反知性主義の台頭 - 東大阪市
反知性主義とは、知性よりも感情を優位にする主張です。
この反知性主義が台頭しています。
この記事では、知性ではなく感情によって教育や行政を動かしている思想信条を「反知性主義」と呼ぶことにします。
1.他国のプロパガンダに学ぶ
自国をよく知るためには、他国の状況を知ることが大切です。
物事をより良く考えるための基本的な思考方法は、比較することです。
他国ではプロパガンダが国民に広報されています。しかしながら、そこの国民はプロパガンダであることに気が付いていない様子です。
何故、気が付かないのでしょうか。
プロパガンダというものは、知性に訴えるのではなく、感情に訴えるのです。
知性に訴えていないのですから、(プロパガンダに乗せられた人は)知的に気が付くわけがありません。
大事なポイントは、知性ではないにも関わらず、知性であるかのように見せかけていることです。そして、それを与えられる国民は崇高性を感じてしまっていることです。
他国がそうであるならば、日本国においても同じような状況であると考えるのが妥当です。
さて、日本国においては、何がプロパガンダなのでしょうか。
2.反知性主義とは
感情によって教育や行政の方向付けをすることを「反知性主義」であると、この記事では定義しておきます。
感情を優位にするのであれば感情主義という用語を使えば良いように見えますが、知性を軽んじている、という批判の意味を込めています。
趣味娯楽であれば同類が群れますので感情を優位にして楽しめば良いのです。
しかし、多様な人が社会を構成する場合、お互いに知性は必要です。
残念ながら、多様な市民を取り扱う教育や行政が反知性主義に陥っているのです。
(参考)
「反知性主義」という用語に関する解説は次のサイトをご参照ください。
https://liberal-arts-guide.com/anti-intellectualism/
「反知性主義」(anti-intellectualism)という用語はアメリカにおける社会事象に対して使われました。それであるならば、日本版としての使い方があっても良いと思います。
3.反知性主義教育
日本人は教育を受けています。
教育を受けているのですから、日本人が知性に反する考え方をするハズがない、と思うでしょう。
しかし、学校では、知性ではなく、感情を優位にした教育が行われています。
(1)スポーツ競技
反知性主義の代表がスポーツ競技です。
学校の先生が先頭に立って推し進めているのですから「スポーツ競技が反知性主義であるわけがない」と感じるかもしれません。
でも、意外かもしれませんが、スポーツ競技は、知性でもなければ教養でもありません。
スポーツ競技は、対戦相手に勝って、過去の記録を塗り替えることを目的にしています。
競技者自身は将来への夢を持っているかもしれませんが、スポーツ競技の価値判断基準は将来ではなく過去の記録にあるのです。
過去の記録を重んじるため、記録を塗り替えた者は英雄扱いされます。
英雄が存在するということは、その他の者は英雄ではなく、崇拝する側の立場になります。
スポーツ競技によって人は群れを成し感情を高ぶらせます。
スポーツ競技は、試合にだけ注目させ、社会的背景を考えさせないように仕組まれています。
速く走ることは、知性や教養ではありません。
AチームとBチームが戦うことは、知性や教養ではありません。
ただの趣味娯楽です。
が、そこに崇高性を持たせようと教育しています。
スポーツマンは、練習すれば競技力は無限に伸びると信じているようです。
勝ち抜くことができるのは体力や経済力がある者です。努力や練習の成果だけではありません。
合理性の無い考え方のことを「精神論」とか「根性論」と呼びますが、スポーツ競技のためにあるような用語です。
学校には学科や学部があり、若者はそこに入学するのですが、そこに入学したスポーツマンはスポーツ競技しかしません。これでは学部や学科が何のために存在するのかわかりません。
(2)競技力の向上
体育会系教員が重視する教育はスポーツの「競技力の向上」です。
そもそも、競技力を向上させたからといって、何が良いのでしょうか?
スポーツ庁の計画の「国際競技力の向上」の説明には次のとおり書かれています。
「誇りや喜び、感動」や「関心を高める」ことは主観です。
主観のあり方は個人によって様々です。
主観が「国に活力をもたらす」ということはありえません。
このような主観が正々堂々と日本国の計画に記載されているのですから、日本国は知力の面で没落してしまっているのです。
地方自治体が策定する「スポーツ推進計画」でも競技力の向上を図る趣旨が書かれていますが、「何のためにやるのか?意義は何か?」という目的は書かれていません。
何故、書かれていないのでしょうか?
それは反知性主義だからです。知性に基づくのであれば説明できるはずです。
これらの計画を根拠にして「競技力の向上」が行政や学校教育の課題になります。そして反知性主義が再生産されることになります。
競技力を向上させなくても、スポーツ競技ではどこかの誰かが一位になります。一位になることには何も意味はありません。
学校教育における意義の無い科目として古文漢文を挙げることができます。古典学者は文化会系としての矜持を持っているようで、その意義について議論をします。
しかし、体育会系はスポーツ競技の意義に関して何の議論もしないのです。それは、そうです。スポーツ競技に意義など無いのですから。感情論ばかりですから言論で説明することはできないのです。
(3)事例:組体操
2015年に大阪府八尾市で運動会の組体操で子どもが重症を負う事故が発生し、組体操を中止しました。
しかし、その隣の東大阪市では組体操を実施し続けました。
組体操推進論者の言い分は次のような感情論ばかりです。
「挑戦し続ける」、「信頼感の醸成」、「長年の伝統」、「子供のあこがれ」、「感動」、「周囲の歓声」
体育会系は感情に訴え拡大しています。
教育対象は子どもなので感情で誘導されていきます。
東大阪市では組体操を縮小する方向になりましたが、それはメディアが組体操について騒いだためです。反省を内面化したのではありません。
(4)事例:聖地花園
東大阪市立の日新高校は、ラグビー部だけを優遇する「トップアスリート連携事業」を公費で実施しています。プロのラグビー団体の花園近鉄ライナーズが指導者を日新高校に派遣しラグビー部員を指導しています。
このことは、学校のホームページには全く何も掲載されていませんが、市では予算・決算を認めています。
ひとつの公立学校内で公共の教育資源をラグビー部だけに支出することは不公平です。
また、東大阪市役所は高校ラグビーを「聖地花園」として持ち上げ美化しています。
<役所が聖地花園として美化している>
(5)精神構造
敗者を生み出すシステムがスポーツ競技という形で学校教育の中に組み込まれています。
敗北は精神的な苦痛を伴うハズですが、教育の現場では、この苦痛をどのように措置しているのでしょうか。
組体操と同じように、感動の渦で盛り上げているのでしょう。
勝者が教育者になった場合、「競技力の向上」を教育の目標に正々堂々と掲げることになるでしょう。こうして、スポーツ競技のあり方が再生産されていきます。
他方で、体育会系が主導する教育では様々な問題を引き起こしています。
学校の運動部活動の背景にはスポーツ関係の業者がいます。その業者は、スポーツ選手という商材を欲しており、学校で商材を発掘し育てるようカネを使います。
4.反知性主義行政
(1)感動を演出する役所
東大阪市役所が策定した総合計画のキャッチコピーは「感動創造都市」です。
役所自身が「この役所の政策は感動を作りますよ」と言っているのです。
この発想は民主主義に反しています。
役所は、多様な市民から評価を受ける立場なのです。多様であるため、中には反対の意見の持ち主もいることが想定されます。にも関わらず、「感動創造」と言い切ることは、反対の立場の市民を無視していることになっています。
例えば、東大阪市の大阪万博前イベント「HANAZONO EXPO(ハナゾノエキスポ)」についてです。このイベントはこれまで2022年と2023年の合計2回開催されました。2024年は、自民党、公明党などの野党の反対によって開催されないことが決まりました。
これのどこが感動なのでしょうか。
市長が開催しようとしたことが感動なのでしょうか。
仮に開催できたとした場合、それが感動なのでしょうか。
行政施策に対しては多様な意見が飛び交うのですから、誰かが感動すれば、他の誰かは苦痛なのです。
むしろ、行政施策に感動してしまうということは、気が付かないうちに少数派や反対派を無視してしまっているのです。
この総合計画には「選択と集中」という文言が出てきます。
「選択と集中」という文言は、民間企業における経営資源の割り振り方に関するものです。公共の事業に対して適用する文言ではありません。
しかも、東大阪市役所は「選択と集中」がSDGsであると位置づけていますが、SDGsであるわけがありません。
何かを選択するということは、何かを排除するということです。公共の事業のあり方は慎重に検討されるべきであって、「選択と集中」という社会運動のように一概に推し進めるべきではありません。
「選択と集中」が行政に適用された場合、ラグビーが選択され、ラグビーに公共資源が集中してしまうのです。不公平です。
(2)ラグビーのまち
反知性主義は「ラグビーのまち東大阪」として継続しています。
東大阪市役所という行政がラグビー愛好者によって乗っ取られ、多額の公的資源がラグビー関係に充てられています。そして、プロパガンダによって、市民の精神をラグビーで支配しようとしています。
東大阪市が所有する花園ラグビー場という箱物の維持に年間約1億2千万円もの税金が投入されています。これに対しては反対の意見があってもよいかもしれません。
東大阪市の公教育では、この箱物施設を維持管理することを前提とし、活用することを子どもに学習させ、公共施設のあり方として何の疑問も持たないように教育しています。
民主主義社会とは市民が行政を監視し意見を述べる社会です。
しかし、東大阪市の公教育では、「ラグビーのまち」政策に対して批判をする意思を無くさせ、行政に従うだけの愚民を育てる奴隷化教育をしているのです。
(3)ラグビー愛好政策
ラグビー愛好者がどのような思想を持っているのか注目する必要がありますが、その思想を行政に適用するに当たって言語化をしません。議論もしません。
政治による数のチカラで押し通しているのです。
背景には大物政治家がいます。
https://www.city.higashiosaka.lg.jp/0000007039.html
私は多くの意見を東大阪市に提出しましたが内容のある回答はありません。
第2次東大阪市スポーツ推進計画(2024年3月発行)のパブリックコメントで私は次の意見を提出しました。
この他にも意見を提出しましたが、東大阪市役所からの回答の多くは次のとおりでした。
私は私の主張が正論であると考えます。なので、意見・理由を述べました。
市役所は、市役所のやり方が正当であると考えているのでしょうが、それであるならば、その正当な理由を説明すべきです。しかし、この説明責任を果たそうとしないのです。
何故、説明をしないのでしょうか。それは、花園近鉄ライナーズへの利益誘導を目的にしているからだとしか考えられません。
(4)郷土愛を利用し業者に利益誘導
東大阪市役所は郷土愛(シビックプライド)を利用してラグビーを愛好するよう誘導しています。 次の引用は東大阪市の計画です。
シビックプライドとは、「地域への誇りと愛着」を表す言葉であり、ほぼ郷土愛と同じ意味です。定義は次のとおりです。
「花園近鉄ライナーズとFC大阪の2つのプロスポーツチームを市民が一丸となって応援することで、シビックプライド(地域への誇りと愛着:郷土愛)の醸成につなげる」という趣旨を東大阪市役所は主張しています。
そして、子どもを利用しています。
このような東大阪市役所の主張は不当です。
市民は多様であり、個々の市民が抱くシビックプライドのあり方も多様です。
役所の事業に「〇〇の醸成」 というものがありますが、これは民主主義に反しています。
〇〇の醸成は、市民が考えたり反対をする意思を無くさせるものであり、市民の主体性をないがしろにしています。また市民の内心に介入する行為であり不当です。プロパガンダなのです。
シビックプライド(郷土愛)の主体は市民であって行政ではありません。
シビックプライドという一見もっともらしい主張をしていますが、実態は花園近鉄ライナーズへの集客を促す結果になっています。
一部の民間業者への集客に加担する結果になることは、シビックプライドが偽善であることを示しています。
ラグビーという趣味娯楽の盛り上げは、民間業者が自主財源で行うべきです。
東大阪市では、ラグビーによって、知性ではなく感情を煽り、その感情に自尊心や郷土愛を結び付け、特定の私企業に有利になるようにしています。
(5)SDGsによる偽装
SDGsは人類にとって普遍的な目標です。
教育や行政そしてメディアによるプロパガンダが強いため、スポーツ競技がSDGsであるかのように錯覚をしてしまいそうになります。
しかし、スポーツ競技はSDGsではありません。
次の画像は 「第2次東大阪市スポーツ推進計画」(2024年3月)からの引用です。東大阪市役所はスポーツ競技をSDGsであると位置づけていますが、これは誤っています。スポーツ競技がSDGsであるかのように偽装しているのです。
例えば、SDGsの「3.すべての人に健康と福祉を」は広く一般市民を対象にした目標です。
しかし、「ラグビーのまち」はラグビー愛好者だけが満足する政策です。
次の画像に示した「ラグビーのまち」の「主な取組」に掲げられている各事業がSDGsではないことは明らかです。
役所が発信するメッセージとして不当です。
5.晴れやかな演出の陰
反知性主義は、知性ではなく、感情を重んじます。
だからといって、知性が無いかのように振る舞うのではありません。
なんとなく理屈っぽく見えるように学校や役所やメディアが演出をするのです。
この理屈は論理的ではありません。例えば、SDGsであるかのように偽装をするのです。
東大阪市役所は幼児向けのマスコットキャラクターで人の心を引き付けます。このキャラクターは「ラグビーのまち」と郷土愛とが抱き合わせになっており、ラグビーへの愛好を促しています。
知性ではなく感情で訴えるので、言語で説明するのではなく、非言語的メッセージを表示するのです。
東大阪市役所の言い分は
「ラグビーを愛好するようには言っていません」
であり、責任回避をしているのです。
言語化していないものの、メッセージとしてはラグビーへの愛好を促しているのです。ここに詭弁があるのです。
(事実上、ラグビーへの愛好を促しているトライくん)
非論理的な理屈を真実だと信じることは人間の本性かもしれません。だからといって感情に耽溺するのではなく、人間である以上は知性を優先させた方が良いでしょう。
プロパガンダのあり方は、ラグビーという趣味娯楽に関してであっても、民主主義にとって重要な課題です。
民主主義のあり方に対して、市民は感度を上げておく必要があります。
以上