを受け容れ、新しい開かれた世界へ連れて行く。寺山の言葉や演劇には、そうした力があった。
現代の若者もまた、自己閉鎖的で孤独である。街の片隅でつるみ、ギャル語で喋る彼ら/彼女らに必要なのは、「自分語」であり、他者と語り合うための言葉なのではないだろうか。

寺山修司の言葉

1984年5月4日、寺山修司は肝硬変に伴う敗血症で、その生涯を閉じた。

寿司屋の松さんは交通事故で死んだ。ホステスの万里さんは自殺で、父の八郎は戦病死だった。従弟の辰夫は刺されて死に、同人誌仲間の中畑さんは無名のまま、癌で死んだ。同級生のカメラマン沢田はヴェトナムで流れ弾丸に当たって死に、アパートの隣人の芳江さんは溺死した。
私は肝硬変で死ぬだろう。そのことだけは、はっきりしている。だが、だからといって墓は立てて欲しくない。私の墓は、私のことばであれば、充分。

寺山修司「悲しき口笛」

9日、青山斎場で行われた葬儀・告別式では、「Come Down Moses」(作曲/J・A・シーザー)が歌われた。

みんなが行ってしまったら
わたしは一人で 手紙を書こう
みんなが行ってしまったら 
この世で最後の 煙草を吸おう

Come down Moses ろくでなし
Come down Moses ろくでなし
take me to the end
to the end of the world
take me to the end
to the end of the world

一番最後でもいいからさ
世界の涯てまで連れてって

寺山の夢の中で繰り広げられる劇は何度も中断し、周りを巻き込みながら、祝祭性を帯びていく。「人生はお祭りだ」そう訴えるかのように。後半、寺山は人々に質問を投げかける。言葉のキャッチボールを交わす彼の姿は生き生きとしており、〈死〉もまた、面白そうに傍らで見つめている。
ようやく芝居をやり遂げた彼は、〈死〉の手を取り、ステージの果てへと消える。寺山は「死んだ」。
とはいっても、それは肉体の「死」に過ぎない。

人間は二度死ぬ。一度目は肉体が滅んだとき。二度目は人々の記憶から忘れ去られ、言葉さえも失われたとき。寺山の肉体は朽ちたが、その言葉は今もなお、底しれぬエネルギーを湛えながら生き続けている。言葉は永久に不滅なのだ。
寺山の残した言葉は、何十年かかって我々のもとへと届く。ラストシーンで、観客が差し出されるのは黒電話の受話器。彼の投げかけた質問に、応答するのは今だ。




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