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変われなくなることはもっと怖い

凡庸な私には特異な表出(或いはアウトプット)を行うことはかなわない。いかに感じることや学びがあったとしても、脳で感じたことを指に伝えて思うように筆を動かすことは難しいのだから。

けれど、たくさんのリスト(インプットの軌跡という意味)を作ることは、私がどんな人間であるかを示すひとつの方法なのだと思う。

『好きな映画は何ですか』と聞くよりも
『どんな映画を観てきましたか』と聞く方が
ずっと、その人のことを知ることが出来ると思う。

リストは、趣味や嗜好、人との出会いを通じて受けた影響を色濃く反映するものだと思う。
たとえば、小学生の頃の私は父との会話を増やすために一生懸命、ジャッキー・チェンの映画をレンタルしたし、たとえば、ホラー映画にまるで興味がなかったのに、それを喜怒哀楽の全部を総動員して楽しんでいる横顔を誰よりも近くで見たいがために一緒になって観ることにしたこともそうだし、たとえば何度観ても泣かずにはおれない映画を並べてみると、私の精神性やコアのようなものが客観的に、そしてまざまざと曝け出される。

本や絵画、音楽、ファッション等どんなものもリストにしてみると、とても面白いと思う。広く捉えると仕事の考え方やフレームワーク、語彙なんかも同じことが言えると思う。私は引き出しが多くて深い方が楽しいと思うから貪欲に吸収したい。
決して長くはない人生の中で、見聞きが出来るものは限られている。なのに、世界はとんでもなく広く、そして深く、特異に満ちている。
固着しているのか、自信があるのか分からないけれど、バイアスがかかって、評論家気取りで論じる人がいるけれど、どれだけ見聞きしても、それは記憶ということでは増えてはいても、知識や考えの変容や醸成にはなっていないのだろうなあ。
リストはあくまでも記憶であって大切なのは、それをもって如何に吸収して、自分を変えてしまえるか、なのだと思う。勿論、これは稚拙な持論で誰かと戦ったり、コンセンサスをみるためのものでは決してないのだけれど。

インプットの過程は言うまでもなく楽しいけれど、それが自分自身のなかで変容したり、地層のように堆積してゆく様がまた楽しくて、そこから次に発せられたことばや行動そのものが変わってしまっているのを自分で発見して、ハッとする瞬間が楽しい。
自分自身がラボラトリーなのかもしれない。

だから、人は怖いと思っても、接することや学びを得ることは楽しいから、たくさん話を聞きたいと思う。冷たいようだけれど、接する中で人が変わらなくても別に私は困らない。外から見て、危ういなとか、違うのではないか、と思うことは忌憚なく伝えるようにはしているけれど、それは強制などではなくて、その人自身が接する多くの人の目や声の中から取捨選択すれば良い。
私はどんなにか納得いかなくても、それが嫌いな人から発せられたものでも、毒であっても、一旦はそれを飲み込んでみたい。その上で、結局それを正面から受容出来なくとも、傍論として参考材料になったり、自分の考えの確かめ算になっていたり、或いは考えに何らかの変容は生まれているはず、だと思うから。
変わることは怖い。けれど、変われないことはもっと怖い。特異で、唯一無二としていられるのなら、どれだけズレていても、奇人となっても称賛されるかもしれなくても、私は凡庸で、何かを生み出す才がない。その域の中での最大化を考えると、変わり続けるしかない。だから、変われなくなる時が来ることが怖い。

音楽やアート、お料理については、引き算の美学があるのだとしても、それはアウトプットのことであって、時として考えもまたシンプルにすることが必要だと思うけれど、インプットすることについては記憶野と理解さえ伴うなら増えても増えても構いはしないと思っている。

だから、こんなSNSというツールを介しても、沢山の人と接する機会を得ているから、沢山の対話の中で、リストを増やしていきたい。


たんなるにっき(その139)

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