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教育と民度 - 北海道

平日に、正規の学校活動を停止させ、一部の生徒だけに限定して運動の #部活動 をした公立中学校があります。
北海道 #深川市深川ふかがわ中学校です。


問題提起

1年前(2022年6月23日)の出来事ですが、次のツイートで知りました。


事態の詳細

重要な箇所は次のとおりです。

本校は野球大会の当番校業務の他に多数の生徒・職員が各大会へ参加することから、 参加しないお子さんについては両日とも15時まで自宅学習といたしますので、ご家庭でのご配慮・ ご協力をお願い申し上げます。

2022年6月23日 中体連北空知大会に係る生徒の対応について(お知らせ)

中体連の行事に教育資源が吸い取られてしまうため、参加しない子どもに教育資源を配分する余裕はない、ということです。

校長の文書を次のとおり掲載しておきます。

2022年6月23日 中体連北空知大会に係る生徒の対応について(お知らせ)

69名の生徒が本大会に競技者として参加しました。
全校生徒数は、2023年4月時点で 157名です。競技参加者の割合はおおよそ4割程度です。

いさぎよく正々堂々とした校長からの通知であるため、周囲の人達は「あっ。これが正しいんだ。」と思い込んでいるのかもしれません。

(参考)深川中学校のトップページ>「学校からのお知らせ」>「6月23日 中体連北空知きたそらち大会に係る生徒の対応について(お知らせ)」

http://ed.city.fukagawa.hokkaido.jp/fukagawa-jh/bfur9f0000000268-att/bfur9f00000002ve.pdf

中体連大会の2022年度の様子は次の画像のとおりです。

中体連大会の様子(深川中学校のホームページ)

北空知きたそらち地域では、自宅学習措置を、他の学校も講じたのではないかと推測します。
北空知地区バスケットボール協会U15部会のサイトに、バスケットボールの令和4年度 中体連 北空知大会「空知大会予選」の結果が掲載されており、2022年6月29日(水)と30日(木)に実施され、深川中学校の他にも複数の中学校が出場していたことがわかります。

令和4年度中体連北空知バスケットボール大会 結果(2022年6月29日~30日)

北空知地域の芦別あしべつ中学校の「芦中だより」(令和4年6月28日発行第3号)の2ページには「中体連大会が開催されます」という表題で「・北空知中体連大会 6月29日(水)~30日(木)(大会に参加しない生徒は、自宅学習)」と記されています。

芦別中学校「芦中だより」(令和4年6月28日発行第3号)


論点

中体連大会に参加せず自宅学習を余儀なくされた中学生の教育を受ける権利について深川中学校はどのように考えているのだろうか。
教育の機会均等に反しているのではないか。
義務教育からの排除ではないのか。
教育を受ける人権や公立学校における公平性について、学校の先生は何か考慮しているのだろうか。

ちなみに、深川中学校では人権教室を実施しています。

深川中学校 人権教室

人権教室で「中体連大会と自宅学習」をテーマに取り上げてはどうだろうか。そして「自分に置き換えて考えたり、何ができたか、自分ならどうするかなど」について考え、交流して欲しい。

以上を整理すると、次の論点を挙げることができます。

  1. 一部の生徒だけを公教育の対象にしたこと

  2. 一部の生徒を自宅学習という名のもとで公教育から排除したこと

  3. 中体連(公益財団法人 日本中学校体育連盟)のあり方

  4. 校長は上記論点に対して合理的な説明をすべきであること

  5. 教育委員会は上記論点に対して評価しそれを公表すべきであること

  6. 義務教育のあり方の議論であるため、保護者だけではなく、深川市の一般市民も議論に参加すべきであること

論点が多すぎて、本記事では全部を扱えません。
論点を整理した、ということだけでも本記事の意義はあるのかもしれません。

私は東大阪市の市民であるため、深川市の具体の件ではなく、一般的な市民参加のあり方について書き進めます。


民度

上記の深川市の事態を市民目線でどのように考えるべきか。

私としては「不当である」という評価なのですが、校長や中体連は実施しているのですから「教育的意義は全ての生徒に対して公正に存在し、当然であり正当である」という評価でしょう。

仮に私が深川市民であれば、深川市教育委員会に市民の声を伝えます。

私が不思議なのは、何故、深川市民が問題提起をしないのだろうか、ということです。

自分は、自分の視点にいるのですから、「自分ならこう考える」とは言えます。
でも、他者が、何故、意見を言わないのか、という事情は、推測するしかありません。

公平に分配すべき公共の義務教育の資源を、運動部の生徒に限定して配分したのですから、自宅待機を余儀なくされた子の保護者の立場からすれば、「公平性が無い」という趣旨の意見を提出するのが妥当だろう、と思います。
また、公共の資源ですから、保護者ではない一般市民も意見を提出しても良いと思います。

何故、意見を言わないのか。

たぶん教育が民度を設定し民度が教育を設定するという相互作用があるのではないか、という仮説をもちます。

民度の定義はWikipediaでは次のとおりです。

民度(みんど)とは特定の地域・国に住む人々または、特定の施設・サービスの利用者(ユーザー)・参加者・ファン等のある集団の平均的な知的水準、教育水準、文化水準、マナー、行動様式などの成熟度の程度を指す。民度は高いほど良いとされている。
特定集団のある平均レベル・マナーの度合い以外に明確な定義はなく、曖昧につかわれている言葉である。

Wikipedia 「民度」

私は「不当である」という考え方ですから、深川市の民度は低いという評価になります。

しかし、誰しも、民度が低いなどという評価を受けたくはないでしょう。

深川市の立場からすれば、「スポーツ大会への参加は重要であって、それによって参加しない生徒に対して不利益な処遇がなされることはやむをえない」という考え方かもしれませんから、「社会事象を、民度という一個の視点だけではかるべきではない」という主張になるでしょう。
スポーツ大会は地域の伝統・文化のたぐいである、ということかもしれません。
そうなると、生徒への処遇の違いは、差別ではなく、区別であって、そこに社会的格差はなく、社会問題でもない、ということになります。

「ラグビーのまち東大阪」というのがあります。
私は東大阪市の市民なので住んでいてわかるのですが、実態として、東大阪市に住む多くの市民はラグビー愛好者ではありません。
「ラグビーのまち東大阪」は、ラグビー愛好者がプロパガンダによって作った虚構なのです。
でも、残念なことに、「ラグビーのまち東大阪」への反対論者は、50万人もの市民が住んでいる東大阪市の中で、私1人のようです。

教育や社会のあり方が変だ、と疑問や意思を表明する市民は少数です。
この場合、次の4点のどれになるのでしょうか。

  1. 知らなかった(情報を入手していない)

  2. 考えたことがない(情報を入手したが、思考せず)

  3. 変だとは思っていない(思考の結果、考えを表明せず)

  4. 変だとは思うが表明しない(思考の結果、考えを表明せず)

このハナシは民主主義のあり方にとって重要です。

民主主義をはぐくめない教育を実施・継続する意義はありません。
スポーツで優秀な成績を修めることと、社会的場面で自分の意思を表明できる能力をやしなうことの、どちらが重要でしょうか。


意見のあり方

誰しもが、自分の意見が正しいと思い、自分の意見を聴いて欲しいと思うでしょう。

この場合、誰にでも受け入れてもらえるような考え方に関連付けて、自分の意見を修正する必要があります。

そうすると、って立つ根拠は、人類の普遍的価値になります。
これが抽象的主張である限り、多くの市民に受け入れられます。

しかし、これを論理展開すると
「我々が依って立つ根拠は、地域の伝統や文化ではない
という主張に変換されます。

そうすると、残念なことに、地域の人達に嫌われます。
私が東大阪市という地域社会から嫌われているのは、論理を展開して主張しているからかもしれません。知らんけど。

民度という用語は曖昧あいまいですが、SDGsを評価する尺度である、という解釈もできます。
人類の普遍的価値を基準にすれば、民度の高低やSDGsへの評価もできると思います。


伝統の確執

「何も考えていないのは、あなたの方だ。
あなたは、もっと深く考えるべきだ。
変化すべきは、あなたの方だ。」
このような、相互のやり取りが、議論の際に行われます。

しかし、 #体育会系 は、れ・ふくらみ、感動などの情緒に重点を置いていますので、言論でのやりとりは困難です。
議論などを、しない、というのが体育会系です。
文字通り、体力勝負なのです。
これは、政治的に多数派になれば勝ち、という考え方に通じています。
多数派になれば考えたり議論したりする必要はありません。チカラまかせに押し通せば良いだけです。対立する立場の声を聴く必要はありません。

地域社会というものは、北海道も大阪も、どこも似たような構造だろうと思います。

少数派の立場から見れば、どこの地域も民度は低い、とうつるでしょう。
他方で、ある種の人達は、少数派を「意識高い系」と表現するでしょうし、「偏屈へんくつ者」と見るでしょう。

少数派(マイノリティー)は葛藤含みです。

所属や習慣などの社会的属性の数は多数存在しますので、多くの人は、何らかの社会的少数派に属しています。
なので、少数派のあり方を学習することは有意義です。
ここに #文化会系 の出発点があります。

体育会系は群れることによって、少数派を無視し又は消滅させます。
深川中学校の事例では、大会に参加しない生徒が、私の議論で言うところの「少数派」に該当します。
スポーツでは外国人が在籍しているので多様性を認めている、という主張があるかもしれませんが、スポーツという非日常世界で多様性を認めたとしても、それは現実社会ではありません。

文化会系は地域の伝統・文化を無視・破壊する、という批判があるかもしれません。確かに、そうです。
しかし、人類の普遍的価値を取り入れて進化をするならば受け入れます。
伝統芸能は文化会ではないか?という疑問・意見があるかもしれませんが、先人の遺物をコピーするだけであれば創造性がないため、単なる趣味娯楽であって、私の定義では、文化会系ではありません。

文化会系と体育会系の確執かくしつは、今後も、続きます。

以上

#教師のバトン