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古文漢文不要論の意義

学校教育における古文漢文の議論には意義があります。

「古文漢文不要論」は、実は、ハナシのネタとして古文漢文の話題を取り上げているだけです。
議論の本質は「学習とは何か」です。



1.貴族崇拝

古文漢文に意義がないと感じる人がいます。
その不平不満を思考の起爆剤として利用し「学習とは何か」を探求していけば良いのです。そういうやりかたも、学習の形態のひとつです。

古文漢文に意義があると感じる人もいます。
何故、そう感じるのでしょうか。
私自身の経験からすると、それは権威に対する畏怖いふです。荘厳そうごんなカリスマ性に魅了された、とも言えますし、貴族ブランドかれた、とも言えます。発端は情緒であって理性ではありません。

貴族はカリスマを演出しなければなりませんし、卑賎ひせんの者に対しては貴族への畏怖の念を植え付ける教育をしなければなりません。
貴族は「えらい」ですから、彼らの著書を拝読する者は貴族気分を味わえることになり、それが読む人の自尊感情を高めることになります。

しかし他方で、市民は自分自身を見失わないようにするため、
貴族あれば卑賎あり
という意識を持っておいた方が良いでしょう。

他国の情勢は客観的に観察できますので勉強の素材として有益です。
国家がその国の国民に施す教育は、本当に子どものためなのでしょうか?
国家のプロパガンダを教え込んでいるのではないでしょうか?
他国を見渡しますと、多かれ少なかれ、プロパガンダ教育をしています。
「他国はそうだけれど、日本は例外であってプロパガンダ教育をしていない」とでも考えるのでしょうか。

ちなみに、日本における昨今のプロパガンダは、愛くるしさを売り物にしています。
東大阪市は公費でラグビーの機運醸成じょうせいをしています。公教育では非言語的にラグビーへの愛好を進めています。民間のラグビー競技団体である花園近鉄ライナーズへの集客につなげようとしています。そしてそれらが、シビックプライド(郷土愛)であるとしています(第2次東大阪市スポーツ推進計画)。
この機運醸成に乗せられてしまった当事者の観点から見れば「東大阪市にはプロパガンダは存在しない」と見えてしまうでしょう。

東大阪市のマスコットキャラクターのトライくん
幼児向けの愛くるしさで、非言語的にラグビーへと勧誘するプロパガンダ用道具


2.意義の見つけ方

価値があるから学習するのです。
学習の結果として、今の自分や将来のあるべき自分があるのです。
学習の価値を問うことは、「どのような人間になりたいのか」を問うことであり、人生の意義を問うことにもつながります。

ある者は、文部科学省(日本国国家)が作成した学習指導要領から答えを見つけ出そうとするでしょう。
探してください!それが探求学習です!
で、そこ(国家が作成した要領)に何か答えが書かれていましたか?
仮に答えが書かれていた場合、「学習指導要領に書いてあるから意義がある」と考えるのは正しいのでしょうか?
仮に答えが書かれていなかった場合、それはそれで、大きな発見です。疑問が疑問を生むという現象は、学習が健全に進んでいる証拠です。

古文漢文の有意義性を議論する場合、古文漢文だけを議論することには意味がありません。
「他にもっと学習すべきことがあるんじゃないの?」という問に回答しなければならないのです。
有意義なのかどうかは、他の教材との比較で決まります。
物事の価値は相対的に決まるのです。絶対基準で決まるのは宗教です。

国語教育学者は、国語教育だけしかやってこなかったのではないでしょうか?スポーツマンがスポーツしかやってこなかったように。
国語教育しか知らないのであれば「古文漢文には意義がある」と答えるしかありません。比較対象になる他の事象を知らないのですから。スポーツマンが「スポーツ最高!」と叫んでいるのと同じです。
教員は子どもに学習を仕向けますが、教員自身が学習をしていないのではないでしょうか。

不要論者は、多かれ少なかれ、他の分野の知見を有しています。その知見などを含めて総合的に「不要である」と判断しているのです。


3.定額働かせ放題問題

大人は誰しもが、自分が愛好している分野を子どもに学習させたい・その学習を継続させたい、と思うでしょう。
このような、「自分がしているから」という理由で学校教育に詰め込んでいった結果、学校スケジュール過密問題・働き方改革・定額働かせ放題問題になってしまっているのです。

なので、少なくとも現状の学校教育においては、「自分は古文漢文を推しているから」という理由ではなく、「何が不要なのか」という観点から学校の制度設計をすべきなのです。
仮に古文漢文を推しているのであっても、それを推すのではなく、他の教科の中から不要な教科を挙げて批判すれば良いのです。古文漢文に関する推しの文言をいくら並べても、不要論者には何も説得力は無いのです。

そして、全ての教科に関する不要論を集めてきて、最も説得力のある不要論を採用して、その教科を廃止すれば良いのです。なお、私は、最も優先して廃止すべきは、(体育ではなく)スポーツ競技だと考えています。


4.無意味耐性

中学生程度までであれば意味が不明であっても、大人の指示に従って、やり通すかもしれません。
しかし、健全に育った高校生であれば知的能力が高まりますので「何故、勉強をするのか」という疑問を持ち、学習をする意義を求めます。
このような疑問が問題発見能力につながり、問題解決能力を養い、自律した大人に成長させるのだろうと思います。
残念ながら、学校教育では、学習の意義に関する説得力のある説明はありません。

意味のないこと(意義が不明なこと)を継続実施できる能力「無意味耐性」を鍛えることには何の意味もありません。自らを奴隷化しているのです。
若くて学習能力の高い学生時代に、ショ~モナイことを勉強させることは、日本国国家の国力を損失させることになります。
働き方改革がさけばれる昨今の状況においては、この問題は、喫緊の課題です。少しでも学校教育の負担を下げる必要があります。

無意味な言葉を朗々と読み上げることができ、無意味な仕事に必死に汗をかくことができる人たち、それが「無意味耐性の高い人」である。これは現代日本ではある種の「社会的能力」として高く評価されている。
受験秀才は「なぜこんなことを覚えなくちゃいけないんだ?こんな知識に何の意味があるんだ?」という問いを自分に向けない。

無意味耐性の高い人たち 内田樹の研究室

http://blog.tatsuru.com/2021/08/16_0819.html


5.不要の双璧

「古文漢文不要論」は、学校教育における不要ネタのひとつです。
学校教育では、もうひとつ不要な教育があります。
それは「スポーツの競技力の向上」です。
「古文漢文」及び「スポーツ競技力の向上」。
これらが不要の双璧を成しています。

「スポーツ競技力の向上に意味は無い」という言説は、教育界隈ではタブー視されているように感じます。それほど体育会系による実効支配は強力なのです。

速く走ることに何の意味があるのか?
AチームとBチームが戦ってAチームが勝ちました、って、そんなことに何の意味があるのか?
競技をせず、応援に専念する生徒にとって「学習とは何か」?

スポーツ競技は、知性でもなければ教養でもありません。
身体をこわすことがある、という意味では、体育でもありません。

古文漢文のあり方を議論する者は、賛成であれ反対であれ、考え方が異なる者の意見を積極的に聴こうとする姿勢があります。なので、文化会系の矜持きょうじを持っていると言えます。

それに対して、スポーツ競技推進者は、仲間同士で群れ政治勢力を形成して教育界隈を実行支配しています。下層の者は支配され従属し奴隷化することを目指しています。
体育会系は議論をしません。「学習とは何か」という問そのものがありません。それでいて、政治的に優位に立とうとしており、スポーツ競技者の雇用の場を増やすことを目指しています。子どもを競技のこまとしか見ていません。勝敗にこだわり、敗者は応援要員になり勝者を崇拝します。

私は古文漢文不要論を展開してきましたが、敵の本丸は、体育会系です。
さあ、文化会系のみなさん、議論が通じない体育会系をなんとかしましょう。


6.学習とは何か

「学習とは何か」
それは「主体性の確立を目指す」ことです。
主体性の確立を目指す学習は、一生をかけて継続させるものです。
「確立」とは言うものの、実際には、確立されることは理想であって、もろこわれやすいです。SDGsのようなものです。

主体性は、内発的であるため、教え込んだからといって成長するものではありません。主体性の確立は、中学生では無理でしょうし、高校生であっても困難でしょう。
しかし、教育者の立場としては、主体性の種を子どもに植えておく必要はあります。教育環境としては、育めるように整備する必要はあります。

主体性の確立という観点からすれば、スポーツ競技は排除すべき教育です。

体育会系が引率する群れたがる人々。その数は多いです。彼らは、積極的に群れを求め思考を停止させ主体性を放棄しているように見えます。
勢力を拡張したい政治政党が、主体性を放棄する人々を政治政党に取り込んでいくという社会的な図式があるのです。

50万人都市・東大阪市では「ラグビーのまち」を標榜し、数多くのラグビー事業によって、市民の精神をラグビーで支配しようとしています。うそっぽいですが本当です。アホっぽいですが、そのアホらしいことが現実に実行されているのです。
過疎のまちであれば「選択と集中」という発想によって「〇〇のまち」を標榜することはやむをえないでしょう。
しかし、東大阪市は50万人も住んでいるのです。市民は多様です。野球ファンがいればサッカーファンも多数いるのです。文化会系の人々も多く住んでいます。東大阪市役所は多様性を無視しているのです。
ラグビー愛好者による実効支配の背景には政治政党がいます。

森喜朗会長が東大阪市に来られました(2013年5月)
https://www.city.higashiosaka.lg.jp/0000007039.html
ラグビー政策の強化を訴える自由民主党

趣味娯楽のラグビーという民間の商材を愛好するように公費を使って市民を教育しているのです。
群れを愛好するシステムは、実際には、一部の私人に利益を誘導してしまうリスクがあるのです。
何故そうなるのか。それは、近畿地方・東大阪市を実効支配する巨大企業の存在が暗示しています。

人気のないラグビーが延命しているのは社会的な背後があるからです。ラグビー競技が面白いからではありません。
このことは、古文漢文が延命しているのは何らかの背後があることを示唆しています。

「学習とは何か」という真摯な問とは関係なく延命し続ける教育は排除しなければなりません。


7.最後に

古文漢文論争から体育会系の議論に移行しましたが、「学習とは何か」という問題意識の下で、これらはつながっているのです。
真に学習の意義を問うのであれば、古文漢文に特化した議論ではなく、SDGsのような人類にとっての普遍的な真理との関係性のなかで議論すべきです。


(参考)

以上

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